Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

特急『みずほ』の話

本題に入る前に告知を少々です。 ご承知の様に当社レイアウト製作は、気候・眼病・俳句等で進行速度が遅く、所蔵する著作権切れ(~1967年12月)古本記事をネタにしてます。 本業のレイアウト製作よりこちらの方が人気ありそうで苦笑してます。 今年から紹介方法を変更してます。 鉄道P誌は複数号からテーマ記事作成に切り替えました。

【鉄道P誌1963年7月号表紙】
例えば1963年7月号、表紙が20系に更新される特急『みずほ』電源車なので今回使いましたが、この号には最近紹介した1963年話題、私鉄特急ロマンスカーの系譜第1回や新幹線建設進捗、新線開業、廃止路線、輸送力増強など様々なテーマの情報が掲載されてます。
◆米坂線紀行・・・1/3更新
この号単独で完結してるのは上記1記事のみです。 従って今回の記事も、この前後の号に掲載された特急『みずほ』関係情報を基に調査結果を加え、個人的思いも加えてまとめた物です。 テーマを絞った方が読み応えがあり、情報価値が高まると考えたからです。


◆時刻表マニアから見た特急『みずほ』
『みずほ』は東京と九州を結ぶ夜行特急の中では後発で、ブルトレブームが去って最初に消滅した列車、しかも生涯に渡り行先が変わった浮気者で良い印象がないのが本音です。

最初に目にした時刻表は1957年版、父が職場旅行幹事でいつも家に時刻表がありました。 特急は『つばめ』『はと』『あさかぜ』、不定期の『さちかぜ』(1959年以降『さくら』)の4本だけで、レレレ通過記号が並んだダイヤに憧れ、乗ってみたいと思いました。


◆特急『みずほ』アレコレ
『みずほ』は1961年東京-熊本間不定期夜行特急として誕生し、翌1962年には定期列車化されました。 1958年から製造開始された20系客車は『あさかぜ』『さくら』『はやぶさ』と順次投入されましたが、増備が追い付かず『みずほ』だけ旧型客車が2年続きました。

【旧型客車最後の上り『みずほ』1963.06.01】
食堂車と1等寝台車しか冷房設備のない継子扱いされてた列車で、夏場は特急料金割引制度で穴埋めしてたのです。 20系客車の置換は1963年6月1日九州発着からになりました。

表紙写真電源車は品川客車区撮影、東京発列車先頭に連結された電源車です。 20系客車置換に合わせ編成一部が大分行になり、分割編成用電源車が小倉工場で製作されてます。


想像に過ぎませんが『みずほ』分割大分行には、何故日豊本線を差別するのかという政治的圧力があったのではないかと思われます。 現在では民間事業への政治の不当介入に当る事が当時は政治家のやるべき当然の仕事として、暗黙の了解が社会にあったからです。

同日には日豊本線区間の試運転が行われてます。 完成したばかりの電源車が連結されてる様に見えますが、解像度が悪く判然としません。

6月1日最初の20系『みずほ』が門司駅に到着しました。 この時代の関門トンネル通過は碓氷峠越えED42同様にEF30の独壇場でした。

前方熊本行分割発車後、電源車とDF50を連結した大分行『みずほ』です。 日豊本線初特急なのに出発式もなくヘッドマークもありません。

日豊本線日出-豊後豊岡間の『みずほ』、列車後方からの撮影画像です、20系客車の開閉式窓は車掌室だけだったのではと思います。

さすがに東京直通特急の一番列車ですから大分駅で歓迎式が行われました。 しかし大分行『みずほ』の寿命は1年4ヶ月、新幹線開業の1964年10月ダイヤ改正で特急『富士』として分離独立しました。


そうなると九州で何故宮崎だけの声が起こるのは当然で、特急『富士』は宮崎を経て西鹿児島まで延伸運転される様になり、九州日豊本線経由夜行特急の地位を確立しました。

こちらは大分発上り一番列車、写り込んでませんが運転席内に花束一杯という事は出発式が行われたのでしょう。 でものっぺり顔のDF50、せめて花輪くらい付けたかった処です。

一夜明けた上り一番列車が東海道で捉えられてます、ようやく九州行夜行特急の同僚と肩を並べた訳です。 『みずほ』から派生した『富士』は最初から20系客車運転でした。

1963年6月から1964年9月までの東京発九州行夜行特急編成表です。 翌月『富士』が分離独立しました。 短期間で役目を終えた電源車は翌1965年『さくら』が長崎/佐世保行になった際に活用されたのでしょう。 ドン尻列車番号にも『みずほ』の扱いが現れてます。

ナシ20は他の九州行夜行特急と仕様が違った様な書き方をしてます。 標準的な味で値段が高い日本食堂は変わらなかったハズです。


日豊本線看板特急の座を追われた『みずほ』は熊本行に戻り、その後長崎行併結などの変転がありました。 山陽新幹線延伸と航空運賃との格差圧縮で1980年代後半にブルトレ人気は去り、『さくら』『はやぶさ』と運転区間が重なる『みずほ』が真っ先に廃止されました。 九州行ブルトレの中で『みずほ』と『第2あさかぜ』は華のない没個性列車でした。


◆寝台特急は新造語
当記事では九州行ブルトレを『夜行特急』と表記してます、ところが調査でしたウィキペディアには『寝台特急』と表記されてました。 当時の国鉄に『寝台列車』はありましたが『寝台特急』は半世紀前にはない言葉でした。 定義が不明で曖昧な言葉です。

【1963年時刻表より】
上表左端急行『音戸』と右端急行『安芸』『銀河』には『寝台列車』表記がありますが、九州行夜行特急にはありません。 『寝台列車』とは、乗客用車両全てが寝台車の列車を差す用語で、九州行夜行特急には座席車が連結されてるので『寝台列車』ではないのです。


寝台車主体の編成だから『寝台特急』で良いだろうと誰かが言い始めた物が拡散し一般用語化した新造語だと思います。 乗客用車両全てが寝台車の『寝台列車特急』は1967年の581系が日本初です。

仕事で何度か利用した急行『津軽』は、標準的な客車編成夜行急行で、1等寝台車1両、1等座席車/2等寝台車各2両、2等座席車5両と荷物車3両の13両編成でした。 『寝台列車』ではない平凡な夜行急行です。

この新造語は拡大解釈され、KATOは寝台車連結夜行急行=寝台急行として使ってます。 すると当時の客車編成夜行急行全てが『寝台急行』であり、山行の際に見かけたナハネフ10を最後尾に連結した新宿発中央西線経由名古屋行は『寝台準急木曽』になりますな・・・。


ではまた。

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