さてラッシュ時国電乗車率250-300%に達し、新宿駅では『尻押し隊』が活躍した1965年の状況を国鉄がどう改善しようとしてたかの話です。 面白いデータがあります、1940年を100とした1964年まで24年間の、戦後期を含む首都圏地域別人口変動です。
都心千代田/中央/港3区は、東京空襲で1947年には人口半減、1964年まで緩やかに17年間で1940年の65%まで回復してます。 都心外縁品川/渋谷/新宿/豊島4区は戦災で半減、17年間で1940年より8%増えてます。 更に外側世田谷/杉並/中野3区は戦災の減少なしで、1964年に2.2倍に増加、更に西方中央線沿線は1940年から増加を続け4.1倍に急増してます。
武蔵野と同じく北方埼玉エリアは2.5倍、東方千葉エリアも3倍以上の増加率です。 つまり都心人口増加率は低く、都心から離れるほど人口増加率が高く、団塊世代中学進学で千代田区小学校が閉校になり、『都心空洞化』『人口ドーナツ化現象』と呼ばれてました。
首都圏通勤通学輸送人員は1日平均2,400万人、その1/3 800万人が国電利用者でしたから、『輸送人キロ』伸長率は凄まじい物でした。 私鉄線利用者は山手線ターミナルで乗換え、バスや未成熟地下鉄や廃止前都電利用者も居ましたが、山手線に利用者が集中しました。
旅客輸送能力は既に限界に達してましたが、貨物輸送能力はどうだったでしょうか? 重要な要素として東京湾では大規模な埋立工事が行われてました。 『干潟の自然環境を守れ』と言う環境NGOは存在してませんし、全てが経済発展優先の時代でした。
1965年時点で1971年度までの埋立計画が確定しており、総面積5,600万坪、東京ドーム何個分では追い付かず計算すると610㎢でした。 一辺24.7km正方形とも言えますが、
香川県1/3面積の人口造成地がベイエリアに建設中でした。 この方が実感が湧きますね。 しかも46%が工業用地で、京浜/京葉工業地帯を拡大する計画でした。
人口造成地に建設される工場群の原材料搬入・製品出荷は、海路港湾利用と陸路鉄道利用とトラック利用があり、海運業界予測に従い東京湾岸各港では準備が進んでました。 1959年基準(資料毎に基準が違います)で、1975年に海運貨物量が4.2倍と予測されてました。
一方京浜/京葉工業地帯拡大による鉄道貨物輸送量(大部分国鉄)は、1962年基準で1970年に平均2.6倍の予測でした。 特に千葉は7倍、国鉄貨物輸送量が少なかったエリアです。 東京着発及び通過貨物は、ほぼ全て山手貨物線を通過し、大宮・田端・新鶴見・新小岩の4操車場がハブになってました。 新鶴見操車場の作業内容は以下記事で紹介しました。
【過去記事より転載】
国鉄は『貨物輸送近代化』に取り組み始め、新型貨車による貨物列車高速運転を試行してましたが、貨物輸送時間に占める走行時間は22%に過ぎず、操車場業務近代化・輸送方式近代化が大きなテーマになってました。 つまりは仕事量と待機時間の削減です。
輸送時間の35%を占める操車場業務近代化では、自動貨車仕訳装置導入等自動化・無人化が大阪梅田操車場で始まってました。
輸送方式近代化では、トラック輸送との連携や貨車1両に満たない小口貨物輸送の標準化(コンテナ化)が進んでおり、仙台エリア宮城野操車場(貨物ターミナル)では広大な敷地で実現しました。 旅客輸送・貨物輸送共に伸び続ける首都圏は、『土一升金一升』と言われた地価高騰で山手旅客線複々線化や古い操車場改修ができない状況でした。
そこで考えられたのは、山手貨物線通過の貨物列車を首都圏を迂回し、大規模近代的操車場を設置する東京外環状線建設計画でした。 5大方面貨物列車を外環状線で結び処理可能になれば、山手貨物線を旅客輸送に転用でき、複々線化の効果があるからです。
東京外環状線建設計画は1964年度を開始年とする国鉄第三次長期計画に盛り込まれました。 都心から20km圏の5大方面を環状に結ぶ路線です。
東海道方面から甲府・東北方面を経て常磐方面を結ぶ武蔵野線、常磐方面と千葉方面を結ぶ小金線、人口造成地で京浜/京葉工業地帯を結ぶ京葉線3線で環状線建設の計画でした。
建設工事は千葉方面から東北方面の小金線/武蔵野線東部から始まってました。 迂回貨物線なので、人家から離れた場所に直線的に敷設され、集落から外れた場所は軟弱地盤の土地が多く、基礎工事に苦労した様です。 貨物主体の路線なので、5大方面幹線の交点には、貨物専用連絡支線が多く設置されてます。
約40km区間に8駅で平均駅間距離5kmと長いのは、5大方面幹線から離れた足の便が悪く、開発から取り残された地域で、地価も安く貨物線敷設に好都合だったからです。 新規設置される武蔵野操車場は、広大な敷地に建設される近代化した操車場でした。
この新線建設の設計基準から実物と模型の世界の対比ができます。 最小曲線半径600mはNスケール4,000mmでザッと13倍の緩曲線、軌道の中心間隔3.8mは25.3mmで、Peco27mmは実物に近く、KATOは実物より1,150mm広く、TOMIXは1,850mmも広いと解ります。 また道床厚250mmは意外と薄く、Nスケールで1.67mm、枕木の厚さ程度です。
【ウィキペディアより】
1964年着工の東京外環状線は、1973年4月に府中本町-新松戸間旅客/貨物営業開始、1975年に鶴見-新鶴見操車場-府中本町間貨物専用線営業開始しました。 当初は貨物列車運転合間に昼間40分毎、ラッシュ時15-20分毎の旅客列車運転でしたが、1970年代後半には貨物輸送近代化で貨物列車本数が減り、同時に沿線宅地化で旅客列車が増発されました。
その後、1978年に新松戸-西船橋間延伸開業、1988年12月に京葉線2期工区西船橋-市川塩浜間及び南船橋-新木場間が開業し、一部列車が京葉線と直通運転を開始しました。 1974年開場の当時最新鋭の武蔵野操車場は、民営化後のヤード集結型貨物輸送廃止ににより、開場から11年で閉鎖され、現在は梶ヶ谷・新座・越谷の3貨物ターミナルが設置されてます。
【ウィキペディアより】
武蔵野線開業後沿線宅地開発が進み旅客駅が多く開業し、現在では首都圏通勤通学圏に組み込まれてます。 東京外環状線で山手貨物線は旅客輸送用に転用され、埼京線・新福高崎/宇都宮ライン・新宿湘南ライン・横須賀線・NEX等、実質山手線複々線化になりました。 これと並行して首都圏旅客輸送に地下鉄が果たした役割も大きな物でした。
1965年当時の東京地下鉄は銀座・丸ノ内・日比谷の3路線のみでした。 その後次々と開業し現在は12路線、1987年までに大手私鉄全線とJR中央・常磐線が都心乗入開始し、山手線ターミナル乗換が減り、山手線利用者集中を緩和しました。 5大方面の東北-常磐方面間に2005年つくばエクスプレスが開業し、首都圏交通網の面を補完しました。
東京地下鉄網の現状は複雑怪奇で、A地点からB地点への移動経路が複数あり、どの経路が一番乗換えが楽で所要時間が短いか、馴れないとサッパリ解りません。 50年近く前に新婚生活を始めた田園都市線鷺沼を十数年前再訪した際、新開地に植樹したばかりの桜が大木になってたのと、鷺沼始発電車の行先が、東武伊勢崎線久喜だったのには仰天しました。
ではまた。
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