Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

碓氷峠百年物語 第2章

本シリーズは鉄道P誌に掲載された複数記事を、碓氷峠越えをキーワードに、明治初期から歴史を追ってその変遷をまとめ直した物です


前回、東京-京阪間鉄道敷設計画が始まった1870年から横川-軽井沢間開業の1893年、そして蒸機増備で輸送力増強した1898年(明治31年)までの経緯を紹介しました。 百年物語の前段から開業後まで28年間の物語でした。 今回はその続編になります。


4.開業から蒸機運転時代(cont.)
蒸機増備に加え輸送力増強の様々な工夫がされました。

中間に補機を挟む貨物列車運転が開始され、1904年には日に旅客列車5往復、貨物列車19往復、計24往復が運転される様になりました。 写真は横川からアプト式区間が始まる信号所まで複線化した時代です。

丸山信号所からアプト式開始区間を望んだ写真です。 本線ポイント先にアプト式歯車噛み合わせ区間があり、その先の急勾配が見えてます。

開業15年の1908年(明治41年)には蒸機25両で日に36往復体制になりました。 煙害問題をトンネル入口の幕で改善したとあり、碓氷峠がトンネル幕の発祥地だと解ります。

日に36往復は丸山信号所-軽井沢間を熊ノ平で交換し、24H/40分毎運転で達成可能な上限で、これ以上の輸送力増強には、スピードアップ・牽引力アップ・線路増設の三者択一の状態になりました。


5.電化による輸送力増強
1906年に鉄道国有化を実施し1908年鉄道院が誕生、電気課が新たに設けられました。 碓氷峠輸送力増強の、スピードアップ、牽引力アップ、線路増設の三者択一は、1909年電化によるスピードアップと牽引力アップの同時実現が決定され、翌1910年に着工しました。

当時の電化は電気を作る処から始める必要があり、横川に火力発煙所が建設されました。 米国GEから技術導入した1,000kWx3基でしたが、燃料常磐炭の質が悪く苦労した様です。 電力会社からの送電が始まった1939年に横川発電所は廃止されてます。


発電所から丸山/矢ヶ崎両変電所に地下ケーブルで送電され、直流650Vに変換して給電されました。 トンネル断面が小さく架線を張れないので、横川/軽井沢駅構内は架線ポール集電、その間は第三軌条集電が行われました、後の地下鉄銀座線と同じ方式です。

着工翌年1911年9月には電気関係の工事を完了し、ドイツから輸入した10000型電気機関車12両が到着してます。 210kW電動機2基でそれぞれ3軸駆動輪と歯車軸駆動方式で、試運転ではトラブル続出、メーカーが66‰試験線での試験ができなかったからでした。


それにしても近代国家建設情熱に燃え、安全/労働時間管理の概念さえなかったとは言え、当時の日本人の仕事の速さには驚かされます。

1912年5月から旅客列車の電機運転が開始されました。 横川-軽井沢間所要時間は70分から43分に短縮され、牽引可能両数も1両増えました。 しかし見切り発車だった様で、電動機破損やメタル焼損のトラブルが続き、12両中4両しか稼働できない日もあったそうです。

電化後も蒸機時代と同じく横川方に1両、中間補機1両で運転され、機関車統括制御用ケーブルを使ってました。 機関車に挟まったのが前回紹介したピニオン車ピブ1です。

手間が掛かり故障が多かったケーブル統括制御は1916年10月に廃止され、横川方2両(+ピブ1)と中間1両の3両で230トン牽引する様になりました。 さて電機本格稼働で余剰になった蒸機25両の行く末です。


歯車外して奥羽本線板谷峠越え補機運用された2両は実績を残せず、予備機として横川に残された蒸機も1921年に使用停止され、その後戦時中にスクラップされてしまいました。

1918年3月7日に碓氷峠越え最大の鉄道事故が発生しました。 熊ノ平から軽井沢へ向かってた貨物列車が逆行を始め、機関車装備の4種類の制動装置、ピブ1の制動で停止させる事ができず、熊ノ平安全側線を突き破りトンネル側壁に激突して転覆大破しました。 この事故では乗務員3名と熊ノ平転轍手1名の4名が死亡、旅客列車だったら大惨事でした。

1919年~1923年にかけて大宮工場で国産化した14両が増備され、1925年にED42国産化に繋がる2両を輸入し電機28両体制になりました。 横川方本務機2両、中間補機2両の4両で280トン牽引が可能になりました。 なお1929年の称号改正で形式名が変更されてます。


同じく1929年に自重16トンと重いピニオン車ピブ1運用が終了し、横川方3重連、軽井沢方補機1両の4両で330トン牽引ができる様になりましたが、1931年清水トンネル開通で上越線全通に加え大不況も重なり、碓氷峠越え貨物列車は31本から19本に減りました。

ブラックマンデーに端を発した世界的不景気の中、アプト式の雄と言うべきED42が1930年に登場してます、ED40/ED41の技術習得目的輸入の5年後なのでコレも早いと言えます。


鉄道院は1920年に鉄道省に昇格してましたが、1935年頃から次第に戦時体制に組み込まれました。 ED42は戦後1947年まで17年の長きに渡り28両生産され、順次EC40/ED40/ED41を置き替えました。

ED424に置き換えられた碓氷峠初代電機EC40は、しなの鉄道(旧信越本線)軽井沢駅に静態保存されてます。 先日のNHK『呑み鉄本線日本旅』で紹介されてました。[続く]


ではまた。

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