Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

鉄の履歴書ー3 国鉄との馴れ初め

両親が省線と呼んでいた国鉄(昭和24年6月発足)に始めて乗った記憶は昭和28-29年、高円寺の伯母宅へ連れられて行った時か、逗子へ海水浴に行った時だと思います。 もっとも私鉄と国鉄の違いも解らず、長くつながった電車のイメージしか残っていません。 山手線(「やまて」です)中央線は101系登場前で72系、横須賀線は70系の時代です。 両親が省線や省線電車と言わなくなったのは、昭和30年代半ばだったと思います。

【中山平駅前広場】

昭和32年の夏でした、家族で山中湖へ一泊旅行へ出かけました、新宿から大月まで準急「白馬」に乗りました、国鉄優等列車の初体験です。 当時は国鉄の意味も、準急が特別な列車である事も理解していました、「白馬」は客車列車でした。 確認可能な昭和35年10月ダイヤによると、新宿-大月間客車準急所要時間は1時間半ですが、期待外れの速度だった事と、通路側座席で山と空しか見えずに退屈した記憶だけが残っています。


翌昭和33年夏、入団したボーイスカウトキャンプ地は、静岡県沼津近郊の原の千本松原でした。 昼過ぎの原駅踏切で、若草色の列車が凄いスピードで走り去るのを見ました、上級生に特急「つばめ」だと教えられました。 後にそれが、昭和31年東海道本線全線電化後塗色変更されて青大将と呼ばれる様になり、その年11月に特急こだまが運行開始して昭和35年に廃止された、短い運転期間の特別な列車との遭遇だったと知りました。


ではまた。

ご愛読に感謝します3万アクセス到達

一昨夜ブログ開設から3万アクセスに到達しました、皆様のご愛読に感謝いたします。 予想外の展開に、当初方針はどこへやら、更新しなくてはとプレッシャーを感じつつここまで来ました。 心地良い緊張感は次第にストレスへと変質し、先日の『ブログを始めたのはいいけれど・・・』の心境になりました。 頂戴したコメントから、先輩諸氏も同じ道を辿られたのかと少々ホッとしています。 道のりを振り返ると、あたかも3段ロケットの如き急加速に押し流され、年甲斐もなく舞い上がっていた様です。

0(開設)~1万アクセス: 78日、128/D、48投稿

1万~2万アクセス:    56日、179/D、34投稿

2万~3万アクセス:    34日、294/D、22投稿

【廃トンネル跡の夕景】

週2回投稿なら半年以上のストックは十分ある、その間に建設も進むが目論見でしたが、

ブログは急速放電、建設は基本的に365連休でも何かと忙しく、遅々として進まない。 しかも、建設進捗を妨げる最大要因がブログ更新というジレンマに陥っていました。


のんびりゆっくりを意識し過ぎると、性急な性分から逆ストレスになり兼ねませんので、「まず自分がタノしむ」「無理せずラクに」の”楽”をキーワードにして、継続して行きたいと考えています。 これからもよろしくお願いいたします。


ではまた。

鉄の履歴書-2 鉄道旅にワクワク

小学校入学前、昭和29-30年の話です。 月一度あるかないかの「渋谷へお出かけ」は、電車に乗れる貴重な機会でした、わずか6-7分の乗車ですが唸りを上げるモーター音や、渋谷駅ポイントを通過する際の揺れや車輪の不規則音にワクワクしました。 お昼は東横百貨店7階食堂で、日の丸の旗が立ったお子様ランチがお約束でした。

【夕焼け貨物線】・・・ワラ1234は安直過ぎませんかKATOさん。

指折り数えた最大の楽しみは、母の里帰りに連れられて行く館林への一泊旅行でした。 浅草から準急で1時間45分、小学3年の頃には路線全駅名を諳んじるほどでした。 2扉1段下降式窓の茶色い電車、とにかくクロスシートが嬉しくて、西新井を過ぎると続く田園風景や待避線のある駅の佇まいに、幼いなりの旅情を感じていました。


館林駅からボンネットバス、降車停留所前に分校がありました、小さな木造2階建の小中学校一緒の分校です。 そこから母の実家までカマボコ型凸凹道と窪んだだけの側溝、道幅の数倍に茂った竹藪や庭木の景色と共に、何とも言えない香りがして「ボクのいなか」を実感していました。 後年、子供達と隣のトトロを見た際、冒頭の引っ越しシーンの風景に、ああこれだこれだと忘れていた「ボクのいなか」の匂いを嗅いだ気がしました。


館林への帰省旅行は祖母の3回忌、昭和37年まで毎年続きました。 一度だけ昭和29年にその年2度度目になるいつもと違う旅がありました、昼過ぎに出て館林に着いたのは夜でした。 バスは終っていたので輪タクに乗りました、自転車に小型人力車を取り付けた乗り物です。 黙りこくった母と雨の夜の闇に心細かった記憶が残っています、厳格で叱られた記憶しかない祖父が亡くなった日だったと思います。


《注》記事掲載の裏付調査で、乗車したのは当時の東武主力電車デハ5型(モハ3210型)と知りました、一部セミクロスシート化され・・・の記載があり、運転距離が長い日光線・伊勢崎線へ集中投入されていたのかもしれません、編成は4-5両でした。


ではまた。