Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

60年前のダイヤ改正と初日の風景

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今年のJR東日本の運賃改定(=値上)は3月14日に実施されました。 昔は10月ダイヤ改正に合わせ行われました。 60年前ダイヤ改正は、ヨン・サン・トウ大改正の前年でした。

【JTB1966年10月時刻表】

大改正でないにしても、電化進展・動力近代化・新型車登場により、大きな変化がありましたので、改正初日の全国の動きを紹介します。

10月1日電化開業した信越本線長野-直江津間では、直江津始発電車急行の出発式が行われてます。 キャプションから運転開始時はサロ含めた165系5連だったと解ります。 上野到着時は12連サロ2両だったハズで、7両は長野止りだったのでしょう。

上野-直江津間DC急行『妙高』も電化開業で電車化・増発されました。 前項発車式の急行は長野行延長運転で5連、『妙高』は8連で、電化により急行3倍増です。

盛岡電化前の不定期急行『ひめかみ』は客車編成の貧弱な急行で、盛岡電化後は電機・DL牽引に変わっただけでした。 この年の改正で電車化されると共に定期列車化され、急行『第2いわて』に生まれ変りました。

上越線では特急『とき』が1日2往復から3往復に増発されました。 増発でも特急となると出発式が行われてました。 新幹線開業で大動脈主力だった151系が大量余剰になり、当初は山陽本線強化重点配備でしたが、山線改造を経て御鉢が回ってきたのでしょう。

北陸本線でも電車優等列車が増発されてます。 名古屋-金沢間不定期急行『券六』が6連⇒12連に強化され、定期列車として運転開始されてます。

名古屋エリア新優等列車をもう1件、越美南線直通急行『おくみの』が設定されてます。 名古屋駅を2-3連で出発ではみっともないので、名古屋-美濃大田間高山本線急行『ひだ』に併結です。 当時国鉄はローカル線に次々急行運転しました。 増収になったか定かでありませんが、『どの線区で余剰になったキハを回した?』と思ってました。

日豊本線小倉-新田原間も10月電化開業でしたが、小倉側完成区間では設備効率向上目的でフライング開業が行われてました。 従って新田原駅ならまだしも、小倉駅での出発式には疑問が残りますが、正式開業日に出発式が行われてます。

鹿児島本線では東小倉-東折尾間の複々線運用が開始されました。 客貨分離輸送力向上が目的で、特急『つばめ』走行線がバラストの新しさから新線でしょう。

現在は常磐線列車が首都圏貫通して神奈川まで走る時代になりましたが、当時の常磐線列車は上野駅高架ホーム5-10番線止りでした。 そんな時代に不定期急行『常磐伊豆』の運転が開始されてます。

営団東西線が荻窪-竹橋開開業し、国鉄線と相互乗入運転が開始されました。 相互乗入の場合、相互区間営業キロ比に応じて車輛供出するのが鉄道事業者間の常識でしたが、国鉄はこのダイヤ改正まで車両供出せず、営団頼りになってました。 東西線大手町延伸開業の10月に東西線用301系が間に合い、義務を果たせる様になりました。

一旦は消えると報じられた川越線の9600牽引客レが、1966年10月ダイヤ改正では消えずに生き残ったニュースです。 翌年ヨン・サン・トウ改正で消えた様です。

現在の自動改札機に比べ、幅が広く、定期券専用で職員用試用ですが、60年前にその原型が完成して試験評価が始まりました。 鉄道事業省力化に大きな役割を果たしました。


ではまた。

60年前1966年9月の鉄道風景❸と俳句

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月末なので俳句掲載号ですが、さすがに鉄道・旅関連句は種切れ、日常に材を取った最近の作句を、60年前の鉄道風景と共にお届けします。

台風や豪雨で鉄道に遅延や運休が発生するのは、今も昔も同じで、むしろ他交通機関が発達した現在の方が、予防的措置として増えた様です。 60年前9月末も台風の運転見合わせで6-13時間の遅延が発生し、通常夜間通過優等列車が東海地方で昼に見られました。

上越線水上駅に祝賀横断幕と紅白幕に根元を隠した記念柱が建てられ、その先端から万国旗がはためいてます。 『新線開業』でも『電化開業』でも『新優等列車運転開始』でもありません。 高崎方から進んできた複線化工事が水上まで完成したお祝いです。

水上駅の飾り付けも大袈裟ですが、たかが複線化完成で国鉄幹部と水上町長がテープカット出発式とは驚きです。 しかも電車列車ならまだしも、祝賀列車はDC急行『奥利根1号』、渋川で長野原始発急行『草津』と併結運転ゆえのDC列車でした。

今年2月の作句です。 予定等を書き込んだメモを画鋲で留めた掲示板が家にあり、緩んだ訳でもないのに画鋲を挿し直して、『さあ春だ、やるぞ』と自分に言い聞かす、そんな気持ちを詠みました。 今年の春は『レイアウト建設進めるぞ』だったかもしれません。

10月14日は1994年以降『鉄道の日』と呼ばれてるそうですが、それ以前は『鉄道記念日』でした。 1966年の記念日に合わせ朝日放送が特別番組『義経のいる工場』放送を企画し、国鉄鷹取工場に保存されてた義経に火入れが行われてます。 既に準鉄道記念物の指定後でしたが、動態保存だった様です。

前項の国鉄鷹取工場では、義経火入れ同日、廃車C62 26号機の惜別会が開催されてます。 C62 26号機は1962年開館の大阪交通科学館(後の交通博物館)に静態保存され、建屋老朽化による2014年閉館後は、梅小路の京都鉄道博物館に保存されてます。

1966年秋の国体開催県は大分でしたが、一部競技は熊本県有明海が会場になった様です。 三角線運転お召列車牽引機にC11が選ばれました。 本線はDF50・C58牽引とありますが、三角線が簡易線区でC12がお召列車牽引機なら解りますが、C11の軸重に耐える規格ならDF50・C58入線可能だったハズで、何とも不思議です。

これは今年3月の作句です。 法律的に認められても、事故起こしてから『見えなかった』は通らないと、昨年5月から運転自粛してましたが、55年間保持し続けた運転免許を失うのは辛い経験でした。 地方在住で免許失うと不便な事この上ありません。


『雪の果』が仲春3月の季語で、シーズン最後に降る雪を差します。 傍題(子季語)として、『雪の別れ』『名残の雪』『忘れ雪』等があり、雪深い地方では春の訪れを喜びながらも、何とない淋しさ・喪失感を持つ季語に気持ちを託してます。

1966年9月末で廃止された淡路交通鉄道線ではさよなら電車が運転されました。 最近新線開業、新列車出発式はとんと見られませんが、さよなら運転は『北斗星』『カシオペア』等、現在のJRでもニュース映像で良く見られます。

先日の『阪神電鉄小型電車の地方私鉄への拡散』で紹介した1960年淡路交通に譲渡された609・610は廃線で廃車されたハズですが、さよなら運転の画像が残ってません。

昨年秋15年前の娘の結婚式時の思い出を詠みました。 ウェディングドレスを着た娘の手を引きバージンロードを進みながら、正面の天窓に切り取られた青空を見て、場にふさわしくなく『秋だな~』と感じたのです。 同居する下の娘が家を出て子供三人皆独立、これから夫婦二人の生活になるという想いが、その背景にあったと思います。

常磐線国電10連化は1966年10月だった様です。 首都圏国電路線の中で常磐線は継子扱いされており、10連化も最後で103系置き替えも最後でした。 中央線のオレンジ、山tr線⇒総武緩行線のカナリア、山手線のグリーン、京浜東北線のブルーで解り易い塗色を使い切り常磐線103系登場時に『変な色』と感じた記憶があります。

盛岡電化開業から2年、東北本線貨物輸送主役だったD62は、電機増備が追い付かず、まだ少数が現役継続してました。 しかし10月ダイヤ改正で一掃される事になり、小さな花輪を飾り最後の仕業に向かう貨物列車牽引D62が、仙台長町から旅立ちました。


ではまた。

1966年の木曽森林鉄道

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木曽森林鉄道についてはは、2年前に訪問記を紹介してます。


◆木曽森林鉄道の話・・・2024.05.03更新

1975年に廃止された王滝森林鉄道は、沿線長45kmの最長路線で、廃止9年前に訪問された方のレポートがありましたので紹介します。

木曽森林鉄道は農林省(当時)林野庁の出先機関である営林署が運営する、木材資源搬出を主目的にした国営鉄道です。 その位置付けは、国営企業構内線で、観光客が訪れて乗車券購入すれば誰でも乗車可能ではなく、営林署の『便乗許可証』が必要でした。

しかも『乗車許可証』発行時には、万一事故により生命・財産の損失があった場合、営林署は賠償責任を負わないと記載された同意書にサインする必要がありました。 事故多発したてた訳ではありませんが、業務用鉄道路線なので自己責任なら便乗OKの考え方でした。 従って乗車料金は徴収しなかった様です。

前回訪問者が新宿から準急『穂高』寝台車で塩尻で中央西線に乗換え、上松から乗車したのに対し、今回の訪問者は開田高原に前泊し、王滝村役場のある田島から奥地の本谷に向かい上松へ引き返す行程で乗車してます。 森林鉄道は伐採現場が広くかつ移動するので、谷毎に支線が敷設され、本線長に対し線路総延長が長いのが特徴です。

『便乗許可証』受領後、何処が駅か解らず戸惑ったそうです。 営林署脇の道を下り吊り橋渡った対岸と解り、途中で目に入ったタンク車を頼りに田島駅に辿り着いてます。

田島停車場はホームと待合室のある粗末な造りでした。 現在でも王滝村に通じるのは県道1本と一般車通行禁止の営林署林道だけです。 当時の王滝村住民は森林鉄道を生活の足にしてましたが、命の保証なしの便乗扱いではなかったハズです。

乗車列車発車まで時間があったらしく、物珍しい軽便森林鉄道の風景を記録されてます。 頭がつかえそうなオープンデッキのマッチ箱客車、『助六号』です。

旅客列車は上松-本谷間全線運転『みやま号』1往復と、田島1駅先大鹿までの『みどり号』1往復、王滝小中学校へ通う子供達の通学列車『やまばと号』の3本だけでした。 無蓋貨車は伐採現場への用具運搬や王滝村への生活物資運搬に使われたのでしょう。

王滝村民の森林鉄道利用に疑問があったので調べると、1961年牧尾ダム完成で、農地3割と住宅2割が水没移転、その補償金でスキー場を建設したとありました。 と言う事は少なくてもスキー場までは舗装道路が開通し、路線バスが運行してたと思われます。

3本の旅客列車に対し、運材列車は多数運転されており、列車待ちの間にも運材列車が次々やって来ます。 右の交換待ち列車は材木積んでるので、前方が上松方で手前の線路進んで来るのは、運材台車を伐採現場に回送する編成でしょう。

側線停車中列車を通勤列車としてますが、通学列車『やまばと号』の間違いです。 当時50人ほどの子供達が、この列車で王滝小中学校へ通っており、下校時刻まで待機です。 そうこうしてる内に乗車列車到着、奥地本谷に向け出発です。

【1964年時刻表】・・・過去記事より

乗車したのは田島9:48発の『みやま号』、終着本谷まで27.6kmを122分です。

本谷までの中間点滝越で乗車してきた『みやま号』を撮影してます。 2両の木造客車と、有蓋貨車の編成をDLが牽く列車だったと解ります。

滝越には『客車床屋』があったそうです。 停車時間が長く取材可能だったのでしょう。 田島の奥は多分物流路がなく、便乗者には奥地住民を顧客にする行商人が多く居ました。 つい60年前まで自給自足、必要物資は外の世界に頼る生活がありました。 この床屋が通年営業だったかどうかは疑わしく、山仕事休みの冬は里に下りたでしょう。

ダム堰堤は本谷二つ手前の停車場、ホームも待合室もない標識だけです。 勾配票の『250』は25‰の意味でしょう、最急勾配は40‰でした。

ダム堰堤停車場から支線が分岐します。 この奥に集落はなく、伐採現場で働く杣人や営林署職員輸送をしてたのでしょう。 超小型DLに客車1両です。

終着本谷到着時の車中からの撮影である事が、左端に写り込んだ車体一部から解ります。

本谷にはホームも駅舎もありませんでした。 折り返し上松行は1時間半後発車、本谷1時間半ダイヤは、乗車営林署職員が会議等、一仕事する時間だったかもしれません。

物見遊山の鉄道ファンには何もする事がありません。 2時間揺られ続けた『みやま号』の記念撮影でしょうか。

本谷は山が迫った谷底に近い地形を想像してましたが、意外と平坦な土地でした。 地図を見て納得、本谷付近はダム湖の底に沈み、山の中腹を切り開いて作られた停車場でした。 多数の側線を水平に敷設するには曲線が多くなるのは当然です。

帰りの列車で出発点田島停車時の撮影と思われます。 運材列車が『みやま号』通過待ちをしてた様です。 右端に写った客車の一部が、振り返り撮影を表してます。

上松-田島間は復路乗車だけだったハズですが何も記録を残してません。 往路2時間、現地1時間半、復路3時間で疲れ果てた様です。 森林鉄道で運ばれた木材は上松集材場に集結され、国鉄貨車またはトラックで出荷されました。 1975年木曽森林鉄道廃止の背景は、大型トラックが入れる林道が整備された事と、低価格輸入外材による需要低下でした。


ではまた。