Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録⑫中央本線の旅

今回は中央本線沿線の旅を紹介します。 その多くは登山旅行で国鉄利用は運転免許取得前の1972年までに集中し、飯豊連峰、尾瀬、谷川岳、妙義山除き全て中央本線沿線でした。

【1964年9月時刻表復刻版】


5-6.中央本線(東線)の旅
残された記録と記憶を頼りに新宿から出掛けた旅をまとめます。
◆1950年代後半
始めて国電でない中央本線列車に乗車したのは1958年秋、家族高尾山ハイキングの際でした。 浅川(現高尾)駅からスタート、ケーブルカーを使わず山道を歩きました。

【1958年秋 筆者と妹】
沢奥滝の前のスナップ、ここからジグザク登りで高尾山、稜線を小仏峠まで歩き相模湖へ下りました。 1960年代中頃には101系MMT2セット6連がハイキング号として相模湖-高尾間に休日運転されてましたがまだなく、70系電車の普通列車に乗ったのが本線初体験です。

【前号より転載】
前回クイズ使用地図赤ラインがハイキング行程で父が記入した様です。 翌1959年の山中湖家族旅行で新宿-大月間を準急『白馬』に乗車しました、初国鉄優等列車でしたが、旧客の地味な外観と低い運転速度にガッカリしました。 宿泊翌日、今思えば洒落た物だと思いますが、始めて見たレンタルのタンデム自転車2台で山中湖を一周しました。


◆高校生時代
高校へ入ってから山仲間ができ、長い休みにバイトして山装備を揃えました。 それまでの日帰り可能な丹沢や奥多摩から夜行日帰り登山に機会を捉えて出掛ける様になりました。

新宿発夜行普通列車を十数回利用したハズと番号振ってみました。 この列車は甲府で30分(非電化のこの時刻表では15分)停車し、小淵沢で小海線始発、茅野で八ヶ岳登山口行バスに接続が良い運転ダイヤでした。

【1965年清里駅構内踏切 右先輩部長、左筆者】
国鉄最高地点に立ちたい、クラブ研究旅行に名を借りた息抜き旅でした。

【八ヶ岳連峰】
その年夏休みの八ヶ岳縦走は初の森林限界を超える高山登山で、茅野から登山口渋温泉までバス、黒百合平から縦走し天狗岳、硫黄岳、横岳越えて赤岳石室泊、翌日最高峰に立ち清里に下り、急行『八ヶ岳』で帰京しました。 後年麓に暮らすとは全くの想定外でした。

【大蔵高丸】・・・ウィキペディアより
大蔵高丸は2,000mに満たない山ですが林道アプローチが長く閉口した記憶があります。 夏の穂高岳は初の3,000m峰挑戦でしたが、天候不順で涸沢ヒュッテから撤退しました。 穂高とは相性が悪く生涯7回行って、登頂できたのは3回だけです。


3回登頂中2回は霧・雨・強風で視界も利かず奥穂高岳山頂標識確認してそそくさ下山、結婚前の嫁さん連れて秋分の日連休に行った時だけ山紀行番組画像の様な360度の大パノラマを満喫しました。 その後2回、最後は1991年に今一度と行き、共に天候に阻まれました。

【鳳凰三山】・・・ウィキペディアより
夏休み穂高に門前払いを食らった仲間と秋の連休利用でリターンマッチに出掛けたのが鳳凰三山です、この時は天候に恵まれ背後に聳える南ア連峰、富士山、甲武信岳や金峰山等奥秩父の峰々、八ヶ岳とその奥に北アルプスまで眺める事ができました。

【瑞牆山】・・・ウィキペディアより
遠出の機会は限られ、仲間に誘われて丹沢の沢登りで岩登りの面白さを知りました、また次第にストイックな登山に移行し単独登山を始めました。 その最初が瑞牆山、スイッチバック韮崎駅下車、増富温泉行バスを2時間待って山小屋1泊の日程でした。 現在は林道が整備され2時間の林道アプローチ不要になり、行き易い山になってます。


◆浪人大学生時代
進学校で世は偏差値教育受験戦争、勝たないと明るい未来像を描けない時代で、現役受験は行きたい(就職有利)大学だけ、当然の様に浪人し予備校通いでした。 受験勉強だけじゃ息が詰まるを言い訳にレイアウト設計や山にも行きました。 岩登りの腕を上げてた山仲間N君の発案で、練習岩場北八ヶ岳稲子岳南壁で4泊5日登攀訓練合宿をしました。

小淵沢で乗り換え小海線松原湖へ、バスで稲子湯へ行き登る事4時間でようやくキャンプ予定地到着です。 100mの岩壁に7-8本ある登攀ルートを日に2本練習登攀しました。 半日潰して麓から5時間歩かないと見る事ができない神秘の湖白駒池に行き大感激でした。

【白駒池】・・・ウィキペディアより
その白駒池はその後麦草峠に道路が開通し、現在は車を降りて10分、紅葉シーズンに観光客が押し寄せてます。 昔を知る者には淋しい部分もありますが仕方ないですね。 その年秋に登った入笠山は現在毎日見上げており、9合目まで道路もゴンドラリフトもあります。

【苔に覆われた白駒池の森】・・・ウィキペディアより
山小屋が閉まる最後の週末に2度目の穂高登山に挑戦し登頂しましたが視界ゼロでした。 翌年八ヶ岳単独縦走の出発点に白駒池を選びました。 この時は山小屋2泊(当然自炊)で未踏の赤岳から先、権現岳、編笠山まで完全縦走し小淵沢へ下りました。

【表銀座ルートから槍ヶ岳を望む】・・・ウィキペディアより
翌1971年には初の槍ヶ岳を目指し、中房温泉から燕岳へ登る定番表銀座コースから槍・穂高を縦走し上高地に下る夜行1泊山小屋3泊の計画で入山しました。 またまた最終日は風が吹き荒れ穂高岳山荘から涸沢経由で上高地下山、この山行にはもう一つ目的がありました。

【槍ヶ岳山頂付近】・・・ウィキペディアより
青学進学し山岳部に入部したN君が夏合宿下見山行で、東西尾根の通常ルートでなく北鎌尾根直登をして滑落し、ヘルメット着用で命は助かった物の両足複雑骨折、入院してた松本国立病院への見舞いです。 1年休学、一生杖が必要と聞きふっつり岩登りを止めました。

【鷲ヶ峰から車山へ】・・・ウィキペディアより
筆者には10歳下の弟がおり、5人家族揃って最初で最後の山行が和田峠から白樺湖へ至る夜行日帰りでした。 下諏訪4時前到着急行で和田峠までタクシー、鷲ヶ峰は1,600mほどですが諏訪盆地が雲海に沈みご来光が綺麗でした。 翌年未踏の北八ヶ岳を踏破してます。 1971-1983年まで毎年岩岳でスキー合宿を行っており、最初3年が国鉄。以降車でした。


◆就職後
1972年に運転免許取得車所有してからは何処へ行くにも原則車、国鉄利用は限られます。

結局新宿発夜行普通列車利用は12回でした、1975年には115系電車化され行先も上諏訪、その数年後に廃止された様です。 大菩薩嶺は結婚前嫁さん連れてった始めての山、2度目が尾瀬、3度目が穂高、底知れぬ晴れ女で、私の人生も晴れにしてくれたと感謝です。

【後立山連峰】・・・ウィキペディアより
山への情熱は失っておらず就職先でワンゲルに所属しました。 1年目の夏合宿が飯豊連峰縦走、2年目が後立山連峰縦走でした。 一番楽な八方尾根から唐松岳ルートで入山し、白馬鑓ヶ岳-白馬岳-朝日岳と北端まで縦走し蓮華温泉に下る計画でした。

【不帰の険】・・・ウィキペディアより
唐松岳の先は不帰の険、梯子や鎖場の難所は下りの方が難しく、男性25kg、女性20kg背負った通過に時間取られ、体調不良者も出て予定の白馬岳テント場を変更し天狗の頭泊になりました。 その結果朝日岳を諦め白馬岳から蓮華温泉へショートカットで下山しました。


多分その2年後でした、ボーイスカウトシニア(高校生)の隊長を務めており、高山登山の希望で同じコースを選定しました。 夜行で現地入り、初日唐松岳テント場、2日目白馬岳テント場と順調に進んでましたが、南方海上の台風が速度を上げて急速接近中でした。

【白馬岳 右】・・・ウィキペディアより
翌日朝日岳で台風に直撃されると身動き取れなくなるので、蓮華温泉下山を決め沢クルミ林のテント場泊、消灯20時頃から風雨が強まりました。 22時頃ズシンという音に続いて人声が、副長と外へ出ると沢クルミの太い枝が折れ他パーティーテントを押し潰してました。


受難パーティーメンバーと力を合わせ下敷きのテントから2人救助、子供達を起こしテント畳んで蓮華温泉自炊棟土間へ避難、眠れぬ夜を過ごしました。 翌朝天候回復しましたが、大糸線平岩から通じる唯一の林道が倒木で通行不能、救急車続いてバスが来たのは午後でした。 中央本線も不通(復旧まで2ヶ月)で糸魚川-長岡経由で新幹線で帰京しました。

【蓮華温泉露天風呂】・・・ウィキペディアより
1ヶ月後連絡先を聞かれてた受難パティーリーダーから事故報告書が届きました。 治療が遅れ内臓破裂でお一方亡くなったそうです、オムロン長岡事業所山の会でした。 事故に遭遇しましたが蓮華温泉はお気に入りで、2度行き逃した朝日岳山行と家族キャンプ2回の計3回訪問してます。 沢クルミ林テント場は使用禁止になり、新テント場ができてました。


今回は鉄道旅と言うより山の思い出特集号になってしまいました。


ではまた。

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