Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録⑤&眼病近況

季節は6月、寒さ和らぐどころか夏が近いと言うのに年初の計『延伸線建設』が全く進んでません。 それどころか『がおう☆』さん検収試験で指摘された安全性保証回路非動作問題も、他項目改修完了してるのに手付かずで返送する事ができないままになってます。

【筆者左目断層写真】
愚痴こぼしても仕方ないのですが、加齢黄斑変性で細かな作業できないのです。 画像ボケでなく歪み、視力中心部網膜が変形してるので、見ようとすればするほど見えない、特に遠近感が狂い、基板ランドと右手半田コテ先と左手半田位置合わせができず困ってます。


湖南仕様電源改修も破損リスクが高く、壊したら直せないと思うと着手できません、今月通算12/13回目の進行を抑える注射手術受診するので、少し改善する注射後に着手予定です。 この注射3割負担で4.5万円、高いと思ってた健康保険の恩恵を受けてます。 

【1964年9月時刻表復刻版】
興味本位で入手した時刻表ですが読み込むと昔のアレコレが蘇り、雑感シリーズのネタになりました。 でも曖昧な記憶でいい加減な事も書けず考証に結構手間が掛かります。 タイプミス発見が遅れ記事作成も大変です、本シリーズは今回から東北編です。


3.東北編
3-1.廃止路線と新設路線
北海道は結果的に路線廃止の歴史を追う形になりましたが、東北地方の路線網骨格は当時のまま残ってます。 不採算盲腸路線廃止、新幹線置き替えに加え新線建設もあります。

【1964年9月東北地方国鉄路線図】
現在と比較し地形図がデフォルメされてる以外大きな違いありません。


◆廃止路線
現在は優良企業のJR東ですが分割民営化時は最大の累積債務を背負わされ、不採算路線の大量廃止をしてもおかしくない状態でしたが・・・。

廃止は6路線、白棚線除き短距離盲腸路線ばかり、総延長110kmに過ぎず以降建設路線の方が長いくらいです。 日中線は運転列車1本だけのローカル線として有名でした。

【大畑駅のキハ85】・・・ウィキペディアより
廃止路線が少ないのは東北地方がJR東管轄下だったからと考えてます。 債務ゼロスタートでも将来赤字がほぼ確定的な北海道/四国/九州に対し、東/西/東海3社は、それまで労使紛争に浪費してたエネルギーを採算改善に振り向ければ浮き上がれる希望があったからです。

【筆者蔵書より】
それはJR東発足時の副社長で経営が解る技術者として尊敬する山之内秀一郎氏のこの本を読んで感じた事です。


◆田沢湖線と北上線
それではこの時刻表以降に建設された新設路線を見ていきます。

【1964年9月】
現在秋田新幹線が走る田沢湖線は未完成で、盛岡から橋場線が雫石まで、沿線の旅行者訪問先は小岩井農場くらいでした。 年表によると1964年9月10日に路線図未記入の雫石-赤渕間6.0kmが開業してます。 大曲から生保内線、終点生保内は田沢湖観光拠点でしたが、田沢湖も現在小京都として人気の角館も観光資源価値が高いとは言えない状況でした。

【2020年2月】
田沢湖線は1966年赤渕-田沢湖(同年生保内から改称)間18.1km営業開始で全通しました。 このエリアの東北-奥羽両本線接続は仙台-秋田最短ルート北上線と花輪線があり、青森電化や事故不通の際にはこの2線の迂回運転が実施されました。 田沢湖線唯一の強味は盛岡-秋田最短ルートだけだったのですが、それが後年新幹線ルートの決め手になりました。

【1964年9月横黒線時刻表】
北上線は当時横黒線でした、北上駅が1954年まで黒沢尻駅だったからです、北上線への路線名変更は1966年です。 仙台-秋田を結ぶ急行『あけぼの』が運転されてます、後に特急『あおば』に格上げされました。

【2020年2月北上線時刻表】
北上線は田沢湖線開通、秋田新幹線開業で存在価値が低下し、現在優等列車がありません。 北海道なら廃止か第三セクター化だったと思います。


◆阿仁合線
奥羽本線鷹ノ巣から南に延びる盲腸路線がありました、阿仁合線です。

【1964年9月】
コレと言った見所もなく乗り鉄でも撮り鉄でもなかったので、半日潰して往復する意味を見出せず乗車経験はありません。

【1964年9月阿仁合線時刻表】
典型的ローカル線ダイヤ、北海道なら広尾線や士幌線に匹敵します。 JR化後は岩泉線と共に廃止対象筆頭だと思ってました。

【2020年2月】
それが角館まで第三セクター秋田内陸縦貫鉄道として延伸開業してます。

歴史を調べると1971年に角館線が開業し残り区間建設工事も進んでました、東北地方は1970年代に入っても鉄道建設の時代だったのです。 しかし国鉄再建法成立で工事は凍結され、国鉄が投げ出すなら自分達でと秋田内陸縦貫鉄道を設立し全線開業してます。

【2020年2月秋田内陸縦貫鉄道時刻表】
運転本数が増え優等列車まで運転されてます、1964年9月から路線は48.2km伸びてます。


◆三陸鉄道
東日本大震災で甚大な被害を受けた観光路線三陸鉄道も当時は存在しませんでした。

【1964年9月】
東北本線尻内から久慈まで盲腸ローカル八戸線が通ってました。 廃止された茂市-岩泉間の岩泉線が路線図に載ってます。

【2020年2月】
久慈-宮古間と釜石-盛間に新線建設し、国鉄山田線宮古-釜石間の譲渡を受け三陸鉄道が完成しました、新線建設は107.6kmに及び、ここまで見てきた3線で廃止路線を越えてます。 東北地方の鉄道路線は伸びてます。 それにしても尻内⇒八戸の駅名改称は酷い物です、2駅離れた市中心部の八戸線八戸駅は『本八戸』への変更を余儀なくされました。


◆気仙沼線
今回調査で意外な場所でも新線建設があったと解りました。

【1964年9月】
当時の路線図では一関から大船渡線が気仙沼-大船渡-盛まで運転され、気仙沼線は気仙沼で大船渡線から分岐し本吉までの盲腸路線でした。

【1964年9月気仙沼線時刻表】
日7往復運転の盲腸路線、真っ先に廃止対象になりそうです。

【2020年2月】
しかし本吉と石巻線前谷地間に新線51.5kmが建設され、盲腸状態を脱してます。

歴史を調べると1977年に全線開業し、日に1便の仙台直通列車は多くの乗客で賑わったそうです。 しかし東日本大震災で気仙沼線海岸沿い部は被害と言うより消失し、バス代行輸送が続いてましたが2019年正式に柳津-気仙沼間の廃止が決定されました。


ではまた。

国鉄黄金時代回想録④

雑感なので何でもあり、アチコチ飛び火します。 今回は青函連絡船と東京-江差間時間距離がどう変遷したかシミュレーションしたら面白い結果になりましたのでその紹介です。

【1964年9月時刻表復刻版】


2-11.青函連絡船
当時『北海道へ行く』の言い方より『北海道へ渡る』の方が一般的でした、北海道は青函連絡船で津軽海峡を渡るルートが普通だったからです。

【青函連絡船羊蹄丸】・・・ウィキペディアより
渡道経験十数回と書きましたが、青函連絡船利用は6回乗船経験12回で、最初が1968年最後が1978年です。 残りは新潟から日本海フェリー2回、観光6回含め航空便が10回程度です、写真羊蹄丸の他に摩周丸、十和田丸、八甲田丸の4隻が就航してました。

所要時間4時間30-40分、日に5便の運航です、帰省混雑時や弘前/函館花祭りのGWには臨時便追加でした。 最後の1978年除けば青函連絡船は混雑しており、カーペット2等自由席の良い場所取りに到着列車からダッシュ、下船時は乗車時間が長い乗り継ぎ列車ホームへ猛ダッシュ、大きな荷物抱えた年配客も加わり『桟橋マラソン』と呼ばれる光景でした。

【青函連絡船航路】・・・ウィキペディアより
100km余、約4時間半の航路は陸奥湾内が半分近くで揺れた記憶はほとんどありません。 青函連絡船は本州-北海道間の大動脈でしたが、同時にスピードアップと輸送量のボトルネックになってました。 札幌・東京に早朝・昼(半日使える)・夜到着する様に、乗り換え時間20-30分で連絡船と接続列車ダイヤが組まれてました。

調べると貨物輸送ピーク1971年、これは道路網や自動車交通の発達と民間会社フェリー就航で良く解ります。 でも乗客ピーク1973年には少々驚きました、『ディスカバージャパン』旅行ブームの時代だからです、増加旅行客は自家用車・バイク・航空便に流れた様です。 当時、交通手段多様化と労使紛争にうんざりの『国鉄離れ』という言葉がありました。

【函館港保存の摩周丸】・・・ウィキペディアより
前回紹介した2016年道南旅行の際に函館港の連絡船ミュージアム摩周丸を訪問しました。 船内ラウンジや客室の懐かしい風景に加え、始めての操舵室や車両甲板も見る事ができ、船体横の赤いJNRロゴマークを見て旧友に出逢った様な気持ちになりました。


2-12.江差はどれだけ近くなったか?
この項では1961年から現在まで60年の東京と江差の時間距離変遷をシミュレーションします。 仕事で出張が必要になるのは今も昔も変わりません、将来は?、リモート会議でなくなるかもしれませんね、それはさておき、江差に業務出張するX氏に登場願いました。 

状況設定は以上の通り、サン・ロク・トウダイヤ大改正直後です、仕事の電話連絡が一般化した時代で、仕事を円滑にする飲ミニュケーションも今後は解りませんがある前提です。 業務出張の移動手段は国鉄しかありませんでした、航空便は高価なだけでなく、空港アクセスが悪く便数が少なく欠航も多い、仕事に使える安定した交通機関ではなかったのです。

会議前々日残業後夜行で出張へ、高度成長時代サラリーマンには当り前でした。 『北斗』は寝台急行、ケチな会社なら『十和田』座席車ですね、往復で‘+1時間40分です。 出張は3泊4日、江差は移動だけで1日近く掛かる、現代のヨーロッパ並みに遠い場所でした。


◆10年後1971年:時間短縮するも日程は3泊4日
10年の間に東北本線全線電化、ヨン・サン・トウダイヤ大改正がありました。 また1967年には常磐線全線電化が完了してます。

【583系寝台特急】・・・ウィキペディアより
寝台急行『北斗』は寝台特急『ゆうづる』に生まれ変わりました。 上野-青森間が2時間短縮され東京-江差は20時間と少し近くなりましたが、出張が3泊4日なのは変わりません。 1982年東北新幹線開業、1985年東京乗り入れもこの時間帯江差往復にはメリットを出せず、青函トンネル開通1988年まで鉄道利用江差業務出張には3泊4日が必要でした。


◆大発展した航空輸送と企業の優先順位変化
航空輸送は1970年代に大発展しました、国鉄『ディスカバージャパン』が後押しした側面もあります。 東京-北海道間の旅行客輸送人数は1977年に航空便が鉄道を上回りました。

筆者はオイルショック・狂乱物価後大不況下の1975年に就職しましたが、そこからバブルに向かい経済は急速成長期に入りました。 企業間競争激化と人件費高騰、何事にもスピードを求められるせわしない世の中になり、航空便利便性向上と運賃格差圧縮が加わり、1980年頃には遠隔地業務出張の航空便利用が一般化し始めてました。


◆20年後1981年:航空便利用で出張日程は1泊2日
X氏も1980年から北海道業務出張に航空便利用可能になりました。 これにより東京出発日夕方の江差到着が可能になり、時間距離は一気に短縮、1泊2日が可能になりました。

出張時間は半減、東京-江差移動時間は20時間から6時間前後に大幅短縮されました。 寝てる間の移動は効率が良いは古い考え方とされ、スピード重視で出張疲労を軽減し、延びたオフィス在席時間に働いて貰った方が良いと会社側の考え方が変わってきたからです。 


◆40年後2001年:時間ロスの多いJR利用廃止
1981年シミュレーションは前年に国鉄再建法成立がありましたが、準急急行格上げと列車呼称変更だけで1961年同等ダイヤの前提です。 羽田-函館便は2時間毎と千歳便ほど多くなく列車ダイヤ連携もありません。 特に青函トンネル開通後は木古内で海峡線⇒江差線乗換えが必要になり、江差線優等列車も廃止され、北海道内移動が返って面倒になりました。


レンタカーは1970年代からありましたが業者数が少なく、基本料金+超過キロ料金で非常に割高でした。 JR化後頃から参入業者が増えて料金も安くなり、駅レンタカーや空港ビル前にレンタカー事務所が建ち並ぶ様になりました。 合理化で不便になるJRに対しレンタカー優位性が高まり、X氏業務出張も1990年前後から道内レンタカー利用になりました。

【NAVITIME経路探索より】
現在の道路条件で経路探索すると、函館空港-江差間所要時間は1時間33分です。 北海道は渋滞等の余裕見る必要がなく、流れに乗って走ればこの時間で到着できます。

レンタカー利用で東京出発を1便遅らす事が可能になり出張時間は2時間短縮されました。 東京-江差移動時間は5時間弱になり、1961年の1/4以下になりました。 レンタカー利用が1991年とすると、30年で22時間⇒4時間40-50分に短縮し、後半30年は変化なしです。

最近見掛けなくなった物の一つに遠来の客を駅で出迎える風景があります、残ってるのはホテル・旅館の鉄道利用客くらいでしょうか。 背景には携帯電話の急速な普及がありました、『待たず待たさず』です。 筆者は1995年に会社支給携帯を持たされました。


◆60年後2021年:新たな選択肢が加わった
東京-江差時間距離短縮の歴史は30年前に完結ですが、現在は北海道新幹線開業で航空便に対抗可能な新たな選択肢、JR利用が増えました。

帰路新幹線が木古内15:01しかなく江差14時発で十分間に合い効率悪いですが、それでも30時間半、筆者ならJR利用を選びます。 羽田移動と保安検査、ターミナル内移動不要、レンタカー運転時間半分ですし、東京で乗れば4時間で木古内は楽だからです。


そしてシミュレーション前提条件破りの反則ですが、前夜会食を打合せ後ビジネスランチにしてくれると大変助かると逆提案するでしょう、OKなら出発を3時間遅らせられるからです。 この手は航空便利用でも使え、出発2便帰り1便変更で2時間短縮可能です。 いずれにしろ出張時間の航空便優位は変わりませんが、差は2時間程度で選択肢が増えました。


◆60年間の東京-江差日間距離の変遷
以上シミュレーション結果を表にまとめると次のようになります。

鉄道による時間距離短縮は電化や新幹線延伸による小改善と、青函トンネル開通の大きな改善がありましたが、時すでに遅し航空便に客を奪われてました。 そして北海道新幹線開業で遅れ馳せながら競合可能になりました。 ただしこれは目的地が江差だから言える事で、札幌市内や釧路だったら新幹線が延伸しても鉄道の出番は永遠に来ないと思います。


ではまた。

国鉄黄金時代回想録③

シリーズ3回目でようやく道南に辿り着くスローペースです。

【1964年9月時刻表復刻版】


2-8.道南:最後まで残った江差線
道南は平野が少なく元々路線密度が低い地域でしたが、幹線を除き全て廃止されてます。

胆振線と岩内線は鉱山や海産物輸送の軽便鉄道が前身です。 1980年の国鉄再建法に基づき、瀬棚線/松前線と共に80年代に廃止されました。 函館本線倶知安と室蘭本線伊達紋別を結び、路線中心駅京極と脇方の支線を持つ胆振線の時刻表を覗いてみます。

【1964年9月胆振線時刻表】 
運転本数は釧網本線より多く全列車DCで貨客分離です。 札幌発札幌行循環準急『いぶり』が運転されてました、函館本線倶知安-札幌間は準急『ニセコ』に併結運転です。


道南で唯一事情が違ったのが江差線、青函トンネル開通で木古内-函館間が海峡線として利用され、北海道新幹線開業前の2014年に木古内-江差間廃止、木古内-函館間は『道南いさりび鉄道』になりました。 しかしこの鉄道は赤字続き、いつまで生き残れるやらです。

【1964年9月江差線時刻表】
時刻表によると旅客列車大部分がDCで貨客分離が進んでた様です、準急は江差へ日に3本、内1本が分割して松前へ運転されており、盲腸路線にしては利用客が多かった様です。

【江差駅舎2016年5月撮影】
5年前に道南の旅をしてます、廃止2年後の江差駅はこんな様子でした。

江差町入口の鉄橋は橋梁だけでなくレールまで残ってました。

一方松前線は1988年廃止で28年後だったので橋脚だけでした。


2-9.北海道の夜行列車
夜行列車激減も旅の情緒喪失の一因で、現在の北海道には夜行列車が運転されてません。 当時の北海道には札幌を拠点に各方面を結ぶ多くの夜行列車がありました。 筆者初渡道は1968年2月でこのダイヤ、ほっつき歩いたのはヨン・サン・トウ大改正後ですが、準急の急行格上げと特急増発があった程度で、夜行列車に大きな変化はなかったと思います。

時刻表から拾うと4方面6本もありました、一番下の各駅停車は釧路から札幌12時間強、函館まで20時間半です、急行料金¥300節約で通しで乗った乗客も少なくなかったと思います。

札幌駅下り夜行列車発車時間帯の時刻表です。 準急『利尻』と『石北』そして釧路行普通列車にも一等車と寝台車が連結されてます。 しかし滝川から根室本線内釧路まで所要時間は急行で7時間半、各駅停車で9時間、石勝線が北海道を狭くした効果に驚かされます。

準急券は¥100、急行券は500kmを境に¥200/¥300、特急は距離により高くなる現在と同じ方式で最低が¥600でした。 貨幣価値換算すると特急券は相当に高価でした。

巻末編成表は急行以上で準急は掲載されてません。 急行『まりも』は札幌22分停車の間に座席指定車3両を寝台車4両に入れ替え昼行/夜行の性格が変わる編成です。 『すずらん』『アカシア』は函館-札幌間昼行DC急行で、所要時間は特急+35分の5時間強でした。


2-10.昭和40年代のカニ族
筆者を含めた団塊の世代はこれから後期高齢者になり、年金・保険財政の大きな負担になろうとしてます。 この時刻表の時代には死語となった『戦争を知らない子供達』と呼ばれてました。 またこの時代はやはり死語となったカニ族が全国各地を旅した時代でした。

ウィキペディアによるとカニ族出現は1960年代後半、1965年に団塊の世代は高校生でしたから、カニ族の多くはこの世代だったと言えます。 世の中が豊かになり1970年大阪万博後に国鉄が開始した『ディスカバージャパン』が個人旅行ブームを巻き起こしました。


筆者もカニ族の同類でしたがヨコ歩きしませんでした。 尾根歩きだけなら安いキスリングが経済的ですが、鎖場のある岩稜や沢登りに使えず、奮発して山の専門店『さかい屋』製大型アタックザックを使ってたからです。 長期山行は背負子上部にこのザック固定し下に一斗缶、夜行日帰り山行や旅行にはザックだけ使い、携行品も山装備の流用でした。

【ホワイトガソリンコンロ『ホエーブス』】

アタックザック探しましたが30年使ってないので所在不明でお見せできません。 着替え、洗面道具、簡易シュラフ、YHシーツ、雨具、防寒着、水筒、時刻表、ガイドブック、携行薬の他に山屋ならではの装備を携行しました。 一つは山用コンロ『ホエーブス』です。

【コッヘル】
もう一つは山用炊事道具コッヘル、大中小鍋とやかんのセットから右の小鍋とやかんだけ携行しました。 どこでもお茶やコーヒーが飲め即席麺で食費節約もできました。 暖房にも使えましたし、湯を沸かせる事で他のカニ族と交流のキッカケにもなってくれました。

【1964年9月巻末周遊券案内より】
多くのカニ族が北の大地を目指しました。 学割均一周遊券は急行自由席が使え域内乗降自由、東北は12日間で¥2,630、北海道は割高で九州の20日間¥4,550より有効期間は短い18日間で¥5,000でした。 でも1週間のバイト代で北海道フリー切符が入手できたのです。 


夜行列車ホテルとステーション・ビバーク、風呂と洗濯で3-4日毎YHの貧乏旅が可能でした。 都会の札幌周辺はステーション・ビバークできず、市電円山公園電停前にあったYHを良く使いました、1970年項で1泊2食¥600でした。 筆者の北海道長期貧乏旅は1970年でした、学割均一周遊券は6年間で値上がりしており、¥7,000前後だったと記憶してます。

【貧乏旅1年前の機関車配置表より】
日本最東端と最北端に行ってみたいが旅の主目的で、乗り鉄でも撮り鉄(やりたくてもできない)でもなかったので、盲腸路線はほとんど乗ってません。 蒸機が多く残っており、特に道北は9600が多い印象が残っており調べてみました。 旭川と非掲載釧路にDD51が大量配備され、メインルートから無煙化進展中、しかし道北は9600とD51の天下でした。


2-11.北海道から消えた鉄路
最後に北海道で廃止された国鉄路線をまとめてみました。

32路線、あまりの多さに呆然です、総延長1,917kmは最北端稚内から東京を超え名古屋に届く距離です。 この表にはいさりび鉄道の様に経営分離現存路線は含んでません。

【ふるさと銀河線 快速『銀河』】・・・ウィキペディアより
池北線は第三セクター『北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線』として存続が模索されましたが2006年廃止され上表に加えました。 JR北海道経営難もありますが『我田引鉄』の政治や、開拓・開発期待の先行投資国策建設路線が多かった事が招いた結果だと思います。


ではまた。