Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

木曽森林鉄道の話

鉄道P誌1964年1月号落穂拾い最終回は木曽森林鉄道です。

【鉄道P誌1964年1月号表紙】


4.木曽森林鉄道
中学校社会科教科書の『日本の林業』の項には、秋田杉と並んで木曽桧が書かれてました。 木曽川V字谷で農業で生計を立てるのが困難な木曽では、古くから林業や牧畜(木曽駒 )が盛んでした。 戦国末期の乱伐で荒れた山は、江戸期尾張藩に手厚く保護され恢復、伐採された桧は馬橇で里に降ろされ、筏に組んで木曽川を流送されました。

1912年(大正元年)中央西線開通後に木材搬出を目的とした森林鉄道が次々に建設され、最盛期には線路延長が400kmに達しました。 その中で最後まで残った小川森林鉄道と王滝森林鉄道が木曽森林鉄道として知られており、記事は最長の王滝森林鉄道試乗記です。

木曽森林鉄道運営母体は営林署、つまり農林省林野庁の政府機関で、ある意味国鉄です。 しかし、旅客輸送が主目的ではないので、国営企業構内鉄道の性格を持ってました。 辺鄙な場所の路線なので、沿線住民や生活物資、行商人や観光客も輸送してましたが、あくまで営林署職員輸送のついでであり。乗車するには営林署の許可証が必要でした。


比較的簡単に取れた様で著者も事前申請して許可を得てます。 ただし許可証には万一事故に遭っても損害賠償責任を負わないの一文があり、建前としては自己責任で便乗させてもらうスタイルを取ってました。

こちらが運転時刻表、著者は新宿から準急『穂高』2等寝台で松本、中央西線始発で上松に入り『みどり』号に乗車してます。 終点本谷まで48.2kmを所要3時間10分ですから表定速度約15km/h、軌間762mm森林鉄道としてはこんなものだったのでしょう。

ナローなので客車は小振りな木造です。 万一脱線転覆したらグチャグチャに壊れ命の保証はできないでしょう。 実際に事故の記録はなく、当時の皇太子(現上皇様)が視察で乗車された記録が残ってます。 1両だけのカーテン・ソファー付き貴賓車が使われました。

開業時は米国ボールドウィン製蒸気機関車でしたが、この時代には無煙化されており、酒井製DLが主力になってました。 上松駅には巨大な貯木場があり、その片側が森林鉄道、反対側が中央西線線路で積み替えが行われてました。 仮に木曽森林鉄道が1067mm軌間で、上松で積み替え不要だったら、もう10年は命を長らえたと思います。

通票閉塞のタブレット授受で運転席から身を乗り出してる運転士の姿でDLのサイズ感が解ると思います。 当時の年間便乗者は20万人に達し、地方私鉄顔負けでした。

上松を発車した『みどり』号は崩越で『みやま』号と列車交換します。

運材列車ダイヤが記載されてないので解りませんが、途中駅で列車交換があったのは確実で、この写真からすると長い伐採原木ではなく、貨車輸送用に加工してある様です。

この写真で見ると長さが良く解り、トラ45000/55000クラスに積める長さで、伐採現場に加工場があり、短くして運搬してました。

多分『みどり』号が運材列車と列車交換した途中駅なのでしょう。 赤と緑の旗を持った駅長は小母さんです。 営林署職員には見えず、業務委託してたと思われます。 沿線の中ほど田島が王滝村中心街です。

田島-滝越間には王滝村所有のカラフルな半鋼製客車を使った通学列車『やまばと』号が運転されており、田島の小中学校へ通学する60名の児童・生徒を運んでました。

上松駅構内ではこんな可愛らしい入換用小型DLが活躍してました。

多雪地域ではありませんが、10-20cmの積雪があるので小型ラッセルも在籍してました。

右上の本線と木材足場上に敷設された伐採現場引込線、いかにも森林鉄道らしい風景です。 すでにトラック輸送に押されてましたが、著者は最後に『森林鉄道は滅びない、何故なら住民の生活にそれほど長い間、そして深く根を下ろしてるからである』と書いてます。

しかしモータリゼーション進展は早く、この訪問3年後には小川森林鉄道が、13年後には全ての路線が廃止され60年の歴史の幕を閉じました。 現在赤沢自然休養林で観光トロッコ列車が運転されてますが、機関車も客車も新製で往時の物は何も残されてません。


ではまた。

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