Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

米坂線紀行

昭和35年は1960年、64年前の米坂線紀行文がありましたので紹介します。 随所に日本が元気だった時代の香がしますので、原文記事を引きながら、筆者の思い出や考証を加え、正月箸休めにまとめてみました。

筆者の米坂線乗車経験は、1975年か1976年の勤務先ワンゲル夏合宿飯豊連峰縦走の帰路に小国-坂町間に乗車しただけ、すでに50年近く昔です。 若い頃の均一周遊券旅で足を踏み入れてなかったのは、多分坂町(新潟県)が自由乗降区間外だったからだと思います。


それでも往復いずれかに上野-坂町夜行急行使えば米坂線完乗できたのですが、坂町着4時台、坂町発0時近くで接続が悪くパスしたのかもしれません。 恐らく似た事情で磐越西線喜多方-新津間も未乗です。

著者の米坂線訪問動機は、国立公園内の峠越えルートで風景が期待できる事と、区間列車を除く全列車が9600牽引列車である事を挙げてます。 無煙化15年前で9600は400両以上在籍してましたが、当時は早期廃車計画だったので、『今の内に』だったのでしょう。

サン・ロク・トウ大改正前で、上野発羽越本線経由秋田行急行は運転前だった様です、新潟行夜行準急から新津で乗換え、米坂線上り始発列車に乗車してます。 250kmを越える遠地へ出掛ける場合は、仕事もプライベートも夜行列車を使い時間有効活用が常識でした。


特に¥100で距離に係らず利用できる夜行準急は庶民の味方とも言え、現代の高速夜行バスの様な役割を果たしてました。 安くてそこそこ早い、居住性は雲泥の差でしたが・・・。

著者は米沢行上り始発列車を玉川口駅で下車してます。 下り列車荒川橋梁撮影が目的で、時刻表から列車交換駅を割り出し、通過時間を推定する方法は昔も今も同じです。 現在はスマホアプリのナビ情報で列車位置が解る様で、黴の生えた技法は筆者だけかもです。

著者訪問4年後19654時刻表で検証します。 今泉-米沢間区間列車とDC準急を除き、坂町-小国、小国-米沢区間列車も全て蒸機牽引列車は変わりなく、坂町始発が7:00から6:56に変更になってるだけです。 普通列車所要時間3時間前後、表定速度は30km/hの低さです。

下り時刻表を見ると米沢発始発列車と小国で交換するダイヤも同じです。 この上下時刻表から解る事が二つあります。
➊小国に9600 2両収納可能な機関庫を持つ駐泊所があった。
坂町と米沢双方から終着列車があり、翌朝小国発始発列車があるので、2両の9600が小国で夜を明かし、雪深い地方なので機関庫のある駐泊所があった。 給水/給炭施設や乗務員/燃料班詰所もあった。 五能線深浦や紀勢本線串本と同じ区間列車発着駅のケース。
➋小国と今泉(多分)に給水施設があった。
91km弱の路線なので機関車交替の必要がなく、機関区は坂町/米沢で大丈夫だが、給水施設は小国の他にもう1ヶ所必要で、距離と停車時間から今泉にあったと推定される。

【過去記事より転載】
時刻表の準急『あさひ』は著者訪問時に運転されてました。 写真は雪と国鉄に掲載した準急『あさひ』で、撮影日は1961/2、サン・ロク・トウ大改正前、著者訪問の5ヶ月後です。 編成はキハ55系x2+キハ20です。

荒川橋梁撮影の下り列車写真は掲載されてません、雨模様の天候で思う様な画が得られなかったからです。 混合列車だったの記載があり間違いではありませんが、正確には通過貨車併結旅客列車です、新庄-米r沢間発、北陸/関西方面着の米坂線通過貨車の併結です。


乗客が乗った客車を貨物入換作業に付き合わせる事はできず、米坂線内で貨物扱いするには客車と貨車の順番が逆です。 それに客車暖房にストーブが必要になります。 線内で貨物扱いをする貨物列車の負荷を軽くする為に、通過貨車を旅客列車に併結したケースです。

玉川口へ引き返し乗車した116レの写真が掲載されてます、始発列車と同じ3両編成、先頭はハニかハユニです。 9600は長距離本務機運用の場合はデフ付きでした。 入換機運用デフなしの方に馴染みがあります。


著者は米坂線撮影最適地と事前調査で当たりを付けた峠越え区間伊佐領-羽前沼沢へ向かい、伊佐領で下車してます。

通過した小国についてこの様に書いてます、事前調査されたのでしょう。 年間乗降客75万人は1日平均2,055人、相当な数です。 準急入れて日に18本の上下発着列車なので、1列車当たり乗降客は114人、乗客半分近くが入れ替わる拠点駅だったと解ります。

飯豊連峰と朝日連峰を結ぶ鞍部の峠越えが伊佐領-羽前沼間で、米坂線はトンネルと橋梁が連続する区間です。 通称眼鏡橋と呼ばれるアーチ橋があり、伊佐領から越後街道を5km以上歩いて向かってます。

その歩いた街道についてこう書かれてます。 幅員3.5-4.0mでは普通車同士は徐行か一方停止で擦れ違い可能ですが、大型車になるとほほ100m毎に設けられた待避所使わないと擦れ違いできません。

【国道439号線 土佐大正付近】・・2022/11撮影
自動車交通の発達と道路改修により、そのほとんどは姿を消しましたが、開発に取り残された地方には今でもその面影が残ってます。 昨年四国旅行の四万十(中村)-土佐大正間は、残り15km看板で20分と思ったらこんな道に変わり、15kmに50分要しました。


今年の因美線沿線国境越えでも、国道バイパスは直線トンネルで5分、旧国道は峠ウネウネ道で30分、因美線は急勾配とトンネルで15分、鉄道は物流主役でなくなってました。

その眼鏡橋の撮影画像がコレです。 ただし最初の訪問は雨に祟られ、上ノ山温泉で1泊し、翌日蔵王観光の後山形から夜行で帰京してます。 往復夜行現地1泊は筆者昔の東北駆け足旅と句-05とお同じです。 強行軍とは言えない、ごく当たり前の旅日程でした。

【羽前沼沢 1966/9】
天候に恵まれず撤退した際に羽前沼沢から乗車した118レ、羽前沼沢14:00発、米沢15:18着です。 1960年配置表によると、坂町/米沢両機関区に9600が各7両が配属されて米坂線を担当してました。 4年後1964年も12年後1972年配置も同数、米坂線の蒸機王国が長く続きました。(註:8年後1968年配置表では坂町9両、米沢8両に増備されてます)

著者は翌月10月初旬に再訪、今度は峠越え区間に的を絞り夜行で米沢から入るもまたしても雨天で撤退、半月後10月下旬3度目の訪問で目的を果たしてます、情熱がスゴイです。

【羽前椿 1960/10】
著者が乗車した米沢発坂町行始発115レ(手前)と、小国発米沢行始発112レの羽前椿駅での交換風景です。 デッキから貨物側線に降りて撮影した様です。 なおこの2列車の交換は掲載した1964年時刻表では羽前椿でなく隣駅手ノ子駅で行うダイヤ改正がされてます。

【羽前沼沢-伊佐領間 登戸トンネルと小滝鉄橋】
米坂線峠越え区間の見せ場の一つです。 トンネル出口に、丸でトンネル内壁が飛び出した様に線路を覆う、雪崩覆いとも雪崩割りっとも言える施設が設置されてます。

1960年9月10月に3回米坂線を訪問した著者のの結びの言葉です。 

後書きにはこう書かれてます。 この時代では正論であり正しかったのですが、1966年サニー/カローラ発売に端を発したモータリゼーションの急速普及と、1972年列島改造論による土建国家化でわずか20年後1980年には鉄道が物流の主役の座から滑り落ちてました。

【越後片貝 2023/6】
米坂線は2022/8の記録的集中豪雨で被災したまま不通が続いてます。 1960年に同様な災害が発生してたら、地域の生活を守る為、国費を投じ2-3ヶ月で復旧したでしょう。


民営化JRには赤字を増やす結果になる復旧に巨費を投じる余裕がありません。 地元協議が継続してますが、多分近い将来廃線が決定されるでしょう。 ローカル線は災害不通が廃止に繋がる時代になってます。


ではまた。

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