Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

60年前の鉄道P誌 1963年12月号

今回は鉄道P誌1963年12号単独掲載記事の紹介でテーマ性ありません。

【鉄道P誌1963年12月号表紙】
表紙は青大将『つばめ』色に塗られたコンテナ特急貨物列車『たから』号です。 貨物輸送市場をトラックに奪われ続けてた国鉄の挽回策でしたが、期待効果はありませんでした。


1.ある期間助手
1ページだけの記事です、国鉄広報部が企画し岩波映画が製作した安全輸送PR短編映画が、複数の賞を受賞してます。

安全輸送PRが目的なので、乗客から見えない場所で、国鉄職員が安全輸送を支えてると紹介する事が目的になります。 蒸機の機関助士とは『汽車の罐焚き』で、安全輸送と言うよりは定時運行を支えてた存在でした。

戦前戦後の小説家・詩人中野重治に『汽車の罐焚き』という小説があります。 戦前北陸本線での実体験を基に書かれた小説で、仕事の厳しさが解ります。 右手シャベルで石炭を掬い、左手で火室扉を開けて右手スコップを火室に差し入れて手首を捻るのです。


手首を捻るのは火床全体に石炭を撒いて均す目的で、連続上り勾配区間では、制帽顎ひもに濡らした手拭を挟んで鼻と口を覆い、数十分間連続で給炭作業を続けるのです。

航空便の副操縦士は機長を目指す見習いパイロットですが、蒸機の機関助士が将来機関士になる事例はあっても、見習い機関士ではなく完全な分業制でした。 蒸機はキャブに2人乗務しないと走れなかったのです。 当然、仲間意識や相棒の意識はあったにせよです。

映画にはこんなシーンもあった様です、安全輸送を支える縁の下の力持ちには保線区員の方が適切だったでしょうが、華がないですからね。

動画で見れば明らかですが、この写真でも右手のスコップを火室に差し込んでから手首を捻り、火床全体に石炭を撒いてる様子が解ります。


2.高森線
2番目は九州の飛びっきりのローカル線高森線訪問記です。

著者は九州国鉄路線のディーゼル化が進み、全列車蒸機運転路線が少なくなったと書かれてます。 高千穂峡観光の帰りに熊本へ向かう途中で高森線を訪問されてます。 高速道も道路整備もされておらず、阿蘇外輪山の高森峠を七曲りと呼ばれる道で越えてた時代です。

高森線は広大な阿蘇カルデラ西端の立野で5岳北を通って大分へ向かう豊肥本線から分岐し、5岳南側を通って高森町に至る盲腸ローカル線です。 鉄道敷設計画段階では、高森から高千穂まで延伸して延岡まで結ぶ予定でしたが実現しませんでした。

1面1線ホームに機廻し線の典型的終端駅で、C12が走ってた線区です。 高千穂から高森へのバス乗客で高森線に乗り換えたのは著者1人、他の乗客は熊本行バスに乗り換えたそうで、この時代に九州の片田舎にまで自動車交通発達の波が及んでたと解ります。


オハ35系2両を従えた116レ、この編成が日に5往復します。 117レ/118レが混合列車になり貨物輸送を担当してました。

高森線は廃線せず第三セクター南阿蘇鉄道として生き残り、2016年熊本地震で大きな被害を受けました。 トンネル亀裂や橋脚破損で不通が続き、2018年から5年の復旧工事が行われ、昨年7月に全線復旧しました。


震災等激甚災害の指定を受ると国費(税金)で被災地の復旧復興が行われますが、集中豪雨被害は激甚災害指定がなく、復旧は所有者と自治体任せになります。 個人的には南阿蘇鉄道復旧より米坂線復旧の意義が高いと思うのですが、米坂線は廃線宣告待ちの状態です。


3.中国山脈越え
タイトルは高森線訪問記と連番ですが著者は異なり、鉄道P誌編集部がシリーズの様に番号を振った様です。


それにしても『蒸気車』とは変な言葉、『蒸気機関車』または『蒸気機関車牽引列車』の略語として使ってるのでしょう。

『中国山脈越え』のタイトルが示す通り陰陽連絡各線で活躍する蒸機牽引列車のお話です。 三江線全通前で予定線になってますが、倉吉線終点山守から姫新線勝山への延伸計画があったと解ります。 上郡-智頭間は智頭急行線として、京阪神と鳥取を結ぶ動脈として実現しましたが、元は国鉄路線としての敷設計画だったのでしょうか、良く解りません。

著者は大阪以西への新幹線延伸を見据え、今後伯備線の重要度が増すだろうと予測してますが、陰陽連絡線で唯一電化され予測が的中しました。

C56がオハユニ61 1両だけを引く木次線列車は、旅客・手小荷物・郵便全ての機能を持ってます。 C56次位にトムとワフ連結した混合列車ならオールマイティ列車になります。

著者はまた、この時点では東北奥中山や板谷峠、北海道に集中してる鉄道写真家達が近い将来中国山脈越えに集中するのではと予測してますが、これも的中しました。


3月下旬のニュースで庄原-備後落合-新見間の芸備線が廃止前提で地元協議が開始されたとありました。 中国地方中央部を東西に結ぶ芸備線は沿線に中国自動車道が開通して以降、交通機関としての存在意義が大きく低下しており、止むを得ないのでしょう。 となると木次線南部も同時に廃止されるのは間違いなく3段スイッチバックも姿を消すでしょう。


4.東急田園都市線延伸計画宇
この年1963年10月に東急田園都市線溝ノ口-中央林間間の第一期工事溝ノ口-長津田間の起工式が行われてます。 1966年6月開業予定で、2年8ヶ月の工期です。 東急は1960年2月~1961年12月の1年10ヶ月で、はるかに長距離の伊豆急を建設開業した直後でした。

起工式会場の道標に登戸5km、長津田3kmとある事から、青葉台付近、参列者の便が良い国道246号線近くで開催された様です。

田園都市線開通前の沿線は、西北西と東南東を並行して結ぶ国鉄南武線と横浜線、両線とほぼ直角に交わり北東と南西を結ぶ東急東横線と小田急線に囲まれた開発から取り残されたエリアでした。 国道246号線沿いの目ぼしい街は元石川(多摩プラーザ付近)しかなく、国道から一歩入れば田畑や養鶏場など『隣のトトロ』の世界が広がってました。

工事完成予想図が掲載されてます。 田園都市線と改称される前の大井町線二子玉川駅は地上2面2線駅で、246号線多摩川橋を単線併用軌道で渡ってました。 渋谷-二子玉川間の路面電車玉川線、通称玉電廃止地下鉄化計画に合わせ高架2面4線乗換駅に改修されました。


新玉川線開通後、長津田から新玉川線直通運転が行われてこのルートが田園都市線になり、大井町-二子玉川間は、大井町線⇒田園都市線⇒大井町線と改称が繰り返されました。 なお当時は東急経営二子玉和園遊園地が閉園前で、二子玉川園が駅名でした。

二子玉川駅改修と複線多摩川鉄橋架橋に合わせ、二子新地-溝ノ口間も高架化され、徒歩数分離れてた国鉄溝ノ口駅と立体交差になり、乗換えの利便性が向上しました。

  

長津田駅は国鉄横浜線に並行した島式ホームの形になりました。 中央林間までの延伸が決まっており、立体交差高架駅の選択もあったハズですが、長津田から田奈弾薬庫跡地にできたこどもの国への支線と、その途中に建設予定車両基地により地上疫になりました。


この記事掲載1年半後、開業前田園都市線沿線の実地踏査を高校の部活で実施し、筆者撮影スナップと共にブログで2016年に紹介してますので、再掲しておきます。

溝ノ口-梶ヶ谷間の多摩川河岸段丘を潜り抜けるトンネルです。 開業20年後の1980年代末にはトンネル上の丘にビッシリ住宅が建ってました。

梶ヶ谷-宮崎台間の谷を渡る高架です、見渡す限りの田園風景でした。 車が走ってる高架下の片側1車線道路が当時の国道246号線です。

宮前平駅です、10年ほど前に写真撮影場所を確認しようと再訪しましたが、道も付け替えられており全く解りませんでした。 坂を下った右奥のわらぶき農家で、東急が1953-1954年頃一帯の土地を買い漁り、その時¥500/坪が開業直前のこの時すでに100倍の5万円/坪の話を聞き、『鉄道錬金術はすごい物だ』と感心した事を懐かしく思い出します。


1978年結婚して新生活をスタートしたのが1駅先の鷺沼、抽選に当たって百合丘公団住宅転居後は、宮前平鉄橋下を毎朝通って通勤してたなじみ深い土地です。 ブログで知己を得たoomoriさんは、この近くで子供時代を過ごされたと伺ってます。


ではまた。

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