Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

機関庫の風景総集編 最終回

機関庫の風景最終回は残りの機関支区と駐泊所です。

十日町も飯山と同じく飯山線途中駅です。 調べた限りでは最初は仙台鉄道管理局の駐泊所として開設され、後に新潟鉄道管理局に移管、更に長野鉄道管理局へと移管されてます。 在籍機はC56、本区はC56わずか7両在籍の飯山からの分駐ではなく長野の方が自然です。

機関庫は木造2線式で、飯山の機関庫より一回り小型のサイズです、豪雪地帯なので扉付なのは言うまでもありません。

給炭台にも屋根が付いてます、KATO給水塔・給炭台セット付属品の屋根はこれを参考にしたのでしょう、形状が良く似てます。

【中山平駅 貨物側線】
当社も積雪地帯の設定ですが、給炭台を屋根付きにせず、この付属品を中山平駅野積み上屋に流用してます。

最小型テンダー機C56の機関庫なので水タンクも小型です。 木造機関庫脇の線路に、越後川口-十日町間区間列車と思われるキハ20が無造作に突っ込んであります。 おそらくこのDC乗務員も折返し仕業まで機関支区乗務員詰所で過ごしてたのでしょう。

この写真はK氏が転車台上に乗って機関庫方面を望む形で撮影してます。 転車台奥のシャッターの付いた新しい建屋には、筆者推定ですが除雪車両が格納されてると思います。

TMS1963年4月号に掲載されたK氏の関西本線柘植機関支区訪問レポートです。 分岐する草津線の為に設置された機関支区で、他に例を知りませんが機関庫のない蒸機基地です。 雪が降る事がない土地柄だからと思いますが、雨の日の始業点検は大変だったでしょう。

転車台・水タンク・給炭台の他に建屋は3棟のみ、支区事務所と乗務員詰所が長屋になっており、駐泊所と差が少ない簡素な機関支区です。 総集編として再録しました。


★駐泊所
一番小規模な機関庫駐泊所は、盲腸路線終着駅、区間運転列車折返し駅や補機連結解放駅に、給水や次の仕業待ちの為に設置された施設で、常に蒸機が居る訳ではありません。

K氏は『小レイアウトに製作可能な機関庫は駐泊所だけ』と書かれてますが、16番の場合はその通りでした。 Nの中型以上レイアウトなら必ずしもそうとは言えません。

山形・秋田県境雄勝峠越え補機連結解放の為に設置された駐泊所で、筆者が始めて目にした駐泊所です、1966年の夏でした。 当社想定の北国裏街道亜幹線は奥羽本線を念頭に置いており、地域経済中心地で交通の要衝守屋市は馴染みのある新庄をイメージしてました。


従って生野は準急停車駅真室川、県境峠は雄勝峠、延伸線補機解放駅倉元は院内に相当します。 延伸線設計時に院内駐泊所を検索しても全く情報がなく、院内駅歴史にも駐泊所記載はなく、記憶違いかもしれないと思いましたが、この記事でその存在が確認できました。

木造単線収容1両の小型で簡素、入庫するD51に申し訳ない様な機関庫です。 筆者記憶が正しければ機関庫出口側がそのまま転車台になってました。 機関庫に煙出しはありませんが、煙突が2本あり機関車の向きに係らず排煙できる様になってます。

1966年初訪問は天童付近から大曲までD51牽引鈍行列車の旅で、院内で給水の為に数分停車した際に車窓から駐泊所を眺めました。 この写真によると転車台・機関庫線の奥に分岐側線があり、水タンクと屋根付給炭台が並んでます、詰所らしい建屋は見当たりません。

草津線から信楽線を分岐する貴生川に設置されてた駐泊所です。 機関庫は木造単線収容1両の簡素な物で、両側につっかえ棒が付いてます。 機関庫にほぼ必ずある煙出しも煙突もなく、出入口妻板上部の羽目板をなくし、ここから煙を抜く手抜き構造で扉もなしです。

磐越東線区間運転列車折返し駅小野新町に設置されてた駐泊所です。 院内によく似た単線収容1両の機関庫ですが、煙突が1本しかありません、恐らくC11が向きにより煙突位置に合わせて駐機したと推定します。


院内・貴生川・小野新町と構内配置図がなく、画像撮影アングルが車窓からで、この写真がそれを証明してます。 運転本数の少ない線区で全て下車して実地踏査するのは難しく、車窓写真とメモで記事作成したと思われます。 糸魚川・木更津両区もその様です。

線名になってる陸中花輪駐泊所は規模が大きい駐泊所です。 左手奥に2階建て建屋が見えてます、保線の拠点も置かれてた様です。 木造2線式収容2両の機関庫脇側線五ラッセルが止まってるのも北国ならではです。

前写真は車窓から、これは列車後方デッキかホーム上からです、煙位置が異なり別写真です。 機関庫奥が暗いのは扉を閉めてるからでなく珍しい行き止りタイプだからです。

本州最南端紀勢本線串本に設置されてた駐泊所です、水タンクと右側に建屋が2棟並んでます、給炭台がれば1棟は燃料掛詰所です。 これも車窓からの撮影と思われ、左端に列車後尾が見えてます。

転車台奥に木造単線収容2両の鰻の寝床型機関庫があります。 その左手にも建屋があり全部で3棟、保線拠点もあった様です。

何故こんな機関庫になったのか?、調べたら時刻表に答えがありました、上下の一番列車が串本始発の蒸機牽引列車だったのです。 つまり串本で2両のC58が夜を明かした訳で、長距離逆推進運転無理だから転車台、転車台+複線機関庫よりこの方がはるかに省スペースだからです。 後発奥、先発前に整列、串本は山が海に迫った地形なので良く解ります。

木造2線式収容4両の堂々とした大機関庫を持ってた東舞鶴駐泊所です、小浜線C58が休んでたと思います。 この機関庫のサイズは西舞鶴機関区機関庫と同じです。 K氏が書かれた『機関庫らしさは建屋の数で決まる』を証明する活気に乏しいガランとっした風景です。

連載に掲載の駐泊所で唯一実地踏査の可能性があるのが深浦駐泊所です。

車窓からでは読み取り難い線路配置図があるのがその根拠ですが、実地踏査された場合の図面には建屋表記があるのが普通で判断付きません。

串本と同じ転車台奥の木造単線鰻の寝床型機関庫です。 深浦も山が海に迫ってる地形なので、収容2両の機関庫を複線でなく省スペースのこの形にしたのでしょう。

で、2両収容する必要性があったのか時刻表で調査、上下一番列車が深浦始発蒸機牽引列車でした。 運転ダイヤに合わせて施設が作られてた事がここでも証明されました。

転車台は8620に合わせて作られてる様です、後ろに建ち並ぶ詰所群の解説はありません。

TMS1962年7月号に掲載されたK氏鍛冶屋原駅訪問レポートです。 短い盲腸路線終端駅で、翌朝徳島への一番列車牽引機C12が一夜を明かす為に駐泊所が設置されてました。

かなり大型の水タンクと給炭台を備えてます、乗務員詰所(=宿泊所)は機関庫はら張出した小さな小屋です。 総集編として再録しました。

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