Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

昔の北海道の旅と句-03

旅の計画書や写真が電子データとしてPC及びバックアップHDに残ってるのは1990年代後半から過去25年分です。 諏訪へ転居してから子供達が成長した40年-25年前の家族旅行は、何処へ行ったの記憶はあっても、何時だったかはサッパリ、断片的な記憶だけです。


ましてや55年-50年前の学生時代となると、●●を旅した記憶はあっても、何年にどんな行程で何処を訪問したのか曖昧模糊としてます。 記憶とは瞬間の静止画像が脈絡なく脳に刻まれる物の様で、地名が結び付かなかったり、複数回訪問の何回目だったのか解りません。 60歳過ぎた頃の幼時記憶も同じでしたから、特に加齢による記憶力低下ではない様です。

【最盛期の北海道国鉄路線網】・・・所有時刻表より
東京で生まれ育った筆者には北海道への憧れがあり、1968年の初渡道から定年間際の業務出張まで加えると、15回前後の訪問歴があり、4回しか行ってない九州に比べると大きな差があります。(沖縄県の島は4回) 今回は国鉄全盛時代の北海道の旅と俳句の話です。


約15回渡道歴で青函連絡船利用が5回、日本海フェリーが2回、残りは航空便で狭軌時代を含め青函トンネル通過経験はありません。 今後もないでしょう、1990年頃から東京都札幌区と言われ航空便で行く場所、荷物満載でほっつき歩くには車でフェリー利用に限ります。


◆均一周遊券
現在も割安な周遊券が各種ある様です、昨年坪尻駅で逢った長崎の大学生は、四国域内特急自由席利用可能な周遊券利用でした、有効期間は3日か4日と短かった様です。 国鉄時代は全国に均一周遊券が設定されており、学生貧乏旅行の強い味方でした。

【1964年9月号時刻表より】
最初の東京オリンピック開催直前の時刻表によると、学割北海道均一周遊券は有効期間18日で¥5,000でした。 オリンピック景気の経済発展や物価上昇が反映される前の価格です。

【1966年4月号時刻表より】
そのわずか1年半後の時刻表によると、学割北海道均一周遊券は有効期間が21日に延長され¥8,800に大幅値上げされてました。 筆者はこの年¥4,850の学割東北均一周遊券で初東北旅行へ出掛けてます。 両時刻表価格は¥150で変化なし、この辺りは疑問です。


初渡道は受験目的で均一周遊券を使ってません。 親の負担を軽くする為に円山公園終点の電停前にあったY.H.円山ハウスに宿泊、以降学生時代の札幌定宿になりました。 1968年は1泊2食で¥600でした。 学割均一周遊券使った全道旅は1970年だったと思います、周遊券価格は1万円、当時の大卒初任給が約3万円でしたので、その1/3の価格です。

【風太郎さん写真集より】・・・1981年
先日写真集を紹介した風太郎さんの北海道初旅は1981年、筆者の11年後です。 旧価格に打消し線を引いて¥28,800のゴム印が押されており、価格高騰に驚きましたが、1981年の大卒初任給12-13万円の1/4弱であり、それだけ国民生活が豊かになってたと解ります。


◆旅の装備
旅行荷物は手で持つより背負った方が楽で、必然的に山装備から不用品を抜き軽量化する形になりました。 2-3日山行で20kg、長い縦走は25kg前後でしたが、2L2本の水は0.8L水筒に米も食料も大幅減、テントなしシュラフも夏用で15kg程度の荷物だったと思います。

そんな中で必携したのがガソリンコンロと2L燃料ボトル、何処でも火を使い温かい食事調理したり、コーヒー淹れられるのは、便利であるだけでなく小さな贅沢だったからです。

コッヘルもセットから大鍋と中鍋を外して右の小鍋と薬缶だけ携行しました。 小鍋は即席麺作るだけでなく、米1合炊いてボンカレーにした事もあります。 コーヒーはネスカフェ空瓶にコーヒー・クリープ・砂糖ブレンドを詰め、湯湧かすだけで飲めました。

鉄パイプ製背負子にアタックザックを括り付け、山行では一斗缶付ける下部に夏用シュラフとウレタンマット、木製ベンチで眠る駅泊にウレタンマットは効果抜群でした。 旅先で目にする同世代旅行者は横長帆布製キスリング使用者が多く、カニ族と呼ばれてました。


◆往路の行程
詳細は忘れてるのに北海道入りの行程だけは記憶残ってます、最初の目的地は釧路、その先の地の果て納沙布岬でした。 上野-青森間の自由席急行には選択肢が三つあり、青森早朝着東北本線経由『八甲田』と、9時/11時頃着の常磐線経由『十和田』2本でした。

札幌での接続が良く、盛岡-青森間車窓風景が楽しめる『第2十和田』を選び、道内はこんな行程でした。 東京夜遅く出て釧路着は翌々日の朝、30時間以上必要な地の果てでした。 ここでアレッ『第1十和田』で連絡船1便早くすれば、函館14:00発、札幌20:07着山線経由『ていね』でOKでした。 C62牽引情報は知らなかったのでチャンス逃してた様です。

【昔ホームにあった洗面台】・・・2022年7月作句
急行停車駅ホームに洗面台がありました、蛇口五つほど、鏡があり持ち去り防止鎖の付いた金属コップ付きもありました。 駅舎ホームは片面、島式ホームは両面で、JR化後に次々と姿を消しました。 夜行列車到着駅で歯ブラシ・タオル・ホーローカップを持って洗面台へ行き、顔を洗って眠気を覚ましました。 この句は釧路駅到着時の体験を詠みました。


◆納沙布岬は遠かった
釧路終着の『まりも』には急行『ノサップ』が接続してましたが、根室まで135km所要時間は2時間半近く、更に凸凹路をバスに揺られて1時間掛りました。 釧路から納沙布岬往復して戻ると夕方近くなってました。


北海道の旅は納沙布岬を始め、摩周湖や阿寒湖などバスに頼るしかない行きたい場所が多く、交通費が嵩んで懐を圧迫し、食費を切り詰めた記憶が強く残ってます。


◆ブランコには驚いた
風太郎さん写真集エピローグの懐かしい話を楽しく読みましたがブランコは初耳でした。 例えば札幌-稚内間急行『利尻』上下列車交換駅で夜中の1時過ぎに乗り換え出発駅に戻って宿泊費を浮かせるテクニックで、爆睡型の筆者にはとてもできない芸当です。


札幌から稚内・網走・釧路・函館に夜行列車があり、夜汽車ホテルと駅泊で、ほぼ4日に1度札幌へ戻り、Y.H.円山ハウスに3泊しました、宿泊は下着・靴下・Tシャツの洗濯が目的でした。 2年半前の¥600より値上がりしてましたが、それでも1泊2食¥750程度でした。

【画像出典 風太郎のPな日々】・・・2022年7月作句
札幌-釧路間は急行『まりも』の他に各停夜行列車もあり、その停車駅には駅員が宿直しており、礼を持って頼めば駅泊可能でした。 他路線の夜行急行停車駅も同じで、駅泊は小駅に限りました。 そんな駅泊体験を詠んだ句です、霧が秋の季語になります。


1970年は交通事故死者が年間1万人を越えた交通戦争時代で、国鉄踏切事故も年間千件以上だったと思います。 警報機も遮断器もない第4種踏切が多い北海道、特に霧が出易い道東では、タイフォン鳴らして徐行しないと危険で、霧による遅延が良く発生してました。


◆今は亡き狩勝越え
石勝線開通で滝川-新得間の札幌と道東を結ぶ機能は役割を終え、鶴見事故原因とされた2軸貨車競合脱線実験線として活用された後、廃線になりました。 富良野-新得間の狩勝越えを旅行中3回通過したと思いますが、2回は夜行列車の眠りの中、昼は1回だけでした。

【画像出典 風太郎のPな日々】・・・2023年6月作句
狩勝越え夏写真がないので、夜行列車雰囲気の画像を使わせていただきました、雲の峰とは入道雲で夏の季語です。 古い客車のヒーターは壁面で椅子の下はスカスカでした、北海道旅行ではやりませんでしたが、山仲間4人で新宿から夜行で行く際には、1ボックス占領し、ジャンケンで勝った2人が新聞紙敷いてシート下の床上に寝ました、良く眠れました。


間もなく10泊11日の予定でドライブ旅行に出かけてます。 時代や年齢に関係なく旅に出て知らなかった物に触れ、旨い物を食べ、非日常時間を過ごすのは楽しい事です。 旅の報告は追々に公開予定です。


ではまた。

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