Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

碓氷峠百年物語 第3章

第2章では蒸機運転で輸送力が飽和した1898年から、電化された1912年、ED42登場の1930年、更に戦争の空白期を経てED42配備完了の1947年まで49年間の経緯を紹介しました。 


6.歴史は繰り返す
第3章はED42配備完了以降の続編です。


◆熊ノ平土砂崩落事故
鉄道事故ではありませんが、碓氷峠越えで大事故が発生しました。 1950年6月8日熊ノ平駅構内で土砂崩落が発生、線路上土砂撤去中の6月9日に更に大規模な土砂崩落が発生し駅舎等8棟が倒壊、駅長含む80名が生き埋めになり56名が死亡、復旧に半月近く要してます。

【ED42三重連 横川】
ED42は100%国産電機ですが、輸入アプト式電機のコピーで基本設計が古く、統括制御機能がなく最高速度も8km/hで電化初期のEC10と変わりありませんでした。 当時は機関車2人乗務時代、1編成8人乗務でたった11.2km区間運転にザッと70名の機関士が必要でした。


ここで開業以降の輸送力増強の歴史を振り返ります。

開業当時単機運転でしたが輸送力増強する為に、中間補機運転が開始され、ピニオン車ピブ1運用も始まりました。 蒸機時代末期には25両で日に36往復の列車を運転しましたが、ここで輸送力が飽和しました。


1912年の電化当初は蒸機を電機に置き換えただけでしたが、牽引両数が1両増え、所要時間70分から43分へのスピードアップにより、日に36本が上限がった運転列車数が48本に増加して輸送力を増強しました。

その後時代と共に電機3両運転、4両運転、ピニオン車運用停止などで牽引トン数向上が続きました。 最終的にED42を横川方3重連、軽井沢方補機の4両で350トン牽引が可能になりましたが、日に48本の列車しか運転できない事が輸送力の上限になりました。

牽引トン数の更なる増加で長編成列車運転可能なら良かったのですが、それは不可能でした。 熊ノ平はトンネルとトンネルに挟まれたわずかな平地にあり、交換施設有効長が十分長くなく制約があったからです。


ED42単一機種28両で戦後復興需要は乗り切りましたが、昭和30年代に入り経済発展と観光需要増大による輸送力増強が必須になりました。 歴史は繰り返す、蒸機時代末期の50年前に起きた事がまた起きたのです。

更に国鉄近代化計画の中で高崎-横川、軽井沢-長野間の電化が決定され、解決策は線路増設しかない状況になりました。


7.線路増設
国鉄近代化第1次5ヶ年計画がスタートした1957年から碓氷峠越え輸送力抜本的増強が検討着手され、設備/車両経費が嵩み低速で、かつ建設から60年以上経たアプト式を廃止し粘着運転移行が決まりました。


粘着運転は電化時にも検討され、機関車重量が非常に重く高価な為に見送られた経緯がありました。 ルートも敷設時のループ線案も再検討された末、現在線にほぼ平行な新線建設が1959年8月に決定されました。

現在線にほぼ平行と言っても、70年前敷設工事時よりトンネル掘削技術と橋梁架橋技術が飛躍的に進歩しており、トンネル長短縮より走行性や防災性優先の設計がされました。 重量機関車横圧を軽減する為、最小曲線半径は現在線260mから350m以上に緩和されました。

トンネル数は現在線26から11に減ってますが、長いトンネル採用で総延長は5,500mに伸びてます。 新線建設は1961年4月に着工です。 トンネル長さは問題になりませんでしたが、急勾配トンネルの削りカス(ずり)の効率的で安全な搬出に苦労したそうです。

長い3本のトンネルには、保守性の良いコンクリート道床が採用され、非常に精度が高いのでレール寿命を長くする目的で、軌間を2mm狭い1065mmで敷設されました。 こんな事できると始めて知りました。

3本のトンネルを除く区間は有道床ですが、現在線の鉄製枕木に対し新線の枕木には通常のPC枕木より頑丈な270kgPC枕木4号6型を使って線路が敷設されました。 敷設用資材は丸山/熊ノ平/矢ケ崎3ヶ所を集積基地とし、大型モーターカー10両で搬送しました。

一方新線の橋梁数は16から17に増えており、この中には日本一70mスパンのコンクリートアーチ橋新碓井川橋梁が含まれます。 この橋梁のアーチとアーチ基礎強度が十分必要な事は明白であり、ペコ・サポート/ペコ・ガーダーと言う特殊工法が採用されてます。

これがアーチとアーチ基礎コンクリート900トン打設する為のペコ・サポート図面です。 足場と言うより橋梁建設の為の仮橋とも言うべき構造物で、自重が84トンもあります。

ペコ・サポート組立完了時の写真が残ってます。 コンクリート打設用ですので、工程完了後に分解され姿を消した構造物です。

ペコ・ガーダー(サポートの強度保持?)が組み立てられ、左右2㎥づつバランス取りながら施工、1日上限60㎥で進められました。 工程が冬季に掛かり凍結を防ぐ為に2重カバーで保護・保温し、外気温が氷点下2桁でも+8度~+15度に温度管理が行われました。

レンガ積み橋脚碓井川橋梁の間から新碓井川橋梁がが見えてます。

【完成した新碓井川橋梁】
最新技術を駆使して新線建設工事はア2年余で完成しました。 着工1年後の1962年5月から部分開通した横川方で試験運転が開始されてます。

試験運転開始後のDC急行『丸池』、前補機1両、横川方3重連です、所要時間42分、両駅の機関車交換を含めると碓氷峠越え約1時間時代です。

こちらが同月撮影の試運転列車です。

試運転が行われてる頃の様子、左側新線の試験運転列車軽井沢方電機は補機EF63でなく本務機EF62が務めてます。 と言う事は並走してるのかもしれません。

同じく試運転期間中の『信越白鳥』と試運転列車のツーショットです。 アプト式現在線の『信越白鳥』は、ED42 3重連で押上げ軽井沢方補機なしです。 キハ82系7連には3重連で十分な事に加え、軽井沢でED42連結解放だけで発車可能になる運転時間短縮の為です。


ではまた。

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