Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

続・学校ストラクチャに想うこと

選択対象外だった市販品学校ストラクチャがもう一つあるのを忘れてました。

【建コレ:小学校】
これが小学校と言われてピンと来るのは年配の方ではないでしょうか? プロトタイプはかつて数多く存在した分校だと思います。 で、長野県内の分校を調べてみました。


長野県小学校の廃校一覧 - Wikipedia


現在の学制になった昭和22年以降163分校が昭和30年代後半から40年代前半に廃校されてます。 名称は「分校」が多数派で「分教場」も少々、土地柄を反映した「冬季分校」もありました、積雪期の出前授業の場だった様です。


そして驚いた事に分校数を上回る169小学校が昭和30年代後半から現在に至るまで統廃合で消滅しています。 児童数減少に加え、交通網発達や経済発展があるのでしょう、分校時代にスクールバスはなく、バス通学のゆとりや自家用車送迎は無理でした。

【分校跡地】
そんな分校跡地が近所にあるので行ってみました、間口40m、奥行25mほどの敷地で昭和41年廃校です。 戸数約200戸の2部落中間にあり、団塊世代が小学生だった30年代前半最盛期には100人近い児童がここで学んだと思います。 現在筆者が住む団地は造成計画すらなく、水利が悪く桑畑だった時代で、どんな建物だったのか知る由もありません。


本校までは5km、我家の3人の子供達は1・2年生バス通学、3年生から徒歩通学でした、帰り路は遊びのスポット満載、薄暮帰宅もしばしばでした。 それが普通と思って育ったので、成人してから友人に話し驚かれたそうです。(中学校も4km先)

【放置されたバス停標識】
前の道路には日に6便のバスが通いますがバス停として使われてません。 撤去されず50年以上放置されたポールと看板は錆だらけ、かろうじて「宮川分教場」と読めます。

【記念碑】
廃校時は「田澤分校」だったのに何故?、疑問の答えは記念碑にありました。 明治6年
創立!、『のち宮川学校の支校分教場分校と改称』とありますので、恐らく戦前バス路線開通時に命名されそのまま残った様です。 歴史百年余の分校だったと解りました。


以上、学校ストラクチャに想うのこぼれ話でした。

【春の兆し】・・・2/18撮影
昨日は春を思わせるバカ陽気、空の色も高くなった陽光も真冬とは一味違いました。


ではまた。

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