Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

鉄の履歴書-8 16番鉄道模型 初めの一歩

H君と知り合ってから鉄道車両への興味が高まり、急速に知識が増大しました。 国鉄の車種構成が簡潔な時代で、覚えるのも楽でした。 こだま型=151系、東海型=153系、特急「とき」用161系が登場したくらいで、その後の勾配線区用・交直両用等の派生車種登場前でした、「コホナオスマカ」「ムラサキ」を覚えたのもこの頃です。


と同時に、自分の模型が欲しい気持ちを抑え難くなりました、対象が何であれマニアと呼ばれる人種は、走り出したら行く処まで行かないと止まらない特性がある様です。 両親と交渉し、勉強と両立する事を条件に、お年玉郵便貯金解約の了解を取り付けました。 残高は1万円少々だったと思います、お年玉相場100円/袋の時代なので、小父小母が多くてもその程度です、Xmasか誕生日プレゼント分を上乗せしてもらったかもしれません。

【夜の生野駅前広場】

手に入れたのは、20m車が余裕を持って走行可能なR762エンドレスレール、直線レール数本、側線分岐ポイント、ベーシックなパワーパック、車両は鉄道模型社製モハ152M車とクハ153T車の2両、それが精一杯でした。 高運転台化された153系の顔は、精悍でとても格好良く見え、眺めているだけで溜息が出るほどでした。 お金を貯めて153系4両編成完成と考えていましたが、その目標が達成される事はありませんでした。


ではまた。

生野南中学校の製作ー2 体育館完成

筆者が通った小学校では昭和36年に体育館が完成し、最初の体育館卒業式開催世代になりました、ジオコレ体育館と同じカマボコ屋根でした。 生野南中学校でも昭和30年代後半に式典や文化祭にも使える講堂兼用体育館が建設された想定です。

体育館は校門正面、校舎奥にL字型に配置しています、側面に2ヶ所ある出入口の一方が校舎前通路と正対する位置です。 体育館も校舎と同じ木材にユニット化していますが、下駄の高さを4mm低くしてベース高さを調整しています。 体育授業や式典など、雨や雪の日でも上履きで教室と行き来できる様に、校舎と渡り廊下で結ばれています。

渡り廊下は、校舎廊下側端面の出入口から体育館との間を通り、側面2ヶ所の出入口まで続いています。 1mmプラ角棒とジオコレ箱紙の工作です。

体育館内部も校舎同様に製作しました。 邪魔になるH型補強ステーを除去し、床、舞台、袖階段、暗幕、壁時計、ロビー間仕切りなどを製作設置しています。 ステー除去による強度的影響はほとんど感じませんでした。 床に印刷したバスケットコートは全く見えず、アイディア倒れでした。 館内2灯、ロビー1灯の直列接続で照明しています。

体育館ユニットは校門周辺スペースを稼ぎ出す為、屋根と背景を接して目一杯奥に設置しました。 校庭一部を潰して建設された想定なので、体育館正面入口前に半端なスペースがあり、ここを屋外バスケットコートに見立て、校舎付属品ゴールを配置しました。

校舎・体育館の基準面となる校庭は、以前紹介した廃屋跡カメラ台と同じ高さになっています。 廃屋跡が窪地になると不自然なので、平坦または校庭が低い条件で地形検討し、最終的に平坦にしました。 校庭境界柵は、本来用途では時代設定不適合になるKATOガードレールを、黒鉄色で塗装して使っています。


ではまた。

広かった昭和30年代の日本

ネタ不足で始めた鉄の履歴書シリーズですが、振り返ると色々書きたい事、思い出す事があり、良い整理になりそうです。 昭和37年、中学入学時点まで進みましたが、今回は当時と現在の、時間的感覚的な日本の広さの違いについて書いてみたいと思います。


空路・鉄道・車を使い、家族旅行・帰省・学校行事などで、自宅から500km以上の旅を経験した現在の中学1年生は、多分半分以上ではないかと思われます。(我家の子供達は25年前の夏休みに北海道ドライブ旅行を経験しています) 200km以上、首都圏なら、いわき、福島・新潟・長野・浜松辺りに狭めれば9割を越えるかもしれません。

【ローカル駅の夜】
昭和37年は東京オリンピック・東海道新幹線開業の2年前、サニー・カローラが発売されたマイカー元年の4年前、東名高速道開通(厚木ICまで)の5年前です。 テレビのカラー化や電話の普及が進み、航空便はまだ庶民の乗り物ではありませんでした。 高度経済成長が社会全体に及び、豊かさを実感できる様になったのはこのすぐ後の時代です。


東京育ち筆者の昭和37年最遠点は、東は九十九里浜、北は石打、西は沼津一駅先、全て所属していたボーイスカウトキャンプ地とスキー訓練地です。 それ以外は、東は稲毛、北は館林、西は山中湖、夜行列車で両親の里帰りに同行する機会でもない限りそれが普通でした、500km以上、大阪・盛岡以遠を経験した同級生は1割以下だったと思います。


関西まで7時間、九州、北海道まで20時間、所要時間は現在の3倍です。 最南端、最北端まで2日がかり、空路が発達した現在に比べ、感覚的距離感は10倍近くありました。 後年、石垣・西表や利尻・礼文を訪問できる様になるとは全く思えませんでした。 年寄りの感傷になりつつあるので、この辺でやめて置きます。


ではまた。