Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録②

時刻表復刻版入手をキッカケに始めたシリーズは長くなりそうです。

【1964年9月時刻表復刻版】


2-4.道北廃止路線に係る想い出
北海道は十数回の訪問歴がありますので、思い出を少々紹介します。 と言っても貧乏旅は50年も昔で記憶も定かでなく、資料も残ってないのでその後の旅からですが(汗)

【網走川を渡る湧網線9600牽引貨物列車1974年】・・・ウィキペディアより
湧網線廃止は1987年、名寄本線廃止は1989年です。 2年後1991年夏休み家族北海道ドライブ旅行の際に中湧別駅に寄りました。 少し荒れてましたが駅舎もホームもそのまま、線路撤去もなくキハ22が側線にポツンと1両放置されてたのが印象に残ってます。


同旅行で訪問した美幸線廃線跡は、廃止から6年経過してた事もあり、レール・枕木撤去、草の生い茂った路盤盛土の中のわずかなバラストがその痕跡を留めてるだけでした。

【深名線キハ53 1994年】・・・ウィキペディアより
未だに不思議でならないのは勇網線と同時廃止で良かったハズの深名線が、名寄本線より6年も長生きし1995年まで存続し、旅行中に姿を見た事です。 名寄から深名線沿いの国道は未舗装で幅員も狭く、朱鞠内までの80kmにGSが一軒もなくガス欠にヒヤヒヤしました。


道東も主要道を外れると未舗装路が残ってました。 普通のサラリーマンのフェリー利用自家用車北海道ドライブ旅行が贅沢でなくなった30年前にしてそんな状況でしたから、更にその27年前、この時刻表時代の北海道道路事情はかなり貧弱だったと想像できます。

【神威岬2011年5月】
定年退職後の2011年にも北海道ドライブ旅行をしてます。 神威岬と言っても有名な積丹半島ではなく、区別する為に北見神威岬と呼ばれるオホーツク海に面した神威岬です。

【北見神威岬付近道路智頭】・・・所有ナビ画面
北海道全域地図で真っ直ぐに見えるオホーツク海岸線から小さく突き出した角の様な岬で、現在の国道は岬根元部分を直線的にトンネルが貫通してますが、旧国道は岬を迂回してました。 そしてかつて国道と並行し興浜北線も切り立った岬の崖下を迂回してました。

【神威岬2011年5月 興浜北線廃線跡にて】
美幸線と同時1985年廃止なので訪問は26年後でしたが路盤の崩れもなく、そこが鉄路であったとハッキリ解る地形でバラストも残ってました。


2-5.道央:消えた運炭路線
北海道開拓史は入植開墾による農業・畜産業と共に、石炭等鉱物資源開発の歴史でもあり、鉱石運搬路線が数多く建設されました。 全道に建設の中で特に道央に集中してました。

苫小牧-岩見沢-砂川から東(図右)に伸びる盲腸路線はこの運炭路線です。 これらの路線から積み出し港の室蘭/苫小牧へ1975年無煙化までD51牽引の運炭列車が走ってました。

【富内線履歴書:出典ウィキペディア】
一番南に位置する富内線は数奇な運命を辿ってます、私鉄から国有化へ、そして5年前に振内まで延伸開業し、行手を阻んでたトンネル難工事を行い翌年日高町まで30km以上延伸開業してます、ここにも1960年代が鉄道建設の時代だった証拠が残ってました。

【現在の石勝線】・・・ウィキペディアより
夕張線は1981年開通石勝線一部として現存してますが、夕張を結ぶ夕張支線は2019年に廃止されました。 夕張線の北に位置した万字線、幌内線、函館本線美唄支線と砂川支線もJR化後に相次いで廃止されました。

代表例万字線時刻表です、運炭主目的で働く人や家族の生活の足として旅客列車が上下各6本運転されてます。 面白いのは上り列車は30km弱路線所要時間45-46分(交換待ち除く)に対し、下り列車は57-62分要してる事で、山へ向かい上り勾配連続だったと解ります。

【歌志内線のキハ40】・・・ウィキペディアより
一番北に位置する歌志内線廃止は1988年です、今回調査で時刻表1963年には営業系数64、国鉄4番目の黒字路線だったと知りビックリしました。 閉山廃線後歌志内市人口は激減し、1990年代には『村より人口の少ない市』(筆者記憶3,900人)として有名でした。

【運炭私鉄の時刻表】
このエリアには国鉄線だけでなく私鉄運炭路線もありました。 上段大夕張鉄道は1987年廃止、下段美唄鉄道は1972年廃止、美唄鉄道には国鉄譲渡4110型が働いてました。

【美唄鉄道の4110型】・・・ウィキペディアより
1968年2月、受験名目で始めて北海道へ渡った際、美唄まで4110を見に行きました、スナップネガを紛失してしまい残念な事です。


2-6.性格を変えた札沼線
運炭路線でない札沼線は交通の障害になってた石狩川対岸を、函館本線と並行に札幌と留萌本線石狩沼田間115knを結んでた路線です。 道路整備と石狩川架橋が進めば存在意義低下が当然で、北から部分廃止され2020年初には札幌-新十津川間84kmになってました。

【2020年2月札沼線路線図】
時刻表によると札幌-北海道医療大学間は電化され20分毎運転の都市郊外路線、その先は非電化ローカル線で浦臼まで日に6本、新十津川まで1本の運転で、非電化区間は昨年廃止され札幌側29kmだけが残りました。

【現在の札沼線】・・・ウィキペディアより
現在も正式名称は札沼線ですが名が体を表しておらず、一般公募で決まった学園都市線と呼称されてます、ローカル線から近郊電車への変身です。


2-7.北海道の特急列車は1本!?
準急廃止急行格上は数年後、急行も数年前『最後の急行はまなす』のニュースあったので、JR優等列車は特急に一本化されたのでしょう。 数駅毎に停車する現代の特急見てると、全然特別じゃない一本化は急行で十分、特急はバカ高クルーズ列車だけではと思います。

【キハ82系】・・・ウィキペディアより
国鉄初のDC特急はキハ81系はつかりでしたが故障が多く乗客乗員の評判は良くありませんでした。 その欠点を改良したキハ82系によりサン・ロク・トウ大改正で日本海縦貫線の特急『白鳥』と共に北海道初の特急『おおぞら』が誕生しました、日に1本の運転です。

特急おおぞらのスジは中央右です。 函館-札幌間、10月11日まで洞爺と登別に観光停車しますが、定期停車は東室蘭と苫小牧だけ、3駅目が札幌の潔さ、これこそ特急です。 札幌から先の停車駅も岩見沢と滝川(分割)、旭川、根室本線内は帯広の次が終着釧路です。

巻末案内によると編成は12両、7両が釧路行、5両が旭川行です、この旭川行は後年網走まで延長運転されたと思います。 当時食堂車を併結しない特急は存在しませんでした。

特急『おおぞら』は函館-釧路間を10時間半で結んでました、函館発が早朝なのは青函連絡船夜行便に接続するからです。 本州側でも東京/大阪への最速列車に接続してました。 東京-札幌所要時間19時間55分は20時間を切る国鉄の意地だと感じてました。 大阪-釧路は最速列車で31時間余、特権階級を除けば航空便の選択肢はなく遠い場所だったのです。

【Yahooルート検索結果】
ちなみに現在のJR北海道ダイヤで函館-釧路間は7時間弱で当時の丁度2/3になってます。 石勝線開通とDC性能向上効果で、キハ82系が非力だったとも言えます。 それにしても南千歳が函館から13駅目、釧路も南千歳から6駅目、当時の準急並み停車駅数です。


ではまた。

国鉄黄金時代回想録①

1.プロローグ
皆さんは国鉄(JR含む)黄金時代はどの時代だったと思いますか?。 車両バラエティだけなら現在と言えますが、貨客輸送量等交通機関主要指標で見れば現在は自動車・航空機と共にその一角を占めてるに過ぎません。 新幹線が開業しヨン・サン・トウダイヤ大改正後の昭和40年代後半からの1970年代を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。

【中山平】
しかし昭和40年代後半は新幹線開業・建設の華々しさと同時に自動車輸送競合で採算が悪化し赤字体質定着の転換点でした、組織としては黄金時代でなく氷河期の入口だったのです。 特に昭和44-46年のマル生運動で労使関係が悪化し、国鉄は疲弊して破綻への坂道をころがり落ちました。 1980年に国鉄再建法が成立して不採算路線廃止へと向かいました。

【独立行政法人国鉄民営化評価レポートより】
国鉄職員数は昭和40-45年をピークに減少に転じ、民営化時には半分以下に減ってます。 民営化30年後には11.7万人(JR貨物含む)と更に半減、経営効率向上は時代の要請で仕方ないですが、駅から職員、各停車内から車掌の姿が消え旅の情緒が失われたのは残念です。


話を戻します、国鉄が戦後復興を終え、車両・動力近代化を進めサン・ロク・トウ大改正で国内交通網整備した昭和36年からマル生運動開始の昭和44年までの10年弱、1960年代が、乗客も職員も将来の夢を持てた国鉄黄金時代ではなかったかと考えてます。

【1964年9月JTB時刻表復刻版】
先日のTMSバックナンバー調達で時刻表復刻版発行と比較的安価に購入可能と知り、筆者定義国鉄黄金時代の時刻表を入手しました。 空想旅に耽ってた頃の懐かしい新幹線開業前夜の時刻表です。 これをネタに雑感シリーズにしたいと思います、まず北海道からです。


2.北道道編
2-1.総論
黄金時代と現在で一番様変わりしたのが北海道なのは間違いありません、人口密度が低い地域での鉄道の役割が大きく変化したからです。 道路網整備と自動車交通発展前は地域産品出荷や新聞雑誌配送等、鉄道が地域の経済文化を高める決定的な役割を果してました。

【1964年9月北海道国鉄路線図】
この号の北海道国鉄路線図です、海岸線の8割程度に国鉄線が走り、内陸部も縦横に細かく結ばれ、路線図は駅名表記に苦労し、全部収める為に地形図をデフォルメしてます。

【2020年2月北海道JR路線図】
昨年購入しコロナ禍で無駄になった時刻表の北海道路線図です。 蜘蛛の巣状だった路線網が札幌と中核都市を結ぶヒトデ状の姿に変貌してます。 土砂災害で不通だった日高本線8割廃止が決定し更に短くなります。 留萌本線も留萌-増毛間廃止後の存続協議から留萌市が抜け、3町村とJR北海道の部分存続協議が続いてますが余命は長くないと思います。


2-2.道東:釧網本線に見る時代の変遷
釧網本線は現在の北海道JR線で札幌始発終着列車が走らない珍しい路線で、道東の中心都市釧路と網走を結ぶ路線だから生き残ったと言えます。

釧網本線は釧路から湿原沿いの内陸部を北上し、標茶・川湯を経由して斜里でオホーツク海側に出ますが、厚床から海岸線を北上して中標津に至る路線と、標茶から中標津経由で根室標津に至る路線からなる標津線がありました。 一方斜里からは根室標津方向へ知る人がほとんど居ない根北線が越川まで伸びており標津線との接続計画があったと思われます。

【北見相生駅のキハ22】・・・ウィキペディアより
釧網本線西側に並行して池田と北見を結ぶ池北線がありDC準急が運転されてました、その間に美幌から北見相生までの相生線が南下してました。 また十勝平野中心の帯広から南北に長い盲腸路線、南は『愛国駅』『幸福駅』で後年有名になった広尾線、北は池北線と平行に十勝三股までの士幌線があり、南北に山脈を越えた谷筋毎に路線がある様相でした。

【タウシュベツ川橋梁】・・・ウィキペディアより
士幌線には鉄道遺産として有名なタウシュベツ川橋梁がありましたが、この時刻表9年前にダム建設で湖底に沈み迂回新線で運転されてました。

現在は札幌と釧路・根室を結ぶ根室本線と札幌・旭川と網走を結ぶ石北本線、そして釧網本線の3線のみ、他の6路線は全て廃止されました。

【白糠線路線図】・・・ウィキペディアより
実は道東廃止路線はもう一つあります、時刻表直後開業の白糠線です。 『この時代の北海道は鉄道建設の時代』で、その事実からも国鉄黄金時代と言えると思います。

【1964年9月釧網本線時刻表】
4本/日のDC準急が運転されてます、釧路-網走間170kmを3時間余で結んでました。 一方普通列車は一部区間運転はDCでしたが、他は列車番号にDのないC58牽引の混合列車でした。 たまたま釧網本線の下が根北線でした、3駅目が終点越川、日にたった4本の運転です。

【釧網本線の混合列車1963年10月】・・・鉄道P誌より
混合列車はおおよそ半数の駅で貨車入替作業をするので所要時間は5時間前後、平均時速34km/hの鈍足、現在は車で3時間でお釣りが来ますが、当時はこれが常識でした。

【2020年2月時刻表より編集】
現在は路線廃止だけでなく時刻表も整理統合、釧網本線と石北本線一緒です。 優等列車は消滅し快速『しれとこ』が3時間をわずかに切り、普通列車所要時間は3時間余で昔の準急並みです。 新型DC高性能化と貨物列車消滅で交換待ち時間削減の結果だと思います。


それにしても国鉄末期からJR化後の駅名変更で由緒ある駅名が軽薄安易な名前に変わるのは淋しいです。 その風潮はこの僻地にも及んでおり『弟子屈』は『摩周』へ、『斜里』は『知床斜里』へ改称されてます。


2-3.道北:消えた路線網
次に現在は宗谷本線だけになった道北を見てみましょう。 北海道開拓史の基礎インフラがまず電気、次に鉄道だったと良く解ります。

路線図右上の興浜南線雄武と興浜北線北見枝幸間が接続計画未完成ですが見事なネットワークでした、ここが開通すれば網走-稚内間優等列車が日に2-3本運転されたと思います。

道北の廃止路線をまとめてみました、8路線で総延長752km、道北だけで東北本線740kmを超える鉄路が消滅してます。 この表作りながら何かが足りない違和感がありました。

【国鉄美幸線年表】・・・ウィキペディアより
国鉄赤字が問題になった頃、収入¥100得る為の経費=営業係数という指標がありました。 営業系数¥6,000、日本一の赤字路線として有名になった美幸線開業はこの時刻表直後、東海道新幹線開業の3日後でした。 開業から17年で廃止決定、20年の短命路線でした。

【1968年10月時刻表北海道路線図より】
ヨン・サン・トウ大改正の時刻表には前記白糠線と合わせ美幸線も路線図に載ってます。 国鉄路線総延長距離ではこの時代がピークでした。


昔の時刻表ネタの雑感と考えスタートしましたが、時代考証の手抜きもできず意外と手間が掛かります、道東・道北だけで紙数が尽きました、この先どうなります事やら(笑)


ではまた。

摂津鉄道 晩秋の蔵本村

摂津鉄道『晩秋の蔵本村』は、昨年『レイアウトモデリング』で始めて読みました。 従来線製作前に読めば良かったと思う部分と、風景重視レイアウトパイオニアの大先輩に失礼かもしれませんが、自分の製作スタンスは間違ってなかったと安心する部分が半々でした。

【前号より転載】
今回『レイアウトモデリング』は発表記事のまま転載してると確認できました。 改めて読み直すと、『道を切り拓く先駆者の苦労』をつくづくと感じました。 誰もやらなかった事を成し遂げる為に、綿密な実地調査と考察、そしてモデル化への取捨選択をされてます。

日本の農村の原風景という言葉がピタリと当て嵌る静かな村の佇まいです、筆者幼時記憶に残る昭和30年前後の北関東の風景に重なります。


★集落の類型化
蔵本村の設計は家屋配置の基本となる集落の類型化から開始してます、

筆者経験でもA散村は広大な北海道を除くと例が少なく、B集村かC街村が多い様で蔵本村は集村、当社北基台は県道沿いの街村に分類できます。


★農家の建物調査
現在はキットを購入して組むだけで設計不要、時代考証不要でその時代のストラクチャを入手できますが、何も先行事例がない製作は情報収集の調査から始める必要がありました。

農家は母屋の他に付属建物が多いのが特徴で、どの様な建物がどの様に配置されてるのかを理解しなければなりません。

TOMIXわらぶき農家のプロトタイプ然とした農家です、写真上の正面(通常南側)と写真下の裏面(北側)、及び様々な物が置かれた側面(西側)は表情が全く違います。

 

わらぶき農家の外回り設計には内部構造理解が欠かせません、典型的な田の字間取りです。 作者は内部基準で外回り製作してますが、キットベースで室内製作する場合は拙レイアウトわらぶき農家や倉元駅舎の様に外回り基準で内部設計製作と順番が逆になります。


GMローカル駅舎は外回りと内部構造が矛盾しない設計でしたが、TOMIXわらぶき農家は中央に屋根固定の太いステーがあり内部工作に苦労しました。 開放的な座敷なのだからもう少し考えてよと言いたい処です。

わらぶき屋根は通常入母屋ですが右の様に寄棟もあり、また棟の形も変化に富んでます。

摂津鉄道の時代設定記載を見た記憶がありませんが、作者の世代と走行車両から昭和20年代後半と推定してます。 筆者が知る昭和30年代の農村は瓦屋根が増えており、確かにこのタイプの農家を良く見掛けました。(母の館林実家隣の農家がこのまんまの建物でした)

付属建物として特徴的な蔵にも調査は及んでます。

そして最後に農家建物配置をいくつかにパターン化されてます。 母屋正面南向きが原則ですが例外もあり、製作した蔵本村でも道路や敷地の必然性で母屋東向き農家を混ぜ、実感を盛り上げる要素に使われてます。 現在の農家市販キットもこの配置に準じてる様です。


★地形の重要さ
『晩秋の蔵本村』はストラクチャ個々の品質と実地調査に基づく配置の妙もありますが、もし完全に平坦なベースに製作されたとしたらその魅力は半減したと筆者は考えてます。

御覧の様に右辺は水田で線路に接するのでほぼ水平ですが、左奥コーナーが一番高く、前辺に近付くに従って傾斜が緩くなる傾斜地になってます。 実際に埋め立て地(筆者は落ち着かず嫌いです)以外完全な平坦地はまず存在せず、自然らしさが欠落してしまいます。

この地形造形をする為にこの様な台枠を製作してます。 水田と住宅敷地以外水平な場所はないと言って良く、地形の重要性を優先しない限りこんな手間の掛かる事はしません。

【拙レイアウトより】
緩やかな傾斜が建物敷地や田畑に高低差を生み、トータルとして自然らしさを生みます。 当社コンセプトに最初に自然があり、人が住み付き家屋や田畑を作り、最後に鉄道が敷設されたと書いてますが、摂津鉄道も明言してませんが同じ考え方で製作されたと思います。


★小物で生活感を演出
建物製作は調査結果を基に適度な簡略化で製作されてます。 時代環境と素材環境が異なるので割愛しますが、小物については大いに参考になるので、適用事例を紹介します。

晩秋農村の風物誌干柿は当社もやりたかったのですが、スケール0.6mmほどのサイズで従来線は断念しました、延伸線で挑戦したいです。

物干に洗濯物があります、1/80だからできる芸当かもしれません。 写真では解り難いですが庭先にモミが干してあります。 農家屋根は切妻・寄棟・入母屋と形でも、わらぶき・瓦葺きと材質も変化に富んでます、この部分だけ見ると変化させ過ぎかもしれませんが。

代々村長を務める旧家には庭がしつらえてあります、旧家にふさわしい重厚な屋根です。

庭の製作図で砕石場に出てきたテングサ使うとこんな外観の植物製作可能と解りました。

水田の稲株は試行錯誤の末ミシンで縫って裏側を接着固定し表面をカミソリ切断、起毛固着で製作されてます。 このセクションで1万株、全体で10万株、その回数カミソリで切ったと思うと気が遠くなります。 モミ殻焼きからは発煙装置で煙がたな引いてます。

 

発煙装置は延伸線でぜひやりたい事で、壊れたドライヤーヒーターニクロム線や碍子管など材料は揃えてあります。 この裏面写真見ると発煙装置以外にも配線らしき物があり、建物照明配線にも思えますが本文記載ありません、夜景楽しめたら言う事ないのですが。


★まとめ
摂津鉄道蔵本村はリアルなレイアウト風景製作の秀作で、風景重視レイアウト製作者にとって、半世紀経てなお目標となる優れた先行事例です。

記事に登場するのは8620牽引のダブルルーフ客車ですが、C58/C57牽引のオハ35/オハ61や10系気動車も良く似合う風景だと思います。

田舎道だからウネウネさせてるのではありません。 最初は獣道の様な踏み跡、家が建ち出入りの通路が設けられ、耕作で行き来し、やがて大八車や馬車・耕運機が通りと、長い歴史の中で決まってきた道筋で、地形や建物と整合したウネウネだからこそ自然なのです。


この記事読んで製作意欲が湧いてきました。 年初の計に延伸線北基台製作を掲げながら、温かくなったのに何も着手してません(滝汗)


ではまた。