Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

碓氷峠百年物語 終章

第4章は新線敷設完了から、開業以来70年続いたアプト式廃止までの3ヶ月の経緯を紹介しました。 その続編で最終回です。


10.アプト式廃止後の3年間
1963年10月ダイヤ改正で上野発長野までの優等列車はほぼ全て電車化されました。 アプト式廃止により、歯軌条撤去した現在線を下り本線、新線を上り本線とした複線運転が開始されたと考えてましたが違いました。

考証で年表調べるとアプト式廃止は歯軌条撤去とED42が退役しEF63に替っただけでした。 暫定開業期間の単線x2本運用が続き、複線運転開始で不要になった丸山/矢ケ崎両信号所の廃止は3年後1966年7月でした。


一般的に複線輸送力は単線の3倍と言われてます。 単線x2本運用から複線化され、新線とアプト式廃止によるスピードアップで増強された碓氷峠越え輸送力が更に1.5倍増強された事になります。 なおこの間に熊ノ平駅は信号所に降格されてます。

【ウィキペディアより引用】
アプト式廃止により専用機ED42は引退、1号機が碓氷鉄道文化むらに静態保存されており、2017年6月に訪問しましたが、暗い庫内で写真になりませんでした。 信越本線電化の項で廃止された松井田スイッチバックを紹介しましたが、電化前は軽井沢方にもありました。

【過去記事より転載】
御代田駅はスイッチバックで電化時にホームと駅舎が移設されましたが、スイッチバック線は電化5年後の1968年に廃止でした。 構内線一部を利用しD51が静態保存されてます。


信越本線は電化時にスイッチバック運転廃止に対し、中央本線は電化時に廃止されたのは信号所昇格で貨物扱いのない新府のみでした。 初狩・笹子・勝沼・韮崎など7駅は電化後10年近く継続してスイッチバッ運転してました。 気になる事があり調べてみました。

【ウィキペディアより引用】
中央本線電化後の主力電機は旧式貨物用EF13でした、蒸気発生装置がなく冬場の旅客列車は次位に暖房車マヌ34を連結してました。 新宿23:45発長野行普通列車十数回乗車し体験してます。 EF13では25‰勾配で牽き出すパワー不足が原因だったのではの仮説です。

【ウィキペディアより引用】
信越本線電化後の主力電機は新鋭機EF62、製造時期20年差で最高速度/定格出力共に1.5倍強に向上してます。 このパワーアップで25‰区間のスイッチバック不要になった様です。

話を戻します、信越本線の輸送力ボトルネックは70年間碓氷峠越えでしたが、ここが解消すると他の場所がボトルネックなるので、碓氷峠越え両側区間複線化が進んでました。


新線暫定開業時の所要時間短縮は前号によると以下の通りでした。
◆下り 横川⇒軽井沢 46分⇒26分 20分短縮
◆上り 軽井沢⇒横川 42分⇒33分 9分短縮

複線化前1964年9月時刻表で所要時間短縮を検証しました。

【1964年9月時刻表】
下りは横川発と軽井沢着が掲載されてるので両駅間所要時間が解ります。 『信越白鳥』所要時間は26分で前号データ通り、軽井沢停車中に後方補機EF63連結解放して3分で発車してます。 なおこの年10月のダイヤ改正で上野-金沢間『はくたか』に変更されてました。


一方熊ノ平停車急行は30分、普通列車は29分、停車時間かと思いきや、熊ノ平通過の準急も30分、26分運転は特急だけで他は29-30分でした。

【1964年9月時刻表】
上りは両駅発時刻のみで横川EF63連結解放時間が含まれるので実質所要時間は解りません。 『信越白鳥』は29分で、下りと同じ26分+3分と考えて良く、上りも16分短縮で暫定開業時よりスピードアップしてます。 他列車は30分で所要時間差はなく、特急連結解放作業の特別扱いの差と思われます。 日に1本の特急は本当に特別な列車の時代でした。


碓氷峠越え複線化翌月1966年8月に長野-直江津間が電化され、10月のダイヤ改正から碓氷峠越えを含む信越本線大量輸送時代が始まります。


11.1966年10月以降
1966年10月ダイヤ改正で信越本線に特急『あさま』が登場しました。 中央本線特急『あずさ』運転開始は同年12月1日で、この2ヶ月差に国鉄の忖度を感じます。 青森県の旧津軽と旧南部ほど犬猿の仲ではありませんが、長野と松本は何かと対抗意識が強いのです。

【悲し過ぎる碓氷鉄道文化むら展示】・・・2017年6月
特急『あさま』運転開始後も信越本線高崎-長野間複線化は急ピッチで進み、1968年9月末にはは一部区間を除き複線化されてました。

1968年10月ダイヤ改正で『あさま』も『あずさ』も増発されました。 通称ヨン・サン・トウ大改正で、骨子は以下の通りでした。
➊特急大増発
特急が大衆化されて特別な列車でなくなり、急行並み停車駅で設備が少し良く、利用料金が高い列車への変質が始まりました。
➋準急廃止
全て急行へ格上げされ、利用料金だけ値上げされました。

【碓氷鉄道文化むらで取得】
その後もダイヤ改正の度に急行が特急に置き換えられ、1970年大阪万博終了後乗客減に対し『Discover Japann』キャンペーンを打ち増収を図りました。 そしてついに1972年10月ダイヤ改正で『エル特急』を登場させ、1968-1972年の4年で特急格下げが完了しました。


筆者この区間乗車経験はこの4年間に集中してます、5-6回と思いますが下りは夜行で夢の中、上り『あさま』の体験が記憶に残ってます。 前進してるのに後ろから引っ張られてる様な(実際その通り)奇妙な感覚で、体感速度は40km/h程度の徐行した。

【ウィキペディアより引用】
昼間優等列車は全て特急、急行は夜行列車だけになって行きました。 碓氷峠越えが百年余の歴史を閉じた1997年、北陸新幹線高崎-長野間開業で横川-軽井沢間が廃線になる直前には特急『あさま』18往復、『白山』1往復が毎時1-2本運転されてました。


12.Another Story
駅弁と言うとデパ地下イベントか車内販売で求める物と思う方が多い時代になりました。 コンビニ、ホットモット、車内販売もなかった時代の鉄道旅途上の食事は、特急と一部急行に連結されてた食堂車、駅弁、自宅から持参の三択で、駅弁が最もポピュラーでした。


碓氷峠越えには人気ランキングTOP10入りする駅弁がありました、横川の『峠の釜めし』です。 上野から軽井沢/長野方面ならコレか高崎の『だるま弁当が定番でした。

【峠の釜めし ¥1,300】
『峠の釜めし』発売元は『おぎのや』、1885年横川駅前で弁当屋を創業しました。 この年高崎-横川間開業、翌年直江津-軽井沢間開業、横川-軽井沢間は計画中でしたが、これからは鉄道の時代の読みは正しく、浮き沈みありながらも戦後まで営業を続けました。

【こんなバージョンもあります】
『おぎのや』発展のキッカケは1958年横川駅で販売開始した『峠の釜めし』の大ヒットでした。 TVドラマ題材に取り上げられて全国区になり、この時代に始まったデパート催事場の全国駅弁祭りには必ずと言って良いほど出品されてました。 自動車本格普及数年前の1962年には国道18号線沿いに車時代に備えたアンテナショップを開店してます。

【おぎのやドライブイン諏訪IC店】
鉄道に加え自動車交通需要に梶を切ったのは1978年、アンテナショップを大改装し、大型バス受け入れ可能なおぎのやドライブインを開店しました。 1980年には峠を越えた軽井沢店、1983年には全線開通したばかりの中央道諏訪IC店を開店しました。

【おぎもや 上信越道y古川SA】
1991年に1998年冬季五輪長野開催が決まり、北陸新幹線高崎-長野間先行開業が決定的になり、横川駅売上に頼っていては存続の危機が見えてきました。 開通した上信越道横川SA上下線に1993年出店、佐久IC店1994年開店と脱・横川駅化を進め、横川-軽井沢間廃止時点では横川駅売上比率は3割弱まで下がっており、鉄道廃止の難局を見事乗り切りました。

【釜めし関連グッズも充実】
諏訪IC店は中央道が全線開通直後、何もない新開地に突然姿を現し驚きました。 東京発観光バスは談合坂SAで休憩し、次にここで休憩、高遠の桜、白樺湖・蓼科・霧ケ峰の新緑/避暑/紅葉/スキーの目的地へ向かい、年間通じて繁盛してます。[本シリーズ完] 


ではまた。

×

非ログインユーザーとして返信する