Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

半世紀前の鉄道P誌1965年4月号➊C50特集

昨年7月、無煙化10年前に策定された国鉄第三次五ヶ年計画について紹介しました。 ここで動力近代化の旗の元に蒸機全廃を目指した国鉄の計画と実際の差を検証をしてます。
昭和40年国鉄第3次5ヶ年計画から➊
昭和40年国鉄第3次5ヶ年計画から➋
この記事作成にはネタ本があり、それが鉄道P誌1965年4月号でした。

【鉄道P誌1965年4月号目次】
目次の『国鉄車輛の将来計画について』記事と図表を基に追加調査でまとめました。 先日公開の全句にの国鉄の話題も、同じく特急『あすか』顛末記も同様です。 この号は8620/C50特集号ですので、その内容紹介です。

【鉄道P誌1965年4月号表紙】
表紙は両毛線旅客列車牽引のC50です。 8620/C50特集なら主役の8620を表紙に使って欲しかった処です、首都圏近郊は入換機しかなくても、花輪線、五能線、予算本線では本務機務めてました。 当時C50が本務機に使われてたのは両毛線だけだったかもしれません。

C50は8620改良型として昭和4年~昭和8年に154両が製造されました。 8620が登場時東海道本線急行列車牽引で華々しくデビューしたのに対し、C50は最初から地方線区の貨客両用として使われ地味な存在です。 

設計的には棒台枠など後の蒸機標準仕様となった技術採用で8620から近代化されてますが、他の大型機への採用時期から、8620⇒C50の切替を4-5年早くする事も可能だったと当時を知る方が回想記で述べてます。

【蒸気機関車スタイルブック1962年版より】
盛り込まれた技術は兎も角、外見上はランボードが高くキャブ下Rが亡くなった事で、8620の軽快さがスポイルされ、筆者個人はキャブ2枚窓の3枚化にも鈍重な印象を持ちました。

ナンバープレートを見なければC50と8620は良く似てます。 旅先の急行停車駅で『ハチロクが入換やってる』と思い、『な~んだC50か』とがっかりした事が何度かありました。

鉄道150年を迎えましたが、最初の60年間、機関車と言えば蒸機の時代が続き、輸入期から模倣国産機、そして最後の10年昭和初期に自前技術による純国産機に進化しました。

純国産蒸機誕生後も技術の進化速度は速く、多くの改良型蒸機が誕生しました。 技術的には当然新型が優れてるのですが、現場の評価やファンの評価は別物なのが面白い処です。

例えばD50⇒D51やC51⇒(C55)C57は、導入時不慣れによる一時的混乱はあっても、正常進化として好意的に受け入れられましたが、8620⇒C50はC57の戦前型(一次型/二次型)⇒戦後型(三次型/四次型)と共に最も人気のなかった改良機ではなかったかと思います。

【蒸気機関車スタイルブック1962年版より】
それでは同誌掲載の働くC50の姿を追っていきます。

C50 が新鋭機だった戦前の札幌駅で函館本線下り列車を牽く様子です。

6両編成の堂々たる旅客列車を牽き鉄橋を渡るC50の姿ですが、撮影場所、撮影日時が不明です。 デフなし本務機と後続客車から昭和30年前後ではないかと思われます。


この特集号編集時にC50が本務機務めるのは両毛線くらいしかなかったのかもしれません。 それも旅客列車無煙化で余剰になったC58に置き換えられ、入換機の余生になりました。

東北本線小山での入換作業C50です。 東北本線電化前の撮影ですが、電化後も非電化分岐支線があり入換機として働いてました。

同じ両毛線桐生駅構内入換の様子です。 桐生は両毛線ほぼ中央に位置し足尾線分岐拠駅だったので、高崎-桐生間、小山-桐生間の各駅発着貨車の編成変更作業を行ってた様です。

これも亀山で入換機として使われてたC50です。

C50ラストナンバー154号機は両毛線本務機として使われてました。 C50廃車は車歴25年を迎えた昭和20年代末から始まっており、この号発売時の在籍数78両に半減してました。


ではまた。

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