Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録④

雑感なので何でもあり、アチコチ飛び火します。 今回は青函連絡船と東京-江差間時間距離がどう変遷したかシミュレーションしたら面白い結果になりましたのでその紹介です。

【1964年9月時刻表復刻版】


2-11.青函連絡船
当時『北海道へ行く』の言い方より『北海道へ渡る』の方が一般的でした、北海道は青函連絡船で津軽海峡を渡るルートが普通だったからです。

【青函連絡船羊蹄丸】・・・ウィキペディアより
渡道経験十数回と書きましたが、青函連絡船利用は6回乗船経験12回で、最初が1968年最後が1978年です。 残りは新潟から日本海フェリー2回、観光6回含め航空便が10回程度です、写真羊蹄丸の他に摩周丸、十和田丸、八甲田丸の4隻が就航してました。

所要時間4時間30-40分、日に5便の運航です、帰省混雑時や弘前/函館花祭りのGWには臨時便追加でした。 最後の1978年除けば青函連絡船は混雑しており、カーペット2等自由席の良い場所取りに到着列車からダッシュ、下船時は乗車時間が長い乗り継ぎ列車ホームへ猛ダッシュ、大きな荷物抱えた年配客も加わり『桟橋マラソン』と呼ばれる光景でした。

【青函連絡船航路】・・・ウィキペディアより
100km余、約4時間半の航路は陸奥湾内が半分近くで揺れた記憶はほとんどありません。 青函連絡船は本州-北海道間の大動脈でしたが、同時にスピードアップと輸送量のボトルネックになってました。 札幌・東京に早朝・昼(半日使える)・夜到着する様に、乗り換え時間20-30分で連絡船と接続列車ダイヤが組まれてました。

調べると貨物輸送ピーク1971年、これは道路網や自動車交通の発達と民間会社フェリー就航で良く解ります。 でも乗客ピーク1973年には少々驚きました、『ディスカバージャパン』旅行ブームの時代だからです、増加旅行客は自家用車・バイク・航空便に流れた様です。 当時、交通手段多様化と労使紛争にうんざりの『国鉄離れ』という言葉がありました。

【函館港保存の摩周丸】・・・ウィキペディアより
前回紹介した2016年道南旅行の際に函館港の連絡船ミュージアム摩周丸を訪問しました。 船内ラウンジや客室の懐かしい風景に加え、始めての操舵室や車両甲板も見る事ができ、船体横の赤いJNRロゴマークを見て旧友に出逢った様な気持ちになりました。


2-12.江差はどれだけ近くなったか?
この項では1961年から現在まで60年の東京と江差の時間距離変遷をシミュレーションします。 仕事で出張が必要になるのは今も昔も変わりません、将来は?、リモート会議でなくなるかもしれませんね、それはさておき、江差に業務出張するX氏に登場願いました。 

状況設定は以上の通り、サン・ロク・トウダイヤ大改正直後です、仕事の電話連絡が一般化した時代で、仕事を円滑にする飲ミニュケーションも今後は解りませんがある前提です。 業務出張の移動手段は国鉄しかありませんでした、航空便は高価なだけでなく、空港アクセスが悪く便数が少なく欠航も多い、仕事に使える安定した交通機関ではなかったのです。

会議前々日残業後夜行で出張へ、高度成長時代サラリーマンには当り前でした。 『北斗』は寝台急行、ケチな会社なら『十和田』座席車ですね、往復で‘+1時間40分です。 出張は3泊4日、江差は移動だけで1日近く掛かる、現代のヨーロッパ並みに遠い場所でした。


◆10年後1971年:時間短縮するも日程は3泊4日
10年の間に東北本線全線電化、ヨン・サン・トウダイヤ大改正がありました。 また1967年には常磐線全線電化が完了してます。

【583系寝台特急】・・・ウィキペディアより
寝台急行『北斗』は寝台特急『ゆうづる』に生まれ変わりました。 上野-青森間が2時間短縮され東京-江差は20時間と少し近くなりましたが、出張が3泊4日なのは変わりません。 1982年東北新幹線開業、1985年東京乗り入れもこの時間帯江差往復にはメリットを出せず、青函トンネル開通1988年まで鉄道利用江差業務出張には3泊4日が必要でした。


◆大発展した航空輸送と企業の優先順位変化
航空輸送は1970年代に大発展しました、国鉄『ディスカバージャパン』が後押しした側面もあります。 東京-北海道間の旅行客輸送人数は1977年に航空便が鉄道を上回りました。

筆者はオイルショック・狂乱物価後大不況下の1975年に就職しましたが、そこからバブルに向かい経済は急速成長期に入りました。 企業間競争激化と人件費高騰、何事にもスピードを求められるせわしない世の中になり、航空便利便性向上と運賃格差圧縮が加わり、1980年頃には遠隔地業務出張の航空便利用が一般化し始めてました。


◆20年後1981年:航空便利用で出張日程は1泊2日
X氏も1980年から北海道業務出張に航空便利用可能になりました。 これにより東京出発日夕方の江差到着が可能になり、時間距離は一気に短縮、1泊2日が可能になりました。

出張時間は半減、東京-江差移動時間は20時間から6時間前後に大幅短縮されました。 寝てる間の移動は効率が良いは古い考え方とされ、スピード重視で出張疲労を軽減し、延びたオフィス在席時間に働いて貰った方が良いと会社側の考え方が変わってきたからです。 


◆40年後2001年:時間ロスの多いJR利用廃止
1981年シミュレーションは前年に国鉄再建法成立がありましたが、準急急行格上げと列車呼称変更だけで1961年同等ダイヤの前提です。 羽田-函館便は2時間毎と千歳便ほど多くなく列車ダイヤ連携もありません。 特に青函トンネル開通後は木古内で海峡線⇒江差線乗換えが必要になり、江差線優等列車も廃止され、北海道内移動が返って面倒になりました。


レンタカーは1970年代からありましたが業者数が少なく、基本料金+超過キロ料金で非常に割高でした。 JR化後頃から参入業者が増えて料金も安くなり、駅レンタカーや空港ビル前にレンタカー事務所が建ち並ぶ様になりました。 合理化で不便になるJRに対しレンタカー優位性が高まり、X氏業務出張も1990年前後から道内レンタカー利用になりました。

【NAVITIME経路探索より】
現在の道路条件で経路探索すると、函館空港-江差間所要時間は1時間33分です。 北海道は渋滞等の余裕見る必要がなく、流れに乗って走ればこの時間で到着できます。

レンタカー利用で東京出発を1便遅らす事が可能になり出張時間は2時間短縮されました。 東京-江差移動時間は5時間弱になり、1961年の1/4以下になりました。 レンタカー利用が1991年とすると、30年で22時間⇒4時間40-50分に短縮し、後半30年は変化なしです。

最近見掛けなくなった物の一つに遠来の客を駅で出迎える風景があります、残ってるのはホテル・旅館の鉄道利用客くらいでしょうか。 背景には携帯電話の急速な普及がありました、『待たず待たさず』です。 筆者は1995年に会社支給携帯を持たされました。


◆60年後2021年:新たな選択肢が加わった
東京-江差時間距離短縮の歴史は30年前に完結ですが、現在は北海道新幹線開業で航空便に対抗可能な新たな選択肢、JR利用が増えました。

帰路新幹線が木古内15:01しかなく江差14時発で十分間に合い効率悪いですが、それでも30時間半、筆者ならJR利用を選びます。 羽田移動と保安検査、ターミナル内移動不要、レンタカー運転時間半分ですし、東京で乗れば4時間で木古内は楽だからです。


そしてシミュレーション前提条件破りの反則ですが、前夜会食を打合せ後ビジネスランチにしてくれると大変助かると逆提案するでしょう、OKなら出発を3時間遅らせられるからです。 この手は航空便利用でも使え、出発2便帰り1便変更で2時間短縮可能です。 いずれにしろ出張時間の航空便優位は変わりませんが、差は2時間程度で選択肢が増えました。


◆60年間の東京-江差日間距離の変遷
以上シミュレーション結果を表にまとめると次のようになります。

鉄道による時間距離短縮は電化や新幹線延伸による小改善と、青函トンネル開通の大きな改善がありましたが、時すでに遅し航空便に客を奪われてました。 そして北海道新幹線開業で遅れ馳せながら競合可能になりました。 ただしこれは目的地が江差だから言える事で、札幌市内や釧路だったら新幹線が延伸しても鉄道の出番は永遠に来ないと思います。


ではまた。

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