Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

御都合主義で生まれた短命特急の話

昭和36年10月のサン・ロク・トウ大改正で特急『白鳥』『まつかぜ』が誕生し、特急運転線区が本州の形を形成する様になりました。 九州は特急『はやぶさ』『さくら』が西鹿児島と長崎・佐世保まで、昭和39年10月に特急『富士』が大分まで運転開始してました。


特急『富士』が西鹿児島まで延長運転され、特急運転線区が九州の輪郭を表わしたのは昭和40年10月になります。 当時の国鉄には全国特急網整備の構想があり、昭和40年3月に本州外周唯一の特急空白地域紀伊半島を一周する特急『くろしお』運行を開始しました。

【試運転中の『くろしお』6連】・・・新宮-三輪崎間 昭和40年2月
紀勢本線沿線には白浜/勝浦の温泉、那智滝/熊野三社の観光地があり、現在も大阪-新宮間と名古屋-紀伊勝浦間に特急が運転されており、その先駆と考えれば驚くに当たりません。

【試運転中の『くろしお』6連】・・・熊野川鉄橋 昭和40年2月
しかし『くろしお』運転開始は、旅客密度が紀勢本線よりはるかに高い信越本線『あさま』や中央本線『あずさ』の1年半前、『しなの』の3年半も前でアンバランスです。 やはり特急運転線区で本州形状完成意図が国鉄にあったのではと筆者は考えてます。 

【名古屋駅掲載の看板】
紀勢本線初の特急『くろしお』運転開始告知の大看板が名古屋駅に設置されました。 割烹着姿の小母さんが見上げてるのが時代を感じさせます。

『白鳥』や『まつかぜ』は運転距離が長く2編成運用です。 紀勢本線は距離が長く1編成で上下運用できず2編成必要になり、運用効率が悪い列車になってしまいました。 そこで行きがけの駄賃に関西本線経由、名古屋-和歌山間の特急『あすか』をデッチ上げました。

【名古屋駅到着の『あすか』試運転列車6連】・・・昭和40年2月
『くろしお』と『あすか』で関西-名古屋間を上下各1編成が往復するのです。 車両運用効率優先のご都合主義で国鉄関西本線初で最後の特急の登場になりました。 1編成を名古屋-長野間、もう1編成を京都-松江間か小倉-宮崎間運用した方が収益増加したと思います。

【木曽川橋梁を渡る『あすか』試運転列車7連】・・・昭和40年2月
前年秋に東海道新幹線開業、並行鉄橋を走る運賃の安い近鉄特急に競合する関西本線に特急を走らせたのです、無謀と言うしかありません。 当時の関西本線には準急から格上げされたDC急行『かすが』が3本走ってました。 関西本線優等列車は2006年に消滅してます。

【伊賀上野駅の『あすか』試運転列車】・・・昭和40年2月
『くろしお』試験運転は基本編成7連からキハ1両除いた6連で行われた様ですが、『あすか』は6/7連、営業運転は7連だった様です。 この写真から伊賀上野駅も貨物側線付き3線駅だったと解ります。 

【『あすか』試運転列車7連 王子-河内堅上間】・・・昭和40年2月
運転区間を名古屋-大阪とせず、阪和貨物線経由で名古屋-和歌山にしたのは、言わば国鉄の言い訳の様な物です。 停車駅は、名古屋-四日市-亀山-伊賀上野-奈良-王寺-堺市-東和歌山(現和歌山)でした。 関西本線内所要時間は急行『かすが』とほぼ同じでした。

【『あすか』試運転列車と急行『紀州』】・・・昭和40年2月
試験運転中にこんな風景が桑名付近で出現しました。 時間優先なら新幹線と阪和線、コスト優先なら近鉄特急と南海電鉄、名古屋-和歌山直通でも運転開始前から負けが見えていた特急『あすか』の船出でした。 こんな列車を走らせた処に国鉄の体質が表れてます。

【昭和40年3月1日 『くろしお』発車式】
準備整い3月1日営業運転開始、名古屋駅でのセレモニーです。

【昭和40年3月1日 『あすか』発車式】
同日『あすか』営業運転開始セレモニーが東和歌山駅で開催されました。

【運転開始直後の『あすか』 奈良駅】・・・昭和40年3月
国鉄には不文律があり、例えば幹線の看板特急には1等車(展望車)連結がそうであり、初の電車特急151系には1等車相当のパーラーカーがありました。 その後3等級制から2等級制に移行し消えました。 この時代に生きてた不文律に特急の食堂車併結があります。

【『あすか』併結キシ80車内の様子】
151系から始まった電車特急は全て食堂車併結でしたし、開業時4時間、後に3時間10分になった新幹線にも食堂車がありました。 九州方面の長距離急行に食堂車が併結されており、上野-秋田間昼行急行『鳥海』にも併結されてたので、特急食堂車は当然だったのです。

【『あすか』キロ80車内の様子】
名古屋発下り『あすか』一番列車の乗車率は20%だったそうです。 乗車率は一向に伸びず1年後には食堂車の営業停止、2年半後のダイヤ改正で廃止されました。 車両運用効率向上より運転コストが嵩んだからと言えます。 かくして『あすか』は2年半で消えました。

【『あすか』キハ80車内の様子】
不純な動機で運転開始された『あすか』が短命に終わり姿を消したのは当然として、『あすか』には功績がありました、運転距離の短い特急の先例となると共に、『特急には食堂車併結』の不文律を崩した事です。


『あすか』の食堂車営業停止半年後に運転開始した『あさま』『あずさ』は4時間程度の所要時間で食堂車併結でしましたが数年を待たず廃止、新幹線もビュッフェを残し廃止、2年半後運転開始の『しなの』は最初から食堂車なしでした。


ではまた。

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