Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

北海道乗り鉄旅計画は難産の末に完成 前編

閑散期限定の超お買い得切符で北海道訪問予定の話を5月末に公開しました。

◆北海道乗り鉄急ぎ旅計画・・・5月28日更新

有効期間5日で出発日は9日間だけ、通常は行程を決めて宿を押さえて出発日を決めますが、今回は宿を重複予約して出発可能日を絞り込んでの見込み購入でした。 予定数販売で売り切れになるからで、つまり行程はポイントだけ抑えて後で立案する形になりました。

【大人の休日倶楽部 北海道・東北パス】

これがその割引切符で、星印6個は最大座席指定6回を使い切ってる事を意味します。 往復各1日で正味3日、その中にフェリーで礼文島へ渡る計画組み込むのが最大のポイントになりました。 まずは稚内へ行く必要があり、東京-稚内のルート探索をしました。

現在は新幹線と在来線特急3本乗継で14時間少々の所要時間、東京を朝出ればその日の内に稚内へ到着できます。 60年前に比べれば半分程度になったのではないかと、1966年3月号時刻表で調べました、当時の感覚で稚内は『地の果ての遠い場所』だったからです。

正に60年前の最速列車所要時間の半分でした。 『はつかり』『はくつる』利用で28時間、急行乗継で30時間以上、『ゆうづる』利用だと33時間、夜行列車2回で翌々日早朝着です。 ❶/❷が北海道内DC急行なのに対し、❸は客車急行で足が遅いのが原因です。


北海道内を函館起点で見ると、60年前稚内まで12時間半の所要時間が10時間に2割短縮してます。 また連絡船青森到着までの3時間50分で、ほぼ東京に到着する大幅な所要時間短縮で、新幹線tと青函トンネルの威力の大きさに驚かされるばかりです。

数年前のダイヤ改正で『あずさ』は、新宿終着でなく東京終着列車本数が増加し、新幹線へ乗継が便利になりました。 茅野7:00発『あずさ4号』は東京着9:26『はやぶさ11号』発車10分前ですが乗継はまず無理で、リスクが高過ぎます。 


『あずさ』は、東京駅3階高架1/2番線到着で、長いエスカレーターで地階コンコースへ下り丸ノ内側から八重洲側へ人混みを縫って東京駅を横断し、20数番線新幹線改札から乗車する余裕不足なのです、大きな荷物持っての移動なので猶更です。 昼食を含め長旅のお供調達に魅力的なお店が東京駅地階には数多くあり、乗換は30分以上の余裕が必要です。

ギリギリ間に合わず次の新幹線を待つのは芸がないので、茅野発7:39『あずさ8号』で東京へ移動します、冨士見・韮崎に停車する『あずさ4号』より快適です。

接続するのは東京発10:45『はやぶさ17号』、乗換時間44分で丁度良く、多少の遅延は吸収できます。 新函館北斗着15:01、ここから北海道内旅開始です。

確定した初日行程指定券です、信州の田舎から函館まで7時間半弱、初日に何処まで行くかを検討しました。 稚内や網走到達は無理で、候補は旭川か釧路です。

旭川方面は新幹線に接続する『北斗15号』で札幌、『ライラック39号』乗継で旭川着20:25です、翌日の網走方面・稚内方面の足掛かりとして悪くありません。

『北斗15号』が南千歳で石勝線釧路方面に接続すれば、初日釧路入りの手もあると調べたら接続が悪く、1時間40分ロスで釧路着も深夜です。 『あずさ』『はやぶさ』を遅くできる接続で、初乗り石勝線の夜間通過は味気ないので釧路入り案はボツにしました。

従って新函館北斗から『北斗15号』で札幌へ向かう訳ですが、旅の目的の一つ『山線乗車』の可能性がないかと長万部駅時刻表を調べました。 かつて複数の急行列車と特急『北海』が走った函館本線山線は優等列車消滅だけではなく、長万部-倶知安間は普通列車4本/日だけの廃止直前ローカル線に落ちぶれてました。 16:39発小樽行に着目しました。

『北斗15号』は長万部16:28着、小樽行普通列車に接続しており、2時間の大回りで山線乗車を初日に片付ける事ができます。 6月後半の北海道は7時半近くまで明るいく、余市辺りまで車窓風景を楽しめるでしょう。 小樽から電化区間で各駅停車電車に接続です。

そこで往路3枚目の座席指定は『北斗15号』新函館北斗⇒札幌を取りました。 長万部下車で山線乗車予定ですが、土砂災害不通バス代行や運転休止の不測の事態発生時は札幌へ直行する備えです。 これで札幌-稚内間夜行列車『利尻』が存在してれば最高なのですが。

と言うのは今回の礼文島訪問は通算6回目で、トレッキング(体力的に多分無理)や滞在が目的ではないので、稚内港6:30発便で香深へ渡り、島内観光バスを利用、稚内港16:15着便で戻る弾丸ツアーが効率的なのです。 新婚旅行当時は4時間弱の乗船時間で1日2便でしたが、大型高速船就航で2時間弱に海の旅も所要時間が半減してます。

北海道内経路探索すると、鉄道利用の他に航空便利用・高速バス利用経路が頻繁に登場し、札幌-稚内間の高速バスを調べました。 フリーパス適用外追加出費になりますが『利尻』利用客ニーズは今もあるハズと思ったらビンゴ、札幌⇒稚内夜行高速バスがありました。


『利尻』より大幅に所要時間短縮で運行されてます。 横3列シートの豪華バスでフェリーターミナルまで運んでくれます。 運賃¥6,200ですが、ホテル料金考えれば御の字です。 道央高速道旭川手前で旅の初日が終わり、2日目に入ります、夜行便は便利です。

【礼文島内観光バスパンフ】

礼文島ではフェリー到着に合わせて島内観光バスが運行されており、路線バス利用よりはるかに効率的なので利用します。 以前訪問した上記写真の澄海岬では強風を越えた台風並み暴風で、キャップを風にさらわれました。

【北端スコトン岬】・・・2012年撮影

島の最北端スコトン岬や桃岩展望台などを効率良く回るので、『滞在し自分の足で回らないと真の良さは解らない』主義を返上し、今回はミーハー観光客に徹します。 野次馬的興味があるのが最後に行く『北のカナリア広場』で、同名映画の撮影地です。

【島の分校セット】・・・ウィキペディアより

2012年訪問時は映画制作中で、稚内駅正面にポスターが貼ってあり、島南端知床バス停からトレッキングルート林道を少し登った林道脇の草原にポツンと建ってるだけでした。 翌年訪問時は観光施設として整備中で、舗装道路工事中でした。 抜けれると進んだら抜けられず、高低差20mほどの急斜面を草の根頼りに下りました、今どうなってるかの興味です。

【現在の利尻・礼文航路就航船】・・・2012年撮影

観光バスツアーは12時半に香深へ戻り、出航まで2時間近くあります。 馴染みの漁師宿の海の幸諦めた替わりに『ウニ丼』昼食して、公共温泉施設で汗を流すのも良さそうです。 さて、2日目の宿泊地は旭川の予定です。

稚内フェリーターミナル16:15着、特急『宗谷』発車まで1時間半近くあります。 稚内次駅は市街地外れの南稚内、かつて稚内機関区があり天北線分岐駅でした。 宗谷本線は南稚内から勾配を駆け上がり海を臨む丘の上に出ます、利尻島が見える撮影ポイントです。

【抜海駅1988年】・・・出展:風太郎のPな日々

この丘の上に今年3月廃駅になった抜海があります、駅前は何もありませんが2011年訪問時は駅から下った海沿いに集落があり、セイコーマートで買物しました。 タクシー往復可能な時間余裕ありますが1万円前後の出費、天候と懐具合次第になるでしょう。 2014年礼文島訪問時に旭川航空便で入り、宗谷本線乗車してるので19時以降の車窓風景は諦めます。


旭川には21時半到着宿泊、2日目までの行程確定です。 3日目宿泊地は釧路、4日目は旭川/札幌/帯広の何処かで、行動予定検討中です、次回に続きます。


ではまた。

ダイヤ改正のニューフェースたち

この処60年前1965年10月ダイヤ改正関連記事を続けて投稿してます。 当時筆者は高校1年で、限られた時間と軍資金がない中『何処へ旅しようか』と時刻表で模索してた頃で、列車名にも懐かしさを感じます。 この時登場した列車について雑感を記します。

【過去記事よりっ転載】

このダイヤ改正で、その後路線の顔になった列車が多く登場しました。

 

【紹介済みのニューフェース特急】

特急では東北本線『やまびこ』、ブルトレ『つうづる』、電車化され名古屋-熊本間に運転された『つばめ』を紹介しましたが、他にもニューフェースが多く登場しました。 

1961年サン・ロク・トウ大改正で国鉄は、全国で9往復だった特急を一挙に3倍近い26往復増発しました。 立役者はキハ82系で、東海道電車特急と『みずほ』を除き、『おおぞら』『白鳥』『つばさ』『まつかぜ』『みどり』がデビューしました。 1965年改正は1968年ヨン・サン・トウ大改正で特急大乱発への過渡期で優等列車大増発が行われてます。 

特急『つばさ』は同時に登場した『白鳥』と秋田で接続しており、1往復/日の運転でした。 しかし上り秋田8:10-上野16:40、下り上野12:30-秋田21:00の運転ダイヤは秋田からの上京に便利でも、東京から秋田に向かうには使い難いダイヤでした。 そこで特急『第2つばさ』増発、『やまびこ』で電車化された改正前『つばさ』盛岡行編成の転用です。

【過去記事から転載】

上野-仙台間東北本線特急『ひばり』は1962年4月に臨時列車として登場し、翌1963年12月に定期列車化されましたが、交直両用特急型電車開発が遅れ、当初はキハ82系で運用され483系電車化されたのは1965年10月ダイヤ改正でした。 従って大宮駅の停車セレモニーは電車特急『ひばり』運行開始セレモニーでもあった訳です。

151系電車特急『こだま』誕生は1958年、わずか7年で東京から仙台/盛岡、新潟にこだま型電車特急が運転される様になりました、 信越本線『あさま』は1966年10月、中央本線『あずさ』は1966年12月でした。 『ひばり』は電車化で増発されてます。

東京始発の九州行ブルトレ特急群は関西地区深夜発着なので、利用し難いと関西からの評判が悪い状態が続いてました。 東海道新幹線開業が状況を一変、新幹線乗継と関西圏乗客を対象にした関西ブルトレが誕生し、その祖が特急『あかつき』でした。


最盛期1974年には7往復関西圏-西鹿児島・長崎/佐世保間に運転されましたが、1975年山陽新幹線博多開業で3往復に、国鉄分割民営化時に1往復に減便され、関西ブルトレは42年半の歴史を2008年3月に閉じました。

サン・ロク・トウ大改正で登場した特急『みどり』は初期故障が続発したキハ82系予備車として最初の2ヶ月計画運休してスタートしました。 登場時は東京発特急『こだま』と乗継で同日中に博多到着できる列車でした。 新幹線開業や山陽本線・博多電化を経て始発駅は新大阪/岡山、行き先は熊本/大分、佐世保/大分と頻繁に変更されました。


1965年10月ダイヤ改正では小倉で大分行を分割した後、筑豊本線経由で佐世保行になりました。 走行路線電化で特急『みどり』電車化後の筑豊本線経由特急は『あかつき』に引き継がれましたが、1985年に廃止され、筑豊本線最後の優等列車になりました。

【JR四国 予讃線特急『しおかぜ』】・・・2023年

特急『しおかぜ』は現在岡山-松山間電車特急の名称ですが、1965年10月ダイヤ改正から1968年9月までの3年間新大阪-下関間特急名称として使われてました。

東海道新幹線開業と交直両用特急型電車登場により行き場を失った151系は、181系改造を受け、『あさま』『あずさ』の運転開始や『とき』増発に転用されました。 ダイヤ改正前まで、電機牽引で博多乗入れしてた『つばめ』『はと』用151系が余剰になり、改造待ちで遊ばせるのは勿体ないと言う国鉄内部事情で誕生し、短命に終わりました。

盛岡電化で仙台周辺から蒸機の数が激減しましたが、最後の砦として残ったのが常磐線仙台(岩沼)-平間で、C62牽引特急『ゆうづる』が蒸機追っ掛け撮り鉄ファンに人気でした。 急行『十和田』は上野-青森間常磐線経由夜行列車名称で、ダイヤ改正の増発です。

信越本線は1963年6月に長野電化完成し、9月に碓氷峠アプト式が廃止され電車優等列車が登場してました。 1965年10月ダイヤ改正で全車指定席急行『信越いでゆ』が新設されてます。 屋代で分割し長野電鉄乗入れ湯田中行3両が含まれた可能性がありますが、記録がなく定かでありません。 『信越いでゆ』は特急『あさま』登場まで1年で消えました。

北海道にはサン・ロク・トウ大改正で北海道初の特急『おおぞら』が誕生しましたが、本州側『はつかり』『白鳥』と夜行青函連絡船で連絡するダイヤでした。 本州側で寝台急行『北上』⇒特急『はくつる』、寝台急行『北斗』⇒特急『ゆうづる』の昇格に合わせ、連絡する北海道側も特急『おおとり』『北斗』が新設されました。


特急接続青函連絡船には少し先着急行も接続しており、函館では札幌方面3本の特急すぐ後に急行が運転されてました。 特急『ゆうづる』『北斗』新設でDC急行『第2すずらん』が増発されてます。 平面駅時代のガッチリした跨線橋の札幌駅が懐かしいです。

準急『ちとせ3号』は札幌-室蘭間区間優等列車の増発、準急『とうや』はダイヤ改正新設の札幌-洞爺間の優等列車です。 北海道の準急には耐寒仕様キハ55系が使われましたが、デッキ分離で耐寒性に優れたキハ22が準急だけでなく急行にも良く使われてました。


準急『ちとせ』『とうや』は日高本線準急『えりも』と併結運転される事が多かったですが、1966年の100km以上準急は急行にする変更で全て急行に格上げされました。 1968年の準急廃止は、特急大衆化と優等列車の2極化と利用料金値上げに終わりました。


ではまた。

1965年ダイヤ改正直前 私鉄編

金曜日毎にCLK講座を更新してきましたが、工作に必要な視力回復が思わしくなく、北海道旅行準備の為に当分お休みします、次回はバラスト撒布の予定です。 数回に渡り1965年10月ダイヤ改正直前の全国の動きを紹介しました。 最後は私鉄と路面電車編です。

【過去記事から転載】


★私鉄の動き

国鉄が新旧交替のこの時代は私鉄も同様でした。 西から見ていきます。

C60/C61からDD51への九州ブルトレ牽引機交替に比べればささやかですが、兵庫県南西部の小地方私鉄別府(べふ)鉄道でも蒸機が引退しDLがバトンを受けました。 別府鉄道は肥料工場から積出港への製品輸送を主目的に1921年開業し、1984年に廃止されました。

阪神電鉄が1965年に特急運転を開始し、記念切符を発売してます。 国鉄快速とのスピード競争が背景と思われます、2連には編成の短さに、12分間隔には運転本数に驚かされます。 関西私鉄は京阪・近鉄・南海・阪急全て並行国鉄線と競合してました。


関東では東武・京王・京急が国鉄とスピード競争をしてましたが、直接競合しない小田急と東急はのんびりしてました。 しかし湘南新宿ライン運転開始以降、小田急は直接競合する新宿-藤沢間に快速急行を、東急は特急を新設してスピード競争に参入しました。

地方私鉄の元を辿ると、地域産品輸送や住民の足として町の発展に繋げようとする有志や、鉱山・工場製品出荷を図る企業家の出資で建設された例がほとんどを占める中、琵琶湖西岸に建設された江若(こうじゃく)鉄道は利権がらみの政治臭がする鉄道でした。 結局国鉄が買収する事なく廃止され、湖西線建設時に路盤の一部が活用されただけでした。


江若鉄道には国鉄払下げや自社製気動車が在籍しており、キハ07の車体改造に加え、液体化と統括制御機能追加の大改造をして就役したのがニュースになってます。

国鉄・私鉄乗継駅構造は、国鉄線に平行して建つビルの2/3階に私鉄駅があるのが通例で、私鉄始発駅ではほぼこの形になってます。 空から見れば両者平行です。 中間駅同士乗継駅の場合、小田急町田、東急菊名/溝ノ口等の立体交差十字型もありますが、東京近郊事例で東急長津田、京急横浜、東武久喜・寄居などは平行型で、空から見れば左右です。


国鉄桜井線と近鉄乗継駅の天理は珍しい構造で、2階が国鉄駅、1階が近鉄駅で、1965年9月に竣工してます。 ボンネットバスが斬新な駅舎デザインを際t立たせてます。 上下配置は平行配置より乗り換えが容易で、他に多くあっても良さそうですが、土地の所有権などの問題があり実現例が少なかったのでしょう。

東海道新幹線開業で近鉄は大きな打撃を受けましたが、他の大手私鉄への影響は少なく名鉄はプラス影響で元気になった様でした。 岐阜-豊橋間を国鉄と同料金、急行/準急券不要で同じ所要時間が売りの名鉄にとって、在来線優等列車大幅減は追い風になったからです。 名鉄は特急を増発して3分所要時間を短縮し、国鉄への優位性を強化してます。

小田急が前年配備した2600系は、同社初の4扉20m車で現在に至る小田急通勤型車両の基礎を確立した形式でした。 増備車が2編成配備されてます。

間違ってたら申し訳ないですが、8000系は東武初の4扉20m車通勤型だったと思います。 1963年に登場し20年間に700両以上生産され、設計共通点が多い事から『私鉄の103系』の別名がありました。 1970-1980年代の東武鉄道の顔と言える形式でした。 前出小田急2600系と合わせ、大手私鉄通勤型車両が次々と20m化した時代でした。

単線区間の線路容量は、駅間距離にもよりますが10-12本/時間と言われており、それ以上は複線が必要です。 大手私鉄でも東武伊勢崎線や東急大井町線(二子橋併用軌道)には単線区間があり、近鉄名古屋線もそうだったと思います。


西武池袋線はこの時代に飯能まで複線だと思ってましたが、所沢周辺に単線区間が残ってたとは知りませんでした。 同線は成増まで運転密度が高く、郊外部も志木から先の運転本数が低かった様です。 所沢-西所沢間は複線化計画最後の2.3kmだったのでしょう。

西武新宿線・国分寺線に、遠い昔に消えたED級電機牽引混載貨物列車が走ってました。 各駅での貨物扱いは考え難く、沿線工場引込線からの貨物輸送だったのでしょうか。


★路面電車の動き

路面電車は激増する自動車交通の邪魔者扱いされ、大都市圏から消えゆく時代でした。

何度か拙ブログで紹介しましたが、大阪は東京より早く路面電車廃止に踏み切りました。 『1970年万博開催までに市内交通網整備完成』の錦の御旗があったからです。 その中心は地下鉄網の構築、万博に間に合わせる工期短縮には邪魔になる市電廃止の論法です。 お上の告知だけで市電廃止できたのは、右肩上がりの昭和時代だったからこそです。

大阪市電廃止で大量廃車が発生しました。 車齢が若い車両も含まれており、説明文の広島電鉄の他に、神戸市電、熊本市電、鹿児島市電にも譲渡されました。

都電14系統通称杉並線は、新宿から荻窪まで青梅街道に敷設された路線で、西武鉄道軌道線を都が買収したので、唯一の1067mm軌間都電でした。 青梅街道地下に地下鉄丸ノ内線が建設され1962年に廃止されました。 都電2000型は都電最後の新製車で、車齢が若かったので都電馬車軌道規格1372mm軌間に改軌されて最後のご奉公、銀座に姿を現してます。

前写真2000型は8系統都電として運転されてますが、8系統は中目黒-築地間、地下鉄日比谷線開業で廃止が決定されました。 山手線内に張り巡らされた都電網は10円で何処でも行ける便利な足で、廃止反対の声も交通渋滞解消の掛け声の前に掻き消されました。


ではまた。