Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄の選択

さてラッシュ時国電乗車率250-300%に達し、新宿駅では『尻押し隊』が活躍した1965年の状況を国鉄がどう改善しようとしてたかの話です。 面白いデータがあります、1940年を100とした1964年まで24年間の、戦後期を含む首都圏地域別人口変動です。

都心千代田/中央/港3区は、東京空襲で1947年には人口半減、1964年まで緩やかに17年間で1940年の65%まで回復してます。 都心外縁品川/渋谷/新宿/豊島4区は戦災で半減、17年間で1940年より8%増えてます。 更に外側世田谷/杉並/中野3区は戦災の減少なしで、1964年に2.2倍に増加、更に西方中央線沿線は1940年から増加を続け4.1倍に急増してます。


武蔵野と同じく北方埼玉エリアは2.5倍、東方千葉エリアも3倍以上の増加率です。 つまり都心人口増加率は低く、都心から離れるほど人口増加率が高く、団塊世代中学進学で千代田区小学校が閉校になり、『都心空洞化』『人口ドーナツ化現象』と呼ばれてました。

首都圏通勤通学輸送人員は1日平均2,400万人、その1/3  800万人が国電利用者でしたから、『輸送人キロ』伸長率は凄まじい物でした。 私鉄線利用者は山手線ターミナルで乗換え、バスや未成熟地下鉄や廃止前都電利用者も居ましたが、山手線に利用者が集中しました。


旅客輸送能力は既に限界に達してましたが、貨物輸送能力はどうだったでしょうか? 重要な要素として東京湾では大規模な埋立工事が行われてました。 『干潟の自然環境を守れ』と言う環境NGOは存在してませんし、全てが経済発展優先の時代でした。

1965年時点で1971年度までの埋立計画が確定しており、総面積5,600万坪、東京ドーム何個分では追い付かず計算すると610㎢でした。 一辺24.7km正方形とも言えますが、

香川県1/3面積の人口造成地がベイエリアに建設中でした。 この方が実感が湧きますね。 しかも46%が工業用地で、京浜/京葉工業地帯を拡大する計画でした。

人口造成地に建設される工場群の原材料搬入・製品出荷は、海路港湾利用と陸路鉄道利用とトラック利用があり、海運業界予測に従い東京湾岸各港では準備が進んでました。 1959年基準(資料毎に基準が違います)で、1975年に海運貨物量が4.2倍と予測されてました。

一方京浜/京葉工業地帯拡大による鉄道貨物輸送量(大部分国鉄)は、1962年基準で1970年に平均2.6倍の予測でした。 特に千葉は7倍、国鉄貨物輸送量が少なかったエリアです。 東京着発及び通過貨物は、ほぼ全て山手貨物線を通過し、大宮・田端・新鶴見・新小岩の4操車場がハブになってました。 新鶴見操車場の作業内容は以下記事で紹介しました。

◆ツル操の話 分解作業

◆ツル操の話 組成作業

【過去記事より転載】

国鉄は『貨物輸送近代化』に取り組み始め、新型貨車による貨物列車高速運転を試行してましたが、貨物輸送時間に占める走行時間は22%に過ぎず、操車場業務近代化・輸送方式近代化が大きなテーマになってました。 つまりは仕事量と待機時間の削減です。

輸送時間の35%を占める操車場業務近代化では、自動貨車仕訳装置導入等自動化・無人化が大阪梅田操車場で始まってました。

輸送方式近代化では、トラック輸送との連携や貨車1両に満たない小口貨物輸送の標準化(コンテナ化)が進んでおり、仙台エリア宮城野操車場(貨物ターミナル)では広大な敷地で実現しました。 旅客輸送・貨物輸送共に伸び続ける首都圏は、『土一升金一升』と言われた地価高騰で山手旅客線複々線化や古い操車場改修ができない状況でした。

そこで考えられたのは、山手貨物線通過の貨物列車を首都圏を迂回し、大規模近代的操車場を設置する東京外環状線建設計画でした。 5大方面貨物列車を外環状線で結び処理可能になれば、山手貨物線を旅客輸送に転用でき、複々線化の効果があるからです。

東京外環状線建設計画は1964年度を開始年とする国鉄第三次長期計画に盛り込まれました。 都心から20km圏の5大方面を環状に結ぶ路線です。

東海道方面から甲府・東北方面を経て常磐方面を結ぶ武蔵野線、常磐方面と千葉方面を結ぶ小金線、人口造成地で京浜/京葉工業地帯を結ぶ京葉線3線で環状線建設の計画でした。

建設工事は千葉方面から東北方面の小金線/武蔵野線東部から始まってました。 迂回貨物線なので、人家から離れた場所に直線的に敷設され、集落から外れた場所は軟弱地盤の土地が多く、基礎工事に苦労した様です。 貨物主体の路線なので、5大方面幹線の交点には、貨物専用連絡支線が多く設置されてます。

約40km区間に8駅で平均駅間距離5kmと長いのは、5大方面幹線から離れた足の便が悪く、開発から取り残された地域で、地価も安く貨物線敷設に好都合だったからです。 新規設置される武蔵野操車場は、広大な敷地に建設される近代化した操車場でした。

この新線建設の設計基準から実物と模型の世界の対比ができます。 最小曲線半径600mはNスケール4,000mmでザッと13倍の緩曲線、軌道の中心間隔3.8mは25.3mmで、Peco27mmは実物に近く、KATOは実物より1,150mm広く、TOMIXは1,850mmも広いと解ります。 また道床厚250mmは意外と薄く、Nスケールで1.67mm、枕木の厚さ程度です。

【ウィキペディアより】

1964年着工の東京外環状線は、1973年4月に府中本町-新松戸間旅客/貨物営業開始、1975年に鶴見-新鶴見操車場-府中本町間貨物専用線営業開始しました。 当初は貨物列車運転合間に昼間40分毎、ラッシュ時15-20分毎の旅客列車運転でしたが、1970年代後半には貨物輸送近代化で貨物列車本数が減り、同時に沿線宅地化で旅客列車が増発されました。


その後、1978年に新松戸-西船橋間延伸開業、1988年12月に京葉線2期工区西船橋-市川塩浜間及び南船橋-新木場間が開業し、一部列車が京葉線と直通運転を開始しました。 1974年開場の当時最新鋭の武蔵野操車場は、民営化後のヤード集結型貨物輸送廃止ににより、開場から11年で閉鎖され、現在は梶ヶ谷・新座・越谷の3貨物ターミナルが設置されてます。

【ウィキペディアより】

武蔵野線開業後沿線宅地開発が進み旅客駅が多く開業し、現在では首都圏通勤通学圏に組み込まれてます。 東京外環状線で山手貨物線は旅客輸送用に転用され、埼京線・新福高崎/宇都宮ライン・新宿湘南ライン・横須賀線・NEX等、実質山手線複々線化になりました。 これと並行して首都圏旅客輸送に地下鉄が果たした役割も大きな物でした。

1965年当時の東京地下鉄は銀座・丸ノ内・日比谷の3路線のみでした。 その後次々と開業し現在は12路線、1987年までに大手私鉄全線とJR中央・常磐線が都心乗入開始し、山手線ターミナル乗換が減り、山手線利用者集中を緩和しました。 5大方面の東北-常磐方面間に2005年つくばエクスプレスが開業し、首都圏交通網の面を補完しました。


東京地下鉄網の現状は複雑怪奇で、A地点からB地点への移動経路が複数あり、どの経路が一番乗換えが楽で所要時間が短いか、馴れないとサッパリ解りません。 50年近く前に新婚生活を始めた田園都市線鷺沼を十数年前再訪した際、新開地に植樹したばかりの桜が大木になってたのと、鷺沼始発電車の行先が、東武伊勢崎線久喜だったのには仰天しました。


ではまた。

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首都圏鉄道網の変遷

古い時代ネタが多い拙ブログですが、今回は首都圏鉄道網の変遷を、国内鉄道元年から追いたいと思います。 『またかいな』と嫌な顔せずお付き合いいただければ幸いです。


◆1872年(明治5年)

日本の鉄道発祥は1872年10月14日、153年前の事でした。

1872年末の姿です。 東京の人口は87万人で、江戸末期に100万人と言われてたので、若干減ってます。 江戸は参勤交代出府武士が多く暮らした町で、明治維新で地方武士上京不要になった為かもしれません。 陸蒸気の新橋駅は汐留貨物駅、横浜駅は桜木町駅でした。


◆1887年(明治20年)

それから15年後に東京の人口は1.7倍近く増えてます。 北へも鉄路が伸び、西との連絡線もできてます。 全国的な民営鉄道建設ブームが起きた時代でした。

陸蒸気で先行した首都圏より関西圏の鉄道敷設が盛んで、この10年前1877年に神戸-京都間開業、7年前1880年逢坂山トンネル開通で大津まで開業と、東へ伸びてました。 首都圏は1881年に新橋-横浜間の全線複線化程度で、横浜-国府津間が開業したばかりでした。


一方で北は1883年に上野-熊谷間開業、1885年に大宮-宇都宮間開業で、仙台方面鉄道建設が進んでました。 同年に北と西を連絡する赤羽-品川間(山手線原形)が開業してます。


◆1912年(大正元年)

更に25年で東京の人口は倍近く300万人に迫り、鉄道網が充実しました。 5大方面を時計回りに追ってゆくと、東海道は国家事業として1889年東京-神戸間開業、甲府方面は1889年民間企業甲武鉄道が新宿-八王子間開業し、1906年に塩尻に達してました。


東北方面は1891年民間企業日本鉄道が上野-青森間開業、水戸方面も日本鉄道が1896年田端-水戸間開業、1898年岩沼まで全線開業の驚異的スピードでした。 千葉方面は1897年民間企業総武鉄道が錦糸町-銚子間開業、1904年両国まで延伸開業しました。

首都圏中心部で人口増加に伴う鉄道網整備が進む中、政府は1906年に鉄道の国有化を実施しました。 1903年山手線池袋-田端間が開業し、都心部路線は複線化されましたが、新橋・新宿・上野・両国の始発駅は民間企業時代のまま孤立し、相互連絡してません。


東神奈川-八王子間横浜線は、横浜港の主要輸出品生糸輸送の為に、民間企業横浜鉄道が1908年に開業しましたが、1917年国有化されました。

【国有化時の日本鉄道】・・・ウィキペディアより

日本鉄道は1880年設立から国有化の26年間に、現在の東北本線・常磐線・高崎線・山手線の2/3・両毛線・日光線・水戸線を敷設開業したのは、甲武鉄道が重機も掘削機もなかった時代に、小仏・笹子両トンネルを掘り抜いた事と合わせ、実に凄い民間企業の力です。


政府はこの間、日清戦争(1894-1895年)で得た大陸権益拡大の外交と、列強に対抗可能な軍備増強に注力した時代で、日露戦争(1901-1902年)の戦費捻出に苦労し、国庫には国内鉄道建設の余裕が全くありませんでした。


◆1926年(昭和元年)

前項国有化後1908年に東京駅着工、1914年竣工、新橋に替わり首都玄関になりました。

【ウィキペディアより】

その後1919年万世橋から中央本線乗入れ、1923年関東大震災発生、都市計画ゼロリセットは鉄道敷設にプラス作用した様です。 1925年山手線上野-神田間開業環状運転開始、京浜東北線乗入れも開始しました。 同年に山手線複々線化による貨客分離(山手貨物線)と、東では新小岩-金町間新金貨物線開業で、常磐・総武方面の貨客分離が行われてます。

関東大震災復興と首都圏人口集中は、郊外へ首都圏の膨張を引き起こし、通勤通学圏は区部を超え50km圏まで広がり始めました。 1926年(昭和元年)は鉄道国有化20年後で、東京の人口は更に200万人増えて469万人になってました。


首都圏膨張で5大方面間にできた隙間を埋め、首都圏を線から面として支えたのが、山手線ターミナルから放射状に伸びた私鉄群でした。 部分開業を省略し、主要区間開業時で記載してます。 時計回りに東海道-甲府方面間から見て行きます。

調べて驚いたのですが、4私鉄全てが関東大震災2-7年後の5年間に開業してます、大田区・目黒区・世田谷区と23区外及び川崎・横浜方面市街化を支えた私鉄群です。 東急目蒲線・大井町線・玉川/世田谷線(軌道線)と京王井の頭線が網目を更に細かく面にしました。


国有化された中央本線は東中野-立川間の武蔵野台地を直線的に敷設したのに対し、私鉄群は旧街道沿いに敷設されました、人が住む場所に輸送需要があるからです。 京浜急行線は東海道沿い、京王線は甲州街道沿いに敷設されました。 東急東横線は多摩川渡ると脇往還中原街道沿い、小田急線も同じく神奈川県側は鶴川街道沿いです。

東京西部青梅街道・五日市街道・川越街道沿いの町々には、南西部より10年早く西武池袋線と東武東上線が開業してます。 鉄道国有化8-9年後で、政府は都市近郊交通は私鉄に任す方針だったのでしょう。 西武新宿線は南西部と同じく震災後開業ですが、支線国分寺線・拝島線が網目を細かくしてます。

関東大手私鉄で一番早い開業が東武伊勢崎線、1899年日光街道沿い北千住-久喜間部分開業しており、1906年国有化対象から逃れました。 1910年伊勢崎まで開業し、両毛地域旅客と物産輸送を支えました。 当初舘林-葛生(佐野)支線延長の日光線建設計画でしたが、山越えを避け、杉戸(東武動物公園)分岐で日光線を敷設しました。 つまり成立過程から見ると、伊勢崎線が本線で日光線は20年後に追加された支線なのです。


浅草は山手線ターミナルではありませんが、1927年地下鉄銀座線浅草-上野間開業で、他社と同時期に都心と結ばれてます。 このハンデキャップが最初に地下鉄直通運転実施の背景です。 京成線は押上駅始発で開業し、1931年日暮里に到達しました、京成上野への乗入れは2年後1933年でした。 大正~昭和初期の20年間に首都圏私鉄鉄道網が完成してます。

運転密度が高い山手線貨客分離複々線化は、貨物輸送の将来像が全く見えない時代に行われましたが、現在北は埼京線・宇都宮/高崎ライン、南は新宿湘南ライン・成田エクスプレス等の路線に利活用されており、有難い存在になりました。 なお湘南新宿ライン・横須賀線経路となった品川-鶴見間貨物線品鶴線は、新鶴見操車場と共に3年後1929年開業です。


◆1965年(昭和40年)

以上の様に、鉄道発祥から昭和初頭の60年弱で首都圏鉄道網の骨格はほぼ固まり、1965年まで40年間の国鉄新線開業は、1929年南武線と1932年総武線両国-御茶ノ水間程度です。

東北本線大宮まで(3複線化工事中)、中央本線中野まで(三鷹まで工事中)の複々線化と、新型車多連運転で輸送力増強を図って来ましたが、昭和40年間で東京の人口は倍以上の1,000万人を超えてました。

戦後復興・経済成長による勤労者人口の増加、高学歴社会化による大学進学率上昇が背景にあり、団塊世代の就学・就職により、更に人口集中が加速すると予想されてました。

政府関係機関人口問題研究所予測では、1965年東京都内1,100万人、隣接3県含めた首都圏2,080万人に達し、15年後1980年には3,360万人と更に1.7倍近くなると予想されてました。 注目すべきは東京都人口増加率より、隣接3県の人口増加率が高い事です。 最下段数値は1950年に国民の1/6だった首都圏在住が、1980年に1/3近くなる事を示してます。

更に悪い事に1955-1963年の8年間で、東京都人口増加を大きく上回るペースで国電利用客が増加し、かつ通勤通学定期券利用客が急増してると解りました、つまり単身上京の就職・進学者が多く、隣接3県から長時間通勤・通学客が多い事を意味してます。


国鉄は『戦後復興』一段落後『新幹線建設・延伸』『主要幹線電化・複線化』『新線建設』に重点を置き、『首都圏輸送力増強』を後回しにしてきた感があります。 ラッシュ時国電乗車率は250-300%に達してました。 『どうする?国鉄』と問われてたのです。


ではまた。

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俳句の話 6月号

月に一度は俳句の話とお断わりしてるので6月号を、その前に目の話を少々。 高齢者読者も居らっしゃると思いますが、眼科主治医によると『眼球寿命は60年、80代白内障発症率100%』だそうで、織田信長が『人生五十年』と敦盛を謡い舞った時代と目の寿命は同じ、医学の進歩で人間が長生きするから、目が先にダメになると言う事でした。

【挿絵:中山平製材所】

白内障は水晶体、カメラならレンズの曇りで、15分の手術で簡単に視力回復します。 筆者は白内障術前検査で加齢黄斑変性、カメラならフィルムのシワが発見され、年数回注射手術で進行を遅らせてますが根治策はありません。 右目は進行し戦力外通告を受けてます。


更に運が悪い事に角膜変性、カメラならレンズフィルタが曇る遺伝性疾患があり、最近進行して益々見え悪くなってました。 角膜変性を貰った亡母は70歳過ぎで角膜移植手術を受けましたが、現在は曇った角膜表面をレーザーで削る手術法が開発されたと知りました。

5月24日そのレーザー手術を東京で受けました。 術後数日から1週間、角膜上皮が形成されるまで見え悪く、視力回復は個人差があると説明を受けました。 術後視界にあったグレーの小さな点々は消えましたが、視力は中々回復せず、車の運転ができないままです。 先日術後1ヶ月検査受診しましたが、術前0.6-0.7の左目視力は0.4-0.5に留まってました。

【挿絵:鉄橋脇の保線小屋】

従ってまだ工作も無理で車の運転できず、身動き取れません。 高齢者には教養(今日用がある)と教育(今日行く場所がある)が大事とは良く言った物で、今日行くは嫁さん送迎が必要ですが、俳句考えてれば時間持て余して退屈もせず、ボケ防止にもなります。


近作句紹介は発表済になりできません。 作句・推敲を経て作品に仕上げ句会提出、先生や参加同人評価を受け毎月6句投句、最大5句入選し翌々月機関誌に掲載されます。 未発表句しか投句できず、鉄道・旅関連入選句を紹介してるので、3-4ヶ月の時間差が生じます。 この暑さなのに冬の作句ばかりでは芸がないので、6月の句からです。

【画像出典:風太郎のPな日々】

2023年6月東北ドライブ旅行時の作句で、五能線岩館鉄橋の体験句です。 南風(はえ)は立夏から立秋まで使える夏の季語で、白南風は乾いた爽やかな風で晩夏7月、黒南風は湿った風で仲夏6月の季語とされてます。 風の爽やかさを『白し』と表現しました。

旅行時撮影写真がコチラ、霞が掛かった空の下を『リゾートしらかみ』が渡って行きます。 風情がないので、1980年代の風太郎さん撮影画像を使わせていただきました。

【2011年筆者撮影】

今年の北海道旅で礼文島再訪しますが、2011年新婚旅行以来再訪時の驚きを詠んだ句です。 6月初旬で稚内日の出は3:51、6:30利尻/礼文行フェリー乗客の為に、稚内ホテル朝食は4:00からでした。 緯度が高い土地ほど、季節による日照時間差が大きいと実感しました。

【画像出典:黄色いハンカチ思い出広場パネル】

炭坑夫が職業として定着したのは明治以降だと思います。 高収入で住居費も風呂代不要、農家二/三男のなり手が多く、炭鉱の町は賑わいました。 高収入は重労働見返りであると同時に危険手当込みでした。 昭和30/40年代数年に一度大きな炭鉱事故がありました。


『◆◆炭鉱落盤事故▲▼人生埋め』の様な一面大見出新聞紙面を何度か見ました。 一家の大黒柱安否不明の炭住街は沈痛な雰囲気に包まれてたでしょう。 斑雪は『はだれゆき』と読み、まだらに融け残った残雪の事で、春の季語、不安な気持ちを重ねました。

【画像出典:風太郎のPな日々】・・・夕張清水沢

冬の夕張訪問経験はないので、風太郎さん写真に触発された想像句です。 清水沢は双子のデュオ『ベッツィー&クリス』(若い人は?)出身地と風太郎さんブログで知りました。 昨年美唄-南千歳でお世話になったSさんによると、双子の妹さんが亡くなったそうです。


冬ざれは冬の荒涼とした風景や有様を表す季語で、この写真の十数年後、炭鉱も鉄道も廃止され、人口激減した夕張の冬はさぞ『冬ざれ』だったろうと、想像して詠みました。 もう一つ、風太郎さん写真に触発された想像句があります。

【画像出典:風太郎のPな日々】

これは写真見た瞬間に浮かんだ句です。 寒いから襟を立てるので、コート・ジャンバー・マフラー・手袋と共に冬の季語になってます。 風太郎さん作品には、同じ時代を生きた者にしか解らない、『昭和の香り』があり惹かれます。 今回はこの辺で。


ではまた。