Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

写真集『旅のたまゆら1981-1988』

筆者は2013年4月にレイアウト建設着手し、7-8割完成した2015年末ブログ開設しました。 レイアウト製作を決意してから関連ブログを読み始め、レイアウト製作だけでなく鉄道写真ブログも数多く訪問し、非常に共感を覚える『風太郎のPな日々』と出逢いました。


車両主役の記録写真が多い中、鉄道とその土地に暮らす人々の日常が主役と異色で、遡って全ての公開記事を読んで以来、大ファンになり毎回欠かさず読み続けてます。 車両走行を主目的としない筆者レイアウト製作コンセプトと共通点を感じたからだと思います。

【2016年風太郎さん写真展パンフ】
ファンになってから開催された写真展を欠かさず見に行ってお目に掛かり、拙ブログに訪問記を紹介してます。 
◆風太郎さんの写真展・・・2016.08.30更新
◆風太郎さん写真展訪問記・・・2020.08.31更新
昨年ブログに出版予告され心待ちにしてた写真集が刊行されました。 プロファイルによると1962年生まれの風太郎さんは一回り若く、筆者旅時代1966-1973年の15年後です。 蒸機末期と間に合わなかった世代の違いはあれど、昭和末空気感は不思議と近いのです。

【写真集予告より】
筆者の旅は自動車急速普及・オイルショック/狂乱物価・学園紛争など社会の大きな転換点直後に始まりました。 風太郎さんの旅は無煙化達成後、赤字ローカル線の廃線が続きバブル経済の大きな社会の転換点前までになります。 筆者は第2子第3子誕生と自宅建設の仕事と家族に手一杯で、旅や鉄道ましてや鉄道模型に関心を持つ余裕はありませんでした。


しかし風太郎さんの写真を見ると、二つの大きな転換点に挟まれた昭和末の鉄道や生活変化の流れは緩やかで、蒸機有無は脇役に過ぎなかったとさえ思えます。 あるいは撮り鉄さんが蒸機喪失感でローカル線から去った事が、風太郎さんの軸を定めたのかもしれません。

『たまゆら』は日常では遣われない言葉です、俳句に必要で所持してる古語辞典で調べると、意味は『ほんの少しの間』です。 風太郎さんは出典の玉の触れ合うかすかな音の意で遣われ、旅人とその土地の人・生活の小さな触れ合い・響き合いの用法と解釈してます。

【8月2日届いた写真集】・・・筆者撮影
さて手元に届いた写真集の紹介です。 風太郎さん作品の魅力は写真と添えられた短文との相乗効果と心得てますので、お許しをいただき掲載作品発表元ブログの短文も使い、風太郎ワールドを紹介します。

【鹿島鉄道 松浦 1981.12】・・・筆者撮影
内表紙は常磐線石岡から霞ケ浦北岸を通り鉾田まで結んでいた鹿島鉄道です。 国鉄払い下げの旧型気動車が多数在籍しており、キハ07が最晩年を送った事で知られてました。

【風太郎さん述懐】
中表紙をめくるとローカル線に魅せられた風太郎さんの述懐が記されてます。 風太郎さんの写真は鉄道車両写真でなく、鉄道と生活が一体化してた時代の風景写真だと解ります。

【北海道学割均一周遊券 1981.08】・・・写真集紹介記事より引用
最初は裏見開きに掲載された北海道学割均一周遊券、1981年7月29日発行30日から有効期限の半券、帰路川口で途中下車して手元に残した物です。 筆者の北海道の旅は1970年、学割均一周遊券は1万円未満でした。


その11年間にオイルショック・狂乱物価があり、大学卒初任給は3倍以上跳ね上がりました。 均一周遊券も3倍の値上がり、しかも旧価格を打ち消し線で¥28,800へ値上げ改訂跡が残ってます、ディスカバージャパンにより多くの若者が北海道を目指した時代でした。

【釧網本線 北浜 1984.02】・・・写真集010
オホーツク海沿い釧網本線の小駅北浜駅です。 1981年夏の均一周遊券初訪問の2年半後、二度目の厳冬期再訪問時の撮影です。

【上記作品発表元ブログより引用】
作品発表ブログにこんなコメントが付いてます。 北浜駅は風太郎さん初訪問の翌年1982年に貨物扱い、そしてこの訪問1984年2月に荷物扱いを停止し、翌3月から無人駅化されてます。 文中の黙々と机に向かってた最後の駅長さんは残務整理に忙しかったのでしょう。

【宗谷本線 抜海 1988年2月】・・・写真集012
晴れた日には利尻島が良く見える宗谷本線抜海、丘を下って天北線分岐駅南稚内、そして日本最北端の稚内です、20系と58系の混成列車は、1988年を良く表してるかもしれません。 お気付きでしょうか、写真集対象期間に夏1回、冬2回北海道を訪問されてます。 『ローカル線は、その土地に生きることそのもの』に従えば、繰り返し訪問スタイルは当然です。 

【蒲原鉄道 七谷 1981年8月】・・・写真集100
たとえば1985年4月に大部分が廃止された蒲原鉄道には、撮影日記録から見てほぼ半年毎に7-8回訪問され、最後の日々を追ってます。

【蒲原鉄道 七谷 1983年8月】・・・写真集029
筆者好みの選択でスミマセン、列車交換駅の2台並んだ通票閉塞器は昭和ローカル線の象徴です、古風な別体式受話器が何とも言えません。

【上記作品発表元ブログより引用】
信号現示確認の為に閉塞器室は金魚鉢の様に出っ張ってました。 もちろんエアコンなしで窓は空け放たれ・・・、でもこの40年で夏の気温は2-3度上昇した様に感じます。 1983年は筆者の諏訪転居の年に当り、30度を越える日は一夏に4-5日ほどだったと記憶してます。

【蒲原鉄道 大蒲原 1983年12月】・・・写真集118
小さな上屋に綿帽子の様に乗った雪が豪雪地帯を表わしてます。 通勤・通院・買物の生活の足として鉄道が主要な役割を果たしてました。

【上記作品発表元ブログより引用】
こんなコメントが付いてます、写真には写ってませんが通学高校生がローカル線の主要な乗客であるのは昔も今も変わりません。

【蒲原鉄道 大蒲原 1984年12月】・・・写真集109
当時の撮り鉄さんは車両写真がメイン、駅舎や通票閉塞器などの施設を撮影する人は居ても待合室の地元の方を撮影する人はまず居なかったと思います。 現在のデジタル連写で撮りまくり、後で9割捨てる訳ではなく、銀塩フィルムは一発勝負で高価だったからです。

【上記作品発表元ブログより引用】
風太郎さんが写真集冒頭で述懐されてる様に、ローカル線に密着しそこで暮らす人達の生活への視線がなければ、カメラを向ける事はなく、今となっては資料的価値もあります。

【蒲原鉄道 七谷 1985年3月】・・・写真集130
蒲原鉄道を利用する人と生活を追ってると、最後の日を逃すはずもなく訪問されてます。 この写真集唯一の鉄道車両写真らしい作品として『さよなら列車』が掲載されてます。


風太郎さんは蒲原鉄道の他に津軽鉄道、五能線を度々訪問されており、いくつか紹介と考えてましたがとても1回では無理です。 興味深い作品を追加して以下は次回にします。

【南部縦貫鉄道 天間林 1984年2月】・・・写真集016
ローカル線レールバス客室内に積んだ小荷物を到着駅で駅員が降ろしてる処です。 この時代に宅急便は既に存在しており、その全国ネット拡大にほぼ同期して小荷物扱いが停止されました。 鉄道小荷物は到着必要日数保証なしの駅留めで、駅からの連絡で印鑑持って受け取りに行く非効率なシステムの淘汰は当然でした。[続く]


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ではまた。

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