半世紀前の鉄道P誌 1966年4月号②
鉄道P誌1966年4月号2回目は西日本編です。
最初はC58が主力機関車として活躍した高山本線からです。 トンネルや雪崩覆いが多い路線なので、夏場の乗客は窓を開けたり閉めたり忙しかったと思います。
同じく高山本線、筆者が2016.11.22『カーブ鉄橋の構想設計』に引用した鉄橋を渡るC58牽引列車です。 先頭はダブルルーフ(荷物車かも)、旧客混成の編成です。
紀勢本線もC58が主力機として活躍した路線でした。 写真は全線開通する少し前の紀勢西線の姿です。
関西本線中在家信号所、ここはD51の独壇場だと思っていましたが、紀勢本線を担当する亀山機関区C58が運用の都合で加太越えに挑む事もあった様です。
宮津線のC58です。 夏場なのでデッキ扉を開放して走行しています、筆者は開放デッキから過ぎゆく風景を眺めた事が何度もあります。 自分の身は自分で守れ、子供から目を離すのは親が悪いという時代で、今では考えられません。
お隣小浜線です、先頭荷物車、2両目合造車、8月撮影なのでやはりデッキ扉を開放しています。 D51が峠越えが似合うのに対し、C58は海辺のローカル線が似合います。
宇高連絡船時代の旧高松駅です。 C58は新製時には四国に配置されませんでしたが、1996年1月時点で43両が配置されています、一方D51はゼロでした。
その結果、予讃本線の長大な貨物列車を牽くのもC58の役目でした。
優等列車と縁が薄いC58ですが、予讃本線で準急「せと」を牽引していました。
阿蘇カルデラを進む豊肥線快速「火の山」号です。
門鉄デフのC58、こちらも豊肥線です、棚田の風景が広がっています。
美濃太田機関区でお召列車牽引準備を終え、出番を待つC58です。 目立たない場所で黙々と働くのがC58本来の姿で、華やかな舞台は似合わないと筆者は思います。
【1962年版蒸気機関車スタイルブックより】
最後は、C58後継機として企画され、無煙化の流れの中で開発中止されたC63の設計図面です。 D51から続いた国鉄近代蒸機系譜の集大成、18kg/㎤への高圧化による出力増大等、多くの新機軸が盛り込まれていました。 洗練されたスマートな肢体に魅了されましたが、登場すれば9600、C58の寿命を縮める役割を果すだけだったかもしれません。
ではまた。