Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

碓氷峠百年物語 序章

1893年(明治26年)横川-軽井沢間が開業して信越本線が全通し、『碓氷峠越え』が始まりました。 1997年北陸新幹線高崎-長野間開業で横川-軽井沢間は廃止され、百年余の歴史の幕を閉じました。 明治初期の計画段階に遡り『碓氷峠越え』の歴史を振り返ります。


1.明治初期の鉄道敷設計画
東海道本線の東京-名古屋間はほぼ旧東海道に沿って走ってますが、その先は違ってます。 宮から桑名に渡り鈴鹿峠を越えて草津に至るのが旧東海道で、東海道本線岐阜-草津間は旧中山道に沿って走ってます。 何故こうなったかの答えは明治時代初期にあります。

明治政府は東京と京阪を結ぶ鉄道敷設必要性を早くから認識しており、東京-横浜間建設中の1870年から東海道/中山道どちらの街道沿い鉄道を先に敷設するか測量調査し、建設技師長ボイル氏の実地踏査を経て、1876年中山道ルート優先を決定してます。

この決定に従い東京-高崎間と、長浜-大垣間の鉄道敷設工事が開始されましたが、西南戦争などの影響もありました。 1872年の東京-横浜間開業に続き、関西では神戸-京都間が1877年に開業、1880年に大津まで延伸され、大津-長浜間に鉄道連絡線が運航されました。

西南戦争後遺症から立ち直った政府は1883年から鉄道敷設を加速させます。 1884年長浜-大垣間と上野-高崎間、1885年高崎-横川間も開業しました。 しかし1886年工期短縮可能な東海道ルートに変更し、岐阜-草津間の中山道本線は東海道本線の一部になった訳です。

【参考画像】
何故最初に山また山の中山道ルートが選択されたか現代の常識では不思議な気がします。 理由明記の資料がなく筆者推定に過ぎませんが、トンネル掘削技術以上に長大鉄橋架橋技術が未発達で、相模川、富士川、大井川、天竜川、木曽三川が障壁になったと思われます。 江戸期に確実な到着を優先するなら、川止めのない中山道利用文化が残ってた時代でした。


2.碓氷峠越えルートと方式検討
東京と京阪連絡の中山道本線構想が東海道ルートに変更されても、碓氷峠越えが不要になった訳ではなく、東京と日本海側を結ぶ重要ルートとして鉄道敷設計画が進められました。 横川と碓氷峠は距離8kmで標高差556m、直線で結んだ場合70‰の勾配になります。

南技師は周囲の山越えルートも検討して通常方式では無理と判断し、100‰は据付蒸気機関によるケーブルカー式、66‰はアプト式、50‰以下は特殊な制動力強化機関車式(アプト式廃止後の方式)とする方針で、ルート検討と測量を開始しました。


並行して建設が進んた信越本線は1886年に直江津-軽井沢間が全通し、軽井沢-横川間の国道沿いに開業した馬車鉄道と合わせて、東京-直江津間を歩かず旅できる様になりました。

スイッチバックやループ線を含む碓氷峠越え5案は1886年3月に測量まで完了しました。 距離が長くトンネル/橋梁が多いほど工期が長く建設費が嵩み、また所要時間にも影響します。 技術的課題を含め悩んでた1886年7月に東海道ルート変更が決定されました。


3.ルート決定と建設
ルート/方式が決まらない時に欧州留学中の若手技師からドイツの66‰アプト式実用化の情報が届き、アプト式採用を前提に1890年からルート再検討と再測量が行われました。

この4案からトンネル数は多いが距離が短く、資材運搬に馬車鉄道を使える中尾線案選択が1891年2月に決定され、3月に着工されました。

資材は全てドイツから輸入され、橋梁は強度が必要で、外国人技師設計のレンガ積み橋脚が多く採用されました。

列車荷重を支える頑健な構造が採用されました。 これを読んで何故歯軌条が3本だっやのか正しく理解できました、確かに1/3ピッチずらした歯車の1本が常に完全に噛み合ってないと荷重を支えられません。

突貫工事の末、着工2年未満の1892年12月に完成しました、重機も掘削機もない時代のこの建設速度には驚くしかありません。 事実後年碓氷峠越え複線化工事に係った国鉄技術者も短い工期に驚嘆してます。 工事犠牲者500名、慰霊碑が建ってるハズです。

時を同じくしてドイツのアプト式用エスリング製Cタンクロコ4両の部品が横浜に到着して組み立てられました。

このCタンクロコの制動装置は、手動/真空に加え歯車軸制動装置、更に下り勾配絶気運転時にシリンダーに空気を送り込んで制動力を得る反圧制動機、いわば後年の回生ブレーキを装備したアプト式用蒸機でした。

1893年初頭から試運転を開始しましたが初物に付き物のトラブルが発生し、世間の評判は良くなく、2月の衆議院国会で質問を受けてます。

以上の国会質問に対し鉄道局井上局長は以下の答弁をしてます。

勿論最も良い試運転結果に基づく答弁なのは今も昔も変わりません。


4.開業から蒸機運転時代
国会質問直後の1893年4月1日に開業し高崎-直江津間が全通しました。

旅客列車4本、貨物列車5本、共に6両編成基準で横川-軽井沢間75分(l国会答弁60分)、内5分は熊ノ平での給水時間でした。 短い距離で給水必要な事が過酷さを表わしてます。

機関車4両の輸送力では不足し、1895年に英国ピーコック製1Cタンクロコ2両が増備されました。 エスリング製蒸機の引張定数7両に対し9両の強力機でした。

1897年の碓氷峠越えに奇妙な車両が登場しました。 機関車次位に連結される『ピニオン車』と呼ばれた歯輪車で、2軸有蓋車を改造して3軸化し、歯車を取り付けた車両です。

これがそのピブ1、形式名はピニオンブレーキ車に由来する様で、解説ありませんが、牽引トン数増加に伴う制動力向上が目的だったと思われます。 この車両は電化後の1929年まで列車の錨の役割を果たしてました。 駆動力を持たないEF63のご先祖様と言えます。

碓氷峠輸送量特に貨物の増加は著しく、1898年に就役中6両に加えピーコック製4両が増備されました。[続く]


ではまた。

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