Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

1963年 頻発した鉄道事故

人間は手痛い目に遭って始めて何が不足してたかを考え、同じ過ちを繰り返さない様に手を打つ歴史を繰り返してきました。 能登半島地震では1981年の建築物耐震基準強化前、築43年以上の多くの家屋が全壊し多数の死亡者が出ました、ここから何を学ぶのでしょう。

【オハユニ61 過去記事より転載】
戦後の鉄道史に残る大事故を見ても、1947年2月発生の八高線列車脱線転覆事故(死者184名)で脆弱な木造客車が被害を拡大させた事から、旧型木造客車の鋼体化改造が行われオハ61系が誕生しました。


また1962年5月発生の三河島事故(死者180名)は下り貨物列車信号誤認脱線がキッカケとなった多重衝突事故で、事故再発防止策としてATS導入が決定されました。 しかしATS導入完了前に、また貨物列車脱線に起因する死者161名の多重衝突事故が発生しました。

三河島事故から1年半、その記憶が風化してない頃で、翌日朝刊一面半分の現場写真と最大サイズ活字が躍る紙面を見た衝撃は良く覚えてます。

図下2線が貨物上下線、中央2線が東海道/横須賀上下線、左端でオーバークロスする上2線が京浜東北線です。 下り貨物列車後部3両が脱線して隣の東海道/横須賀上り線を塞ぎ、そこへ上下横須賀線列車が衝突し大事故に至り、人為的ミスの要因はありませんでした。

度重なる大事故に国鉄批判の声が上がりましたが、輸送力増強の社会的要請で、スピードアップと過密ダイヤを強いられてた国鉄は、安定的かつ安全に運行する技術・システム開発と装備が追い付いてなかったのです。

負傷者救出と共に徹夜の復旧作業が進みました。 東海道新幹線開業前年、日本の大動脈を止める訳には行かなかったのです。 現代の社会的価値観からすると『大勢の方が亡くなった事故なのに不謹慎な』と言われかねない滅多に見られないこんな写真も残されてます。

鶴見事故を契機にATS導入が加速しました。 しかし1960年代後半山手線の実態はATS警報ベルが鳴ればオフして手動・目視確認運転、でないと守れないダイヤでした。 ATS指示に従いダイヤを混乱させる事が『遵法闘争』の名で国鉄労使紛争で使われたほどです。


この常態化したATS警報オフ手動・目視確認運転は、総武線緩行東中野駅追突事故を引き起こし、更に歴史を繰り返し民営化後JR西の尼崎事故まで繋がってます。 人を補助し人に頼るATS は限界があり不十分で、人を信じず人を制御する新幹線から導入されたATCでないと安全を保つのが難しく、それが尼崎事故の教訓だったと思います。

詳報によると貨物列車43-45両目脱線がキッカケで、脱線貨車接触で脱線した上り横須賀線先頭部が現場で擦れ違い中の下り横須賀線編成4-5両目に突っ込んでます。 三河島事故で議論された事故発生で他列車緊急停止措置でも防げなかった不運が重なった事故でした。


事故原因は2軸貨車ワラ1の競合脱線とされましたが、そのメカニズムは解明されず、1966年廃線になった旧狩勝峠越えを実験線として研究が続けられました。 実験線研究は1979年まで続きましたが、その間に国鉄は輸送の王者の地位を失っており、長大編成混載貨物列車は姿を消し、研究成果を活かす場がなくなってました。

なお同年夏に旧型国電改造の事故救援車が大井工場で完成して田町電車区に配属されており、鶴見事故でも出動したと思います。 1963年には鶴見事故の前に3件の脱線転覆事故が発生してます。 

下り急行『平戸』は、大阪始発佐世保行夜行列車で笠岡通過は深夜1時半頃ですが、何故か13:25と書かれてます。 AM/PMの間違いで事故後早朝と思われます。 ポイントトングレール折損でEF58横倒し、列車が本線を塞ぎ後続九州行ブルトレも大混乱したでしょう。

現代より重量級の国鉄電車が、現代より小型軽量のトラックと踏切で衝突しただけで、いとも簡単に脱線転覆事故になってます。

当時より少ない最近の対車踏切衝突事故で脱線する事故はほとんどありません。 軽量でも強靭な車体、脱線し難い何かがあるのでしょうか。

こちらも踏切事故、1960年代は踏切事故が急増した時代でした。 列車本数の増加と自動車の急増が背景で1960年代末には年間3千件前後でした。 踏切警報器/遮断器設置と対策が行われましたが、一番効果があったのは踏切をなくす高架化でした。

【内閣府統計より】
それから40年間で踏切事故は年間500件以下1/6-1/7に減少してます。 そして最近20年間で更に半分、開かずの踏切の話は聞きません。 JR化後の脱線転覆大事故は2005年4月の尼崎事故まで起きてません。


尼崎事故の同年12月に羽越本線特急『いなほ』の突風による脱線転覆事故が発生しました。 事故後JR強風基準が厳しく改訂され、小田急・京王は多摩川鉄橋渡って運転してるのに、JRだけ多摩川鉄橋を渡れず立川以遠運転見合わせが何度か発生してました。 踏切事故・車両事故共に、年々減少してますが、ゼロになる事はないでしょう。


ではまた。

×

非ログインユーザーとして返信する