Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

1963年 進む輸送力増強

1960年代は国鉄近代化計画に基づく幹線電化と、地域発展の動脈となる新線建設が全国各地で進んだ時代でした。 十数年後から赤字ローカル線廃止が次々行われたのは何とも皮肉でしたが、自動車交通急速発展を読めなかった交通政策の失敗の見方もできます。


◆常磐線平電化
先日紹介した信越本線長野電化はこの年7月でした。 その直前に常磐線平電化が完成してます。 常磐線は取手まで国電区間直流電化、その先勝田まで交流電化時代が続きました。 次は平電化、勝田-高萩間を先行し6月から平まで電化営業運転が開始されました。

試運転中の401系編成です、4月29日湯本駅での撮影です。

同日営業運転旅客列車はC60牽引でした。

常磐線電化の顔とも言えるEF80、電化完成路線では電機慣熟運転に蒸機がバックアップに付いてました、架線トラブル等万一に備えての措置だったのでしょう。 一方の電車試運転蒸機バックアップはなかった様で、貨客営業運転と試運転の違いだったのでしょうか。

6月1日平発上野行464M出発式です、平市長のテープカットです。

同日上野発平行453M到着式も開催されてます、電化は市民長年の夢だったのでしょう。


◆山陽本線全線電化
1963年の山陽本線電化は広島まででした。 関門トンネルは開通した1942年から電化でしたし、鹿児島本線門司-久留米間は1961年に交流電化されてますので東から西へ電化が進んだと思ってましたが、大都市圏優先で広島-下関間が後回しにされてた様です。

年表よるとこの区間の電化は東西から順次延伸し、広島方横川と小郡間が最後に残った区間で、翌1964年7月に全線電化が完成してます。 架線柱が立ち架線設置工事が始まってる大幹線を8620が単機回送する姿は、当時でも珍しい風景だったと思います。


◆北陸本線電化延伸
北陸本線電化は金沢まで完成しており、次ステップは富山でした。

富山電化に備え金沢車両基地が建設中で、一部供用開始されてます。


◆新清水トンネル
上越線は沿線出身の大物政治家の影響で信越本線より早く電化されました、東北新幹線より上越新幹線が先に建設された事でそれは明らかです。 上越線輸送力増強には上越国境越えがネックになってました。

【新清水トンネル起工式】・・・1963年10月26日
子供の頃、社会科教科書に載ってた鉄道建設先人の偉業は、箱根越え短縮の丹那トンネルか、両側にループ線を配して掘削距離を短縮した日本一長い清水トンネルでした。 北陸トンネル完成で自信を深めた国鉄は、ここでも長大トンネル追加複線化を選びました。

【貫通した新松川トンネル入口と従来線】
右に見えるループトンネルの上段に谷川岳連峰登山ベースの土合駅があります。 新清水トンネル完成後従来線は上り線になり、下り線土合駅はトンネル内で長い階段で地上と結ばれる様になりました。


◆新小仏トンネル開通
どこの路線でも輸送力増強のネックになったのは峠越え単線トンネルで、中央本線では小仏トンネルがそれに当たります。

新小仏トンネル自体は旧トンネルと並行し長さはいくらも違いません、違うのは出口から相模湖側です。 旧線が山裾を回り込む様にカーブ連続に対し、新線は直線的に確か4本のトンネルで結ばれてます。


時間とお金の掛かるトンネルはできるだけ短くの鉄道建設の常識は崩れ、前方に山があるならトンネルで真っ直ぐブチ抜くのが良い、その方が距離も短く高速運転可能になると、常識がすでに書き替えられてました。


◆津軽丸級完成進水
国鉄には海路もありました、北海道との輸送力増強に大型高速青函連絡船の第一船津軽丸がこの年完成進水してます。

八甲田丸、十和田丸、羊蹄丸、摩周丸など同型船7隻の就航により、青森-函館間は4時間30分から3時間50分に所要時間が短縮されました。 また貨車輸送に加え1967年から乗用車航送を開始し、フェリー機能を併せ持ちました。 筆者利用は全てこの型の連絡線です。


◆広がる通勤圏
1960年代は大都市人口集中が進んだ時代でもあり、鉄道のスピードアップに伴い通勤距離が長くなって行きました。 首都圏の場合、それまで国電運転区間内だったのが、市原・佐倉・牛久・上尾・上野原へと広がり、通勤客需要増への対応が必要になりました。

1950年代末まで千葉より先の房総方面は関東の田舎でした。 そこへ千葉都民が暮らす様になり、通勤型DCが配備された訳です。

首都圏・関西圏だけでなく中京圏・北九州圏も同じで、非電化路線では定員が多く乗降時間を節約できるキハ35系が重宝されてました。 中央西線名古屋方電化区間が高蔵寺か多治見だったかは解りませんが、その先土岐市/瑞浪からの通勤客増対応だったと思われます。


対角方向関西本線は非電化でキハ35系が既に投入されており、弥富や桑名付近からの通勤通学客輸送に当ってました。


◆伸びる観光需要
私事で恐縮ですが1961年正月に4泊5日の家族南紀旅行に連れてってもらいました。 1960年代は家族温泉旅行が庶民のささやかな贅沢として流行り出した時代でした。 サン・ロク・トウ(1961年)ダイヤ大改正で、首都圏から伊豆方面や水上/長野原(草津)行、関西圏から白浜や城崎/宮津行準急(週末運転含む)が多く誕生し需要増加に応えました。

サン・ロク・トウ大改正で特急が増発され、ある意味特急利用の壁を低くした側面もあります。 紅葉シーズンの関西/北九州圏からの山陰訪問旅行客も増加した様です。 夜行使わず朝出発なら『まつかぜ』が早くて便利、期間限定で2両増結し9連運転されました。


この時代の輸送力増強は何と言っても大動脈東海道新幹線開業ですが、全国各地で着々と電化・複線化を柱とした輸送力強化が進んでました。


ではまた。

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