Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

県道駐車帯の製作 その3

駐車帯と洞門出口石垣塗装までが前回でした、その続きです。

陽光下で艶が目立った塗色は室内光でも少し艶があります。 当社標準技法のフラットアース/ダークグリーン薄め液でウェザリングします。

ウェザリング終了、艶は消え落ち着いた色調になりました。 洞門側石垣に3mmU字材側溝排水口を挿入して接着しました。 水の表現等の手は加えてありません。

石垣設置前に洞門基礎コンクリートを表現する板紙をニュートラルグレイに塗って接着しました。 手前の低地に床マット片を接着し、地形製作の嵩上げベースにしてあります。

洞門出口石垣を接着しました。 紙粘土を盛って地形製作すると、石垣下部は地中に埋もれる形になります。

次は駐車帯ベースに板紙2枚重ねの地表を貼ってフラットアース塗装し、転落防止柵を立てて混合砂を撒いてと、駐車帯を完成に近付けてから固定したい処ですが、そうはできない事情があり、先に駐車帯ベースを接着固定します、風景端末処理が関係するからです。

左手洞門前の基台45度部は、擁壁が長過ぎて洞門が手前に出たので、基台側板に7mm厚床マットを貼ってスペース拡大し、最外面にダークグリーン板紙を貼ってます。 このダークグリーン板紙は、450mm幅北基台前面側板に貼る板紙と合う様に作ってあります。


経験的に基台側板色としてダークグリーンが一番自然風景に馴染みむので、延伸線に全面採用します。 製作中駐車帯は基台端に平行かつ石垣下部がダークグリーン板紙に乗る形で設置します。 するともっと高い石垣が、基台端で断ち切られた風景になるからです。

従って駐車帯ベースの位置決めは0.1mm単位でピタリ合わせなくてはなりません。 駐車帯ベースを接着する県道トンネル&洞門ユニットベースに木工用ボンドを多目に塗り、基台側板に当てた板紙をガイドにして接着しました。 地表面はベース基準で製作します。

洞門と駐車田の間は、高低差が必要でなく床マットがもう1枚入るスペースがあったので、切り出して接着しました。

風景としては左の洞門の続きの河原の上、違うのは降雨時だけドライブイン側溝と洞門排水管の水が流れる流路がある事です。 乾燥時間の長い紙粘土で地表面を作りました。

駐車帯ベースに現物合わせで切り出した0.8t板紙を接着しました。 もう1枚貼り重ねると地表面になります。 当初設計では県道傾斜に合わせ、0.5tプラ板を貼り重ねた上に表面材を貼る計画でしたが、表面材を直接貼り県道接合部は紙粘土スロープに変更しました。

【従来線中学校斜面の境界柵】
従来線で1.5mm/ピッチ、7.5mm標高差斜面境界柵を自作設置した例があり、駐車帯洞門側も斜面境界柵にしなければと考えたのですが、製法忘れたし現視力ではとても無理です。

表面材を切り出し、フラットアース塗装して重ね貼りしました。 紙粘土スロープで隠れる洞門側コーナーを持ち手にして塗装しました。

表面材を直貼りしたので駐車帯柵は足植え込みタイプです。 県道と駐車帯段差に紙粘土を詰めてスロープにし、洞門側は短い鉄路柵を仮置きし間に紙粘土を詰め込みました。 乾燥したら整形しフラットアース塗装、鉄路柵を差し込み接着の楽な工程を選んだ訳です。

駐車帯が浮いた状態で何とも落ち着きが悪く、紙粘土を盛った洞門出口石垣下と駐車帯間の風景製作を進められないので、風景端末処理用のダークグリーン板紙を貼りました。

設計通り駐車帯長手方向石垣下にピタリ収まってます。 仮置き鉄路柵を抜き取って余分な紙粘土を除去し、洞門出口石垣下と駐車帯紙粘土盛り部をフラットアース塗装しました。 頑張ってます、今日はここまで。


ではまた。

60年前の鉄道P誌 1963年8/11月号

さて、今年から鉄道P誌紹介をテーマ毎に切り替えましたので、その裏話や落穂拾い的記事で隙間を埋めて完結させます。

【鉄道P誌1963年8月号表紙】
表紙は電車化された上越線急行『佐渡』です。 信越本線電化特集号で、廃止されるアプト式に関連し興味深い記事が多く掲載されてます。 連載した碓井峠百年物語はこの号掲載記事を基に、追加調査でまとめた物です。 記事化の調査で新しい知見が増えました。

【鉄道P誌1963年8月号裏表紙】
裏表紙は東急系列伊豆急広告、特急工事で開通させた路線です。 この号単独ネタは根北線遊記だけで、54年前に廃止された路線です。 またこの号には私鉄ロマンスカーの系譜前編記事が掲載され、戦後私鉄各社が歩んだ高速化とデラックス化の歴史を紹介しました。

【鉄道P誌1963年11月号表紙】
8月号に前編掲載された私鉄特急ロマンスカーの系譜後編は3ヶ月後の11月号掲載でした。 それにふさわしく表紙は10月登場のバリバリ新車東武1720系と旧ロマンスカー5500系の新旧が並んだ写真が使われてます。 テーマ毎切り替えで8/11号掲載各地のトピックスは紹介済です。 8月号未紹介記事に興味深い内容がありましたので紹介します。

動力近代化計画を含む国鉄5ヶ年計画については2022年7月に拙ブログで紹介しました。
★昭和40年国鉄第3次5ヶ年計画から➊
★昭和40年国鉄第3次5ヶ年計画から➋

【2022.07.26記事より転載】
1963年は第2次5ヶ年計画3年次で、上記公開記事の2年前ですが、電化による動力近代化に的を絞って別の方が現状整理と将来予測をしてます。

国鉄全体の輸送量=客貨車キロは1952年-1962難の10年間に1.5倍増加し、蒸気の動力比率は80%の主役から、1960年に電気に追い付かれて追い越され、1962年には40%強とすでに脇役になってました。 またこの間徐々に増加したディーゼルも10%を越えてます。


1962年-1972年の10年間で輸送量が更に1.5倍近く伸びると予測してます。 この時点の計画で蒸気比率ゼロ、すなわち無煙化は1975年となっており、その時の動力比率は電気75%、ディーゼル25%の計画です。 無煙化はこの計画通りに達成されました。

始めて見た面白いデータがあります。 1962年客貨車キロと動力比率、それを担う動輪周馬力の比較です。 『パワー伝達効率』と言える物で、47.1%パワーを使い41.7%輸送する蒸気より、42.9%のパワーで47.5%輸送する電気の方が計算すると26%高効率です。


これは仮称『パワー伝達効率』だけの話で、同じパワーを生み出す蒸気機関と電気モーターの『エネルギー変換効率』は数倍と大きく違うので、電気の方が圧倒的に省エネなのです。 つまり動力近代化とは電化とディーゼル化で蒸気を駆逐し、大幅な人員削減とエネルギー効率向上でコストダウンを果たす合理化策で、煙害防止は行きがけの駄賃の様な物でした。

1963年常磐線平電化、信越本線長野電化完成時の電化計画進捗状況をまとめた表です。 『工事中』は間もなく完成する東北本線仙台-盛岡間、北陸本線金沢-富山間、中央本線/篠ノ井線松本まで、山陽本線全線で、『未着手』がその次の優先順位と見る事ができます。

電化区間延伸の推移と今後の予測です、1962年度末で3,333,m、1963年の平電化、長野電化、山陽本線全線電化完成で3,750km、600km/年ペースで電化区間延伸の計画です。

当時の電化完成と電化計画路線図です。 全国図では見難いので、地域毎にどの路線を電化する計画だったのか見て行きます。

【北海道の電化及び電化予定線】
1962年の北海道に電化区間はなく、上表点線区間が電化予定線になってました。 この中で実際に電化されたのは、函館本線小樽-旭川間、函館-新函館北斗間と千歳線、後年開業した札沼線一部を含む学園都市線の札幌近郊だけで、他は計画倒れに終わってます。


当時室蘭本線では最大1,500tの長大運炭列車をD51が牽引しており、電化で電機置き換えが計画されましたが、石炭産業自体が斜陽化し沙汰止みになった様です。 室蘭-函館間は、北海道には飛行機の時代になり、電化と期待収益増が見合わなかったのだと思います。

【東日本の電化及び電化予定線】
東日本では物流大動脈東北本線と日本海縦貫線、それを補完しバイパス機能を持つ奥羽本線、常磐線、信越本線長野-直江津間の優先順位が高かった様です。 中央西線、篠ノ井線、磐越西線郡山-喜多方(図は会津若松)間はそれに次ぐ優先順位だったと思います。


このエリアはほぼ計画通りに電化されており、総武本線は成田空港アクセス、内房線、外房線、相模線は首都近郊路線として計画以上に全線電化されてます。 不思議なのは水戸線、計画通り電化されましたが、何故こんな早期に電化予定線だったのか解りません。

【西日本の電化及び電化予定線】
西日本では全線電化計画だった関西本線亀山-加茂間が非電化のまま残りました。 紀勢本線では白浜口までの計画が新宮まで伸びてます。 首都圏で起きた事が関西圏でも起きており、この時点で計画されてなかった福知山線、奈良線、加古川線、和歌山線が全線電化、山陰本線京都-城崎間が部分電化されました、湖西線はまだ計画段階だったと思います。


山陽新幹線延伸に伴い、陰陽連絡のキーマンに伯備線が選ばれ電化されたのは、新幹線を軸とした交通網再整備の動きです。 四国の電化は瀬戸大橋架橋に始まり、高松-伊予市間と多度津-琴平間に留まってます。

【九州の電化及び電化予定線】
九州南北を東西で結ぶ鹿児島本線、日豊本線の電化は至極当然で計画通り電化されました。 佐賀、長崎の県庁所在都市を結ぶ長崎本線と軍港佐世保(後にハウステンボス)へ至る佐世保線も納得性が高く、佐世保線は全線電化されましたが、長崎本線は奇妙な動きでした。


鳥栖側から諫早先まで、長崎側からも電化工事が始まり一部完成した時点で西九州新幹線の地元協議が難航し一時中断した様です。 最終的に上下分離方式で決着し2022年9月に西九州新幹線開業で電化達成、これに合わせ長崎方の電化区間は非電化に戻りました。

【鉄道P誌1963年11月号裏表紙】
11月号裏表紙は阪神電鉄広告でした。 『予定は未定にして決定にあらず』とは良く言った物で、国鉄電化の計画と実績がかなり違ったのは面白い事です。 しかしこだわる様ですが京都-奈良間の奈良線電化計画がなかったのに、水戸線電化計画の背景は謎のままです。


ではまた。

1963年 鉄道の話題 北海道/東北/甲信越編

昨日3月21日の最高気温は+1℃、あと少しで真冬日の寒さでした。 今朝の予想最低気温は-10と真冬並み、暑さ寒さも彼岸まで何て『嘘だろ~』と言いたくなる気候です。


1963年鉄道の話題最終回は北海道・東北・甲信越編です。


◆北海道編
動力近代化の波は北海道にも押し寄せてました。

北海道の蒸機牽引急行列車は2本にまで減っており、その内の1本『大雪』が5月一杯で廃止されてます。 最後の蒸機『大雪』の札幌駅出発式の様子です。 花束を受け取る手前から機関士、車掌、食堂車ウェイトレス(面白いですが食堂車消えるからでしょう)、その奥は札幌駅長でしょうか。 キャブ窓から顔出してるのが機関助士だと思われます。

その翌日、DC急行『はまなす』が『大雪』に名称変更されました。

根室本線は滝川-釧路間が本線で釧路-根室間は花咲線と呼ばれ支線扱いでした。 札幌-根室直通急行『阿寒』が誕生し、その出発式です。 キハ27系5連とあり、1等車含む3両は釧路止まり、根室行は2両です。 エンジン1基DCで狩勝越えできたのでしょうか。

『エルム』は季節限定の全席指定臨時準急列車として函館-札幌間で運転してました。

北海道最古の客車が準鉄道記念物に指定され、その寄贈式のニュースです。 所有者は定山渓鉄道、コロ1の形式名から小型軽量2軸車で、3等級時代の2等車だったと解ります。 若い頃覚えた客車自重のコホナオスマカや、貨車積載量のムラサキがまだ残ってます。


◆東北編
仙台電化が完成し盛岡へ向け工事が進んでた時期で、電化関連の話題が届いてます。 その前に1963年開業路線として三江南線/会津線/日南線/指宿枕崎線/岩日線/能登線の6線を紹介しましたが、もう1線ありました。 

10月15日に阿仁合線阿仁合-比立内間が延伸開業し、鷹ノ巣駅で祝賀列車出発式が行われてます。 国鉄自身の責任と言うより政治の責任ですが、地元選出議員の顔を潰さない為に莫大な国費の無駄遣いだったのは明らかで、命を縮める新線建設になりました。

5駅13kmの延伸開業です。 阿仁合線の救いはその後角館まで全通し、秋田内陸縦貫鉄道として現存し、三江線/岩日線/能登線の様に全廃されて無駄に終わらなかった事です。

仙台で電車基地の建設が進んでました。

153系ベースの交直両用451系が前年登場し、主電動機をパワーアップした453系がこの年に臨時急行『みやぎの』で運用が始まりました。

客車急行だった『あおば』も電車化されてます。

電化されたので電車区増設だけで良さそうですが、仙台客車区も新設されてます。 既存施設が狭かったか、構内電化が難しかったのでしょう。

急行『みちのく』は上野-青森間常磐線経由の昼間急行で、食堂車が併結されてました。 このニュースからすると、仙台-平の非電化区間はそれまで蒸機牽引だった様です。


◆甲信越編
甲信越と一括りに言われるのでその順番に従い山梨からです。

この時点の中央本線は甲府-上諏訪間電化工事が未完成でした。 急行はキハ58系、新宿-甲府間準急『かいじ』に165系が先行投入されてます。

 

除雪車の分解整備の珍しい写真です。 飯山線森宮野原は日本一雪深い駅として知られており、飯山線や信越本線長野以北、更には北陸本線まで出張する冬に向けた準備です。

整備完成写真があって始めて前写真がロータリー式除雪車と解ります。

この年の信越本線電化前はキハ58系2連の乗入れでした。 電化後165系に置き替えられたので、その最小編成単位3両で試運転が行われてます。

営業運転は10月ダイヤ改正からです。 大幹線以外特急が走ってなかった時代に東京から最速新鋭車両急行列車が片田舎の温泉町に直通するのは、さぞ誇らしかったと思います。

鉄道P誌裏表紙は大手私鉄広告が多かったのですが、長野電鉄も頑張ってます。 ここにも自動車化の波が、長野電鉄が上野から志賀高原直通バスを運行してます。 特急バスと銘打ってますが、関越高速道も上信越道もない時代、所要時間は9時間前後でした。

長野から県境越えた新潟でDC準急が増発されてます。 信越本線電化で余剰になったDCと思いきやキハ55+キハ26です。 翌年松本電化で信州の急行はキハ58系から165系に大きく様変わりしました。 信州のキハ58系はその後どこへ流れて行ったのでしょう。

以前ブログに書いて、現在は復元され梅小路に保管されてますよと教えていただいたC51 239が準鉄道記念物に指定されてます。 新潟教習所教材として内蔵見せてた姿から、梅小路に旧お召機として栄転する間にこのステップがあったのだと納得できました。

上越線は信越本線より先に電化され、前年から特急『とき』が運転されてました。 しかし急行『佐渡』は客車編成のままで、ようやく165系に置き換えられました。 『これでも急行か』の悪口があったという事は、1/2等車のみで食堂車もなかったのでしょう。[完]


ではまた。