Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録⑪中央本線

今回は一番馴染み深く現在その沿線に暮らす中央本線について書きます。

【1964年9月時刻表復刻版】


5.中央本線
雑感なので切口色々、駅名改称から取り掛かります。
5-1.駅名改称について
鉄道省/国鉄/JR化後を問わず駅名改称は頻繁に行われており中央本線も同じです。 この駅名改称を類型化すると三パターンに分類できる様で、ここまでの例で解説します。

①パターンAの例
1954年黒沢尻町が周辺6村合併で北上市誕生。 1966年黒沢尻駅を北上駅へ改称。 同年横黒線が北上線へ路線名変更。
②パターンA/Bの例
1956年生保内町が合併で田沢湖町誕生。 1966年生保内駅を田沢湖駅へ改称。 2005年田沢湖町は合併で仙北市となる。
③パターンBの例
1965年奥羽本線一日市駅を八郎潟駅へ改称。
東北新幹線延伸開業で尻内駅を八戸駅へ改称。
④パターンCの例
北海道東部弟子屈町は現在も存在するが弟子屈駅を摩周駅へ改称。


ほんの一例を挙げましたが他にも山ほどあり、解り易くて良いもあれば、由緒ある駅名消えて淋しい、何じゃこりゃもあり、中央本線の項は駅名改称から始めます。


クイズ:ここは何処でしょう?

【中央本線与瀬駅周辺】・・・所有5万分の1地形図より
画面中央左右川沿いに甲州街道が走り、中央右に与瀬(旧字表記)町に与瀬駅があります、関東一円の5万分の1地図を所有しておりその1枚です。 ただしこれは父が購入した旧バージョンで、現在の相模湖駅付近です。


1947年相模湖完成、1955年与瀬町が町村合併で相模湖町となり、1956年与瀬駅が相模湖駅へ改称、2006年相模原市へ編入され相模湖町消滅、田沢湖駅と同じパターンです。

【72系クハ79】・・・ウィキペディアより
101系登場前ですから1950年代後半だと思います、高円寺の伯母の家に行く中央線電車の行先表示板には『浅川』と書いてありました。 1961年に高尾へ改称されてます。

大月-甲府間山梨県内にも駅名改称が多数あります。 1954年日下部(くさかべ)町が町村合併し山梨市誕生、1962年日下部駅が山梨市駅へ改称、パターンAの改称です。 初鹿野は開業時初鹿野村にあり命名されましたが、1941年周辺の村と合併し大和村誕生、しかしその後も初鹿野駅でした。 52年後1993年に初鹿野駅は甲斐大和駅へ改称されましたが、2005年に甲州市誕生で大和村消滅、パターンAですが改称不要でしたね。

【勝沼ぶどう郷駅】・・・ウィキペディアより
勝沼町(2005年より甲州市)は葡萄の産地で中央高速道が大月/勝沼までの時代は観光バス休憩ポイントとして大いに賑わいました。 中央道全通1983年以降大きく落ち込み、1993年甲州市発足前に勝沼駅が勝沼ぶどう郷駅へ改称されました、パターンC典型例です。


1993年に初鹿野と勝沼の駅名改称が実施されてますが、同時に別田駅が春日居町駅へ、石和駅が石和温泉駅へ改称され、大月-甲府間10駅中4駅の名称が同時変更されてます。


5-2.電化と特急運転
1960年代初頭の中央本線は新宿-甲府間が電化されてるだけで東北と同じ状況でした。

中央東線甲府までは小仏/笹子等トンネルの多い山岳区間で蒸機運転には無理があり、昭和初期に電化されました。 ただしトンネル拡幅工事をしない電化で低屋根化した70系電車が走ってました、電機もパンタ圧を下げる等の工夫をして運転してたと思われます。


飯田線電車上諏訪乗り入れの為に、上諏訪-辰野間が先行して電化されてます。 1964年8月に甲府-上諏訪間電化なので、翌10月ダイヤ改正で時刻表は大きく変化したと思います。 篠ノ井線含めて新宿-松本間電化完成は1965年でした。

一方中央西線電化は遅く1968年にようやく中津川まで電化されました、篠ノ井線含めた全線電化は1973年です。 中央東線が東北本線盛岡電化と同年、中央西線が日本海縦貫線翌年で奥羽本線より2年早いので、中央本線が冷遇され後回しになったとは言えません。


しかしこの時刻表に中央本線特急は存在せず、東北地方が主要路線全て、上野-盛岡間2往復の特急運転に比較すると石北本線と同格の『次に特急を走らす線区』と国鉄は考えてた様です。 ちなみに山陰本線には京都-博多間の特急『まつかぜ』が運転開始されてました。

中央東線初の特急は1966年12月登場の181系『あずさ』です。 中央西線はそれに2年遅れてキハ181系特急『しなの』が登場し、電化後2年で順次381系に置き換えられました。

【381系電車】・・・ウィキペディアより
機械式振り子電車の381系は大阪出張の際に3回乗りましたが、船酔いしない体質でも本を読んでると気分が悪くなりそうな感覚に合わない異様な乗り心地が嫌いでした。


5-3.夜行列車
新宿-松本、名古屋-長野はいずれも250kmですが、特に時間を有効に使いたい登山客やスキーヤー用に夜行列車が多数運転されてました。

中央東線の夜行列車は5本、23:45発山屋ご用達列車437レは十数回の乗車経験があります。 165系急行も北アルプス遠征時に良く使いました。

中央西線の夜行列車は4本、1本は大阪始発です。 北海道から見てきて夜行急行が走る路線には全て普通列車も運転されてましたが、中央西線だけはありません。 なお中央西線と篠ノ井線は1971年乗り鉄が唯一の電化前乗車経験で、木曽福島機関区が印象に残ってます。

編成表によると中央本線急行は全てキハ58系です、夜行寝台車は東線準急『穂高』と西線準急『きそ』だけでナハネフ10(冷房化オハネフ?)という珍しい車種が使われてました。 編成表一番下の急行『赤倉』は名古屋-長野-新潟を結んでた昼行急行です。


5-4.中央東線ダイヤに見る時代の変遷
では甲府から先未電化最終月の運転ダイヤを見て行きます。

【1964年9月中央東線下り時刻表】
新宿発下りダイヤで早朝分はカットしてあります。 キハ58系急行『アルプス』が午前発3本あります。 新宿-松本間に夜行含め優等列車10本/日が運転されてました。 『第1アルプス』は『かわぐち』と『八ヶ岳』、『第2アルプス』は『赤石』併結です。

【1964年9月甲府近郊の区間列車】
前出ダイヤから甲府付近に着目します。 甲府盆地内に位置する駅は初鹿野から新府までで、甲府への通勤通学客用区間列車で運転密度を上げてます。 東側は赤枠塩山-甲府間、東山梨と別田は開業時から無人の小駅で区間列車のみ停車、長距離列車通過です。

【キハ07】・・・公開記事より転載
非電化の甲府-韮崎間区間列車オレンジ枠は気動車で、この時刻表前年夏に清里林間学校の次途でキハ07単行が最後のご奉公をしてる姿を見ました。 翌月のダイヤ改正で区間列車は現在の様に塩山-韮崎通し運転に変更され、キハ07は退役したと思われます。

【1964年9月甲府⇒小淵沢所要時間】
今度は甲府-小淵沢間を見ます、41.6kmノンストップ急行所要時間50分、普通列車は115分、急行にして表定速度50km/hの鈍足です。 韮崎手前塩川鉄橋から小淵沢まで連続25‰上り勾配で600m登ります、韮崎・新府・穴山・長坂はスイッチバック駅でした。


所要時間短縮の為、キロ28を2エンジン化したキロ58を充当してましたがコレが限界、電化後165系とキハ58系『アルプス』混在時期があり、この区間に大きな所要時間差がありました。 下り勾配の上り急行『アルプス』は小淵沢⇒甲府35分、表定速度70km/hです。

一方普通列車はこの区間担当の甲府・上諏訪機関区在籍機は全てD51、重連運転記録はなく単機で25‰に挑んでた様です。 韮崎で次の『アルプス』通過待ちしますが、それにしても115分は表定速度21.7km/hに過ぎません、スイッチバック時間ロスが大きかった様です。

【2020年2月甲府⇒小淵沢所要時間】
現在この区間をE353系『あずさ』は30分で走破します、表定速度83km/hです。 そして驚くべきは普通列車、所要時間わずか38分!、1964年の1/3です。 途中7駅停車でノンストップ特急+8分という事は1駅停車に1分少々、超高加減速車両が使われてる様です。


5-5.中央東線の『大八廻り』
この時刻表の時代の中央東線は岡谷から南下して辰野で飯田線を分岐し、次に北上して峠を越え塩尻に至るルートでした。 塩嶺トンネルが開通し諏訪盆地と塩尻が直線的に結ばれたのは、筆者が当地に転居した翌月1983年7月で、大きな時間短縮になりました。

『我田引鉄』地元へ利益を齎すのが政治家の仕事だった明治期の話ですから、こんな裏話があってもおかしくありませんね。

【JR路線図】
塩嶺トンネル開通で距離半分以下、峠越え勾配もなく諏訪⇔松本が一気に近くなりました。 この路線図で辰野から南下する飯田線駅間距離が短いのが解ります、電化された私鉄を国有化したからで、辰野を除けば伊那谷を蒸機が走った歴史はありません。 伊那谷出身の同世代友人から、子供の頃汽車(蒸機)を見に辰野へ連れてって貰った話を聞きました。


ではまた。

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