Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

細倉鉱山と栗原鉄道そして私有貨車

採石場ホッパー製作を進めてますが、進捗が遅く鼻血も出なくなります、今回は倉元採石場に出入りする筆者創作企業中越第一鉱業(CDK)私有貨車について書きます。 と言うのは少々設定が強引だったからです。

【倉元採石場ホッパー看板】
発端はこの看板です。 設備投資が大きく単価が安い砕石事業は中小企業には無理で、複数採掘拠点を持つ企業の小規模な現場の位置付けにしました。 砕石の一般貨物扱い国鉄輸送委託はコストと納期面で無理があり、社紋社名入り私有貨車使用の想定にしました。


◆タイムワープ!
突然ですが1960年代前半に話が飛びます。 数学や歴史の中学学習内容は今でも役立ちますが地理は全く役立ちません。 人口100万人以上政令指定都市6と習いましたが、今や幾つあるのやら見当も付きません。

【北海道の運炭列車】・・・鉄道P誌1965年5月号より
地理では日本の産業についても学び、原油は96%輸入(現在は99%以上?)と習いました。 石炭は基幹産業で北海道・筑豊の大炭田に加え、炭質は落ちるものの首都圏に近い地の利を活かし常磐も操業中でした、閉山後の跡地利用と観光開発目的で常磐ハワイアンセンターが作られました。 石炭輸送には炭鉱会社私有貨車のセキが使われてました。

【筑豊の運炭列車】・・・鉄道P誌1965年5月号より
非鉄金属鉱業も盛んで、記憶に残るだけでも兵庫県生野、岐阜県神岡、宮城県細倉、秋田県尾去沢鉱山が教科書に載ってました。 これらの鉱山で産出される銀・銅・鉛などは為替レート¥360/$の時代に国際競争力があり、日本の重要な輸出産品になってました。


その中から細倉鉱山とその栄枯盛衰に振り回され数奇な運命を辿った栗原鉄道について紹介し、最初に書いた鉱業会社私有貨車に話を拡げます。


★細倉鉱山
細倉鉱山は戦国時代末期に発見され、江戸期明治期を通じ所管は伊達家・明治政府と変わりましたが、請負山師により鉛と副産量の銀を産出してました。 亜鉛を精錬する様になったのは第一次世界大戦の頃からです。

細倉鉱山が大発展を遂げたのは三菱鉱業経営になった昭和初期からで、神岡と並ぶ鉛・亜鉛産出量の鉱山になりました。 高度経済成長の民需もありましたが、鉛は鉄砲玉、亜鉛は薬莢主材料で軍需も多かったのです。 しかし1970年代のニクソンショック・プラザ合意の円高とオイルショック不況で一気に衰退し、他の鉱山と共に閉山へと追い込まれました。


★栗原鉄道
細倉鉱山に大きく係わったのが栗原鉄道で、2018年元旦更新で一度紹介しており重複しすが、今回は私有貨車切り口ですのでご容赦ください。

栗原鉄道は地方振興を目的に大正年間の1921年に軌間762mm、非電化で開業しました。 当てにしてた鉱山貨物輸送が思わしくなく苦しい経営が続きましたが、三菱鉱業経営で状況が一変しました。 1942年には鉱山貨物輸送の為に細倉まで延伸開業してます。


細倉には精錬所があり出荷貨物は鉱石ではなく半製品のインゴットだったと思われます。 細倉-東北本線石越間を車籍栗原鉄道の三菱鉱業私有貨車が輸送し、石越駅で国鉄貨車へ積み替え作業をしてました。

【762mm軌間電機ED181】・・・鉄道P誌1965年9月増刊より
終戦前後の低迷期を経て、朝鮮戦争特需で増産が見込まれた1950年に直流電化し、列車速度2倍、輸送量1.5倍に輸送力を強化しました。 いつの時点からか資料がなく解りませんが、三菱が栗原鉄道へ資本参加し、電化や改軌を主導したのは間違いありません。

【1067mm軌間電機ED203】・・・鉄道P誌1965年9月増刊より
電化5年後1955年に1067mmへ改軌して石越駅での積み替え作業をなくし、目的地まで車籍栗原鉄道の三菱鉱業私有貨車が国鉄線を走ってたと考えられます。 三菱鉱業は細倉の他にも多くの鉱山を経営しており、鉱石・半製品輸送の私有貨車多数を使ってたハズです。


写真編成の鉛・亜鉛輸送私有貨車はどれかの分析です。 三菱鉱業は細倉鉱山開発に必要な電力を賄う為に水力発電所を建設するほどで、細倉は企業城下町でした。 電機次位有蓋車は沿線一般貨物、次のタンク車(多分三菱石油私有貨車)は細倉への油類輸送、その後方の無蓋車数両が鉛・亜鉛輸送の三菱鉱業私有貨車と推定できます、傍証があるからです。


写真転載控えますが、ウィキペディア栗原鉄道でなく細倉鉱山の項に旧若柳駅に保存された無蓋車写真が掲載されてます。 この貨車が鉛・亜鉛輸送に使用された有力な傍証です。

【改軌後の主力電車モハ2400型】・・・鉄道P誌1965年9月増刊より
細倉鉱山の発展は貨物収入だけでなく通勤客等旅客収入増加をもたらし、1960年代に栗原鉄道は最盛期を迎えました。 仙台から細倉への直通列車が運行された記録が残ってます。

その後の栗原電鉄(鉄道)の運命も紹介します。 細倉鉱山が円高とオイルショック不況で国際競争力を失い、希望退職・分社化の経営努力では追い付かず、埋蔵量を残したまま1987年閉山しました。 栗原電鉄の貨客輸送量も激減、閉山時に貨物扱いも停止されました。

【非電化後運行の気動車KD95】・・・過去記事より転載
1993年には三菱が栗原電鉄経営から撤退し、第三セクターくりはら田園鉄道として生まれ変わりました。 1995年老朽化した電化設備の更新財源不足で電化を捨て、架線の下を気動車が走りました。 宮城県の補助金支給期間に再建目途が立たず2007年廃止されました。


◆国鉄線を走った無蓋私有貨車
私有貨車のほとんどは形式『タ』のタンク車、他に冒頭写真『セ』の運炭車や『ホ』の鉱石等運搬ホッパー車で、いずれも積載貨物特定貨車です。 国鉄は汎用貨物用有蓋車や無蓋車の私有貨車を原則認めてませんでしたが、それは国鉄籍に限った話で私鉄籍は別でした。


古い話で明確な証拠はありませんが、車籍栗原電鉄三菱鉱業無蓋私有貨車が国鉄線を走行したのはほぼ確実であり、同種事例は他にも存在します。

【ウィキペディアより】
車籍大井川鉄道の井川ダム電源開発資材運搬に使用した中部電力無蓋私有貨車が生き残ってます。 当然ですがこの貨車は東海道本線を走行し、大井川鉄道に乗り入れてました。

【ウィキペディアより】・・・長物輸送もあった
仮に中越第一鉱業が本拠新潟県の大規模主力採石場へ国鉄駅から『(仮称)中越鉄道』経営をしていれば、車籍中越鉄道の中越第一鉱業私有貨車が国鉄露太本線倉元駅に現れても何の不思議もないのですがこの仮定は無理です、トラ45000形式名は国鉄籍だけだからです。

【設計記事より転載】
社紋社名入り国鉄籍私有貨車使うならホッパー車にすれば考証的に問題ないのは解ってましたが、倉元駅風景に似合うホッパー車もモデルも存在しません。 濡れても問題ない砕石や鉱石の小規模事業所には無蓋車バラ積が一番それらしく見えるからです。

【ウィキペディアより】
確認の為ウィキペディアで調べると、無蓋車私有貨車を認めないのは原則に過ぎず、原則には例外が付き物で東邦亜鉛トキ25000や、日本板硝子トキ80000が存在してました。 ならば中越第一鉱業トラ45000が存在してたとしても何の問題ないと考える事にしました。 とまあ自分自身が気になったので考証しましたが、元より筆者に説明責任はありません。

【過去記事より転載】
そもそもレイアウトは2x4mと大型の当社でさえ高々東京駅2・3個分のスペースです。 その中に山あり谷ありの自然と鉄路や駅や街を共存させる代物ですから、最初から無理で現実離れした条件の中で、何を優先し何を捨てるかは製作者だけが決められる専管事項です。


新幹線と在来線車両が同一線路走っても、現代建築駅に転車台があっても、製作者がヨシとするなら受け入れるのが鑑賞者の暗黙の了解事項です。 筆者が摂津鉄道小川の堤防道路に疑問を書いたのは、荷車なしの草が茂る小径なら違和感感じなかったのにの感想で、批判する気など毛頭なかったと申し添えます。 国鉄型なら軌間自体が現実離れですからね。


ではまた。

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