Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

北海道遠征記 その2

北海道初日は引き返して旭川泊でした。 5月11日から道東を反時計回りに富良野⇒帯広⇒釧路⇒根室⇒網走⇒紋別と訪問する計画です。

旭川から富良野線沿いに南に進み、市街域を出外れると、如何にも北海道という田園風景が広がります。 うねった丘全体が畑です。


★美馬牛
富良野線の中央付近美瑛南にある美馬牛駅が最初の目的地です。

田中邦衛さん主演の長編ドラマ『北の国から』ロケに使われた美馬牛駅です。 ローカル線標準仕様の様な駅舎で、当然無人駅です。

駅舎前1番線が旭川方面、御覧の様に富良野方面2両分+αの完全オフセットホームが踏切で繋がってます。 左端に貨物側線が残ってます。

北海道の地名は難読が多いですが『びばうし』と読みます。

この駅に来たのは時刻表で解る様に朝6-8時台に列車交換がこの駅で行われるからです。

富良野方面ホームから駅舎ホームを見ると、こんな感じです。

立入禁止看板がなかったので線路脇を歩いてゆくと、貨物側線分岐は遺構ではなく、遠隔操作可能モーター付きでした。 除雪/保線車両が現在も使ってるのかもしれません。

発車時間8分前に富良野行列車がやってきました、降車客ゼロ、乗車客1人だけでした。

旭川行列車が姿を現したのは発車時間2分前、降車客はゼロでしたが乗車客は4人、高齢者が多かったので、美瑛か旭川への病院通いでしょうか。

8:37同時発車、いずれも2両編成、美馬牛駅取材終了です。


★富良野/幾寅
次のナビ目的地は富良野ワインレストラン駐車場、営業開始前に小高い丘の上から空知川橋梁を渡る列車狙いですが、ダブルミスをしてしまいました。 アホさ加減はこの後で。

 

美馬牛から国道に戻る道の両側もこんな感じで『北海道に来たな』と実感できました、本州とは風景のスケールが全く違います。

最初のミスは目的地、富良野ワイン工房レストランに向かってました。 ナビにワインレストランが入ってなく勘違いでした。 『目的地周辺です』にキョトン、通りかかった軽トラ小父さん(筆者同世代)に市の施設で数キロ行き過ぎたと教えられ戻りましたが・・・。


写真は富良野手前の脇道です、あるべき物がありません、路端を示す矢印標識または赤白ポールです。 地元民の生活道路なので、両側の電柱で代用してるのでしょうか。

富良野発10:01列車に間に合いそうになく、丘の麓の鉄橋脇に陣取りました。 10:03頃通過予定なのに来ません。 10:10に諦めてこの写真撮って幾寅へ向かいました。 2番目ミスは2月末に5月日付けで計画した事、3月のダイヤ改正が計画に反映されてなかったのです。 先行程分をその夜調べると、釧網本線の減便や数分の時間変更など結構ありました。

富良野から新得方面に向かった場所で、まだ富良野盆地内です。 根室本線この区間は水害不通でバス代行輸送になり、復旧せずに廃線が決まり、今年3月廃線になりました。 踏切レール上に柵が作られたのは廃線決定時からの様で、廃線後ではなさそうです。

廃線2ヶ月後だからなのかレールはまだ撤去されてません。

10:45幾寅着、停車中バスは代行バスではなく観光バスです。 廃線により完全な観光地になってます、富良野-帯広間に他に何もありません。

駅名標は幾寅でなく幌舞です、今年3月の廃線で幾寅は廃駅ですから辻褄は合ってます。

映画セットのだるま食堂がそのまま残ってます。 それにしても先頭部分切ったキハ22のモニュメントは何の意味があるのでしょう。

旧幾寅駅舎は『ぽっぽや記念館』と化してます。 現在は入場無料ですが、これからどうなる事か、維持管理には金が掛かりますからね。

これが記念館入口、『幌舞』とは実際になくても100人中95人以上が北海道の駅を連想する上手いネーミングです。

高倉健さんが身に着けた衣装・小物も展示されてます。

美寄は名寄と美深を合成した架空駅名ですが旭川は実在、すると幌舞駅は宗谷本線の想定なのかもしれません。

 

富良野方から狩勝峠方面の眺めです。 50年前には交換施設があり、上下一方の急行『まりも』が真夜中に停車してました。 運転停車で良かったのに客扱いしてました、つまり幾寅は急行停車駅だったのです。


★新得・タウシュベツ
幾寅から狩勝峠を越えて十勝に入りました。 旭川から1日で釧路は遠過ぎ、帯広では時間が余ります。 そこで見てないタウシュベツ橋梁に足を伸ばす事にしました。 渇水期しか見えない、+3時間強で水没ではガッカリですが、当って砕けろの下調べなし突撃です。

新得の立寄り場所到着予定5分前、丁度正午に蕎麦の里がありました。 そう言えば十勝/日高は蕎麦の産地です。 天ザル大盛¥1,900は少々高い物の、味は70点の良でした。

50年前の北海道はD51と9600王国でした。 新得SL広場に保存されてる9600です。 昭和13年製の後期グループで新得で9年間活躍しました。

キャブ内にカメラを差し込んで撮影した1枚です。 静態保存蒸機の中では良く原状を留めてる方です。 写真多数撮りましたが、紹介する余裕ありません。 静態保存場所は狩勝峠から十勝平野に下って来る石勝線脇でしたが、撮影予定特急は来ませんでした。

この9600はナメクジドームの変わり種です。 鉄道P誌9600特集にも載ってませんでしたので、相当特殊な個体だと思います。

ナビ指示ルートの然別湖左岸ルートです。 湖岸をウネウネトレースする狭い道で平均速度30km/hです。 結果的に少し遠回りして右岸側の広い直線道路を70-80km/hで走れば早く着けました、単細胞脳ナビなので仕方ありません、それでも新得から1時間半でした。

駐車スペースから300mほど歩いた展望台から望遠で撮影しました。 最悪水位が高く水没してる可能性もあったのに実にラッキーでした。

土曜日だったからか、駐車スペースには常時4-5台が停まり、熊除け鈴不要でした。 説明板によると、6月-10月完全に水没とありますので、日程選択が良かった様です。

直線距離約700m、こちらは標準レンズ撮影です、5人並べば一杯になる狭い展望台です。

道路から展望台へ向かう途中で自然歩道を横断します。

コレ、どう見てもダム建設でタウシュベツ橋梁水没時に付け替えられた士幌線の廃線跡です、反対側も同じで道路沿いに伸びてました。

ナビを帯広に設定して、今度は然別湖右岸経由で向かう際、タウシュベツ橋梁を水没させた糠平ダムが見られました。 旅最初の2日は好天に恵まれましたが、12日(日)は雨降ったり止んだり、13日(月)は雨の予報で、特に13日は大事な日で困りました。


ではまた。

北海道遠征記 その1

ここの処、水曜日は工作記更新日でしたが、5月10日(金)に北海道遠征旅行に出発しましたのでその報告です。 今回の旅の目的は、学生時代に訪問した北海道の旧国鉄線(そのほとんどは廃線になってます)を再訪し俳句を詠む吟行が主目的、ついでに撮り鉄です。

羽田から旭川便なので、乗換え便利な新宿バスタ行高速バス利用です。 自宅を6時過ぎに出て、中央道原バス停6:21の便です。 運賃¥3,300、JRの約半額です、GW終ったのでコスト優先にしました。

朝の最低気温は放射冷却があり1℃、甲府までは快晴、残雪の甲斐駒ヶ岳(右)や南アルプス前衛鳳凰三山(左)が綺麗に見えてました。 調布から断続渋滞がありましたが、新宿バスタに15分遅れ9:20着、9:30発羽田行リムジンバスにギリギリ乗り継げました。

中央高速バスは200km弱、3時間弱で¥3,300、羽田行リムジンバスは20km弱、30分強で何と¥1,400のバカ高です。 距離・時間比例は難しいとしても¥1,000が妥当と思います。

羽田第二ターミナル10:05着、荷物預けるのでカウンターでチェックイン、保安検査通過したのが10:35、搭乗まで1時間半あるので、ANAビジネスラウンジへ行きました。

1990年代北米航空各社は全世界航空会社とアライアンスを組みマイレージプログラムを強化し、ユナイテッドはANAと組みました。 筆者が海外事業担当に変わり国際線利用が多くなった時期と重なり、2年目に『スーパーフライヤーズ』の案内が届き入会しました。

【羽田ANAビジネスラウンジ】
スターアライアンスゴールド資格で、全世界空港ビジネスラウンジ(あればの話ですが)の利用や優先搭乗のサービスが付いてます。 嫁さんと北海道旅行以来の利用です。

搭乗券にステータスが入力されており、入口でリーダーに翳すだけでゲスト1人と入場できます。 どんな物か話のネタに紹介して置きます。

空港内を見渡せる広いスペースに150-200席があります。 筆者の様に搭乗までの時間潰しも居ますが、半分以上はPC開いて仕事してます。

飲物は無料、ソフトドリンクの他に生ビールサーバーもアサヒとキリンがあります。 つい飲んじゃいましたが、4時間後にレンタカー運転するのを忘れてました。

ワイン、ウイスキー、ブランデーもあります。

愛煙家用喫煙室も、20人ほど座って吸えるスペースがあります。 入場後、中間、搭乗前の3回利用しました。

12:00頃の優先搭乗に合わせ11:50にラウンジ出たら遠い事遠い事、20分近く掛かりギリギリの最終搭乗になりました。 今回はバッグ預けたので問題ありませんが、持ち込む場合は優先搭乗でないと、小型機体荷室を占領するバッグ収納場所確保が難しいのです。

機体は737-700のお年寄、兄貴分の747が燃費が悪くとっくに引退したのに、まだ現役続けてるとは思ってませんでした。 天気が良かったので下北半島斧形がハッキリ見えたハズですが、F席しか見られずダメでした。 着陸10分前の窓からの風景です。

着陸しゲートへ移動しベルト着用サインが消えて30秒後の機内です、筆者は欧米式に座ってます。 米国国内線、例えばトレードショウ開催されるラスベガス⇔LA便でこの時点で立ってるのは日本人・韓国人・中国人だけです、せっかちアジア人種の特性の様です。


欧米人は自分の列の順番が来るまで座って待ってます。 彼等はおっとりしてるのではなく、合理的なだけで無駄な事はしないのです。

預けたバッグは最初の10個に入ってました、荷物も優先されるからです。 レンタカーカウンターで受付済ませ送迎車で事務所へ、これが1週間足になる相棒です、何とも乙女チックな外観で参りました。

ナビは予め下調べして約50地点目的地登録したパナソニック『旅ナビ』、電源用のシガーライターソケット付をリクエストしてありました。

最初の目的地は旭川-名寄間の和寒付近、禁煙車なのでタバコ休憩の際に大雪山連邦が綺麗に見えてました。

道央道旭川北IC-和寒IC利用でストリートビューで見つけたポイントへ。 広大な水田に水が張られ湖の様になってます。 途中手間取り、15:51通過の3分前に到着しました。

下り普通列車の後に上り特急が16:21にやってきました。 順光で傾いた夕陽が車体に反射してました。

北海道田園風景の中を特急が遠去かって行きました。

【東六線駅跡地】
次の目的地は8年ほど前宗谷本線乗車で通った東六線駅です。 旭川から稚内への移動で、旭川発名寄行キハ47単行普通列車で印象に残ってました。 古レール骨組みに古枕木乗せた粗末な1両分だけのホームと小さな待合室、仮乗降場と言える様な小さな駅でした。


ところがどこにもありません、100m以内民家に聞き回り、3軒目が在宅、2021年に近くの南比布駅・北比布駅・北剣淵駅と共に廃駅になり、今は跡形もないと解りました。 大赤字JR北海道は廃線に加え、駅の間引きも始めてます。 旅日記がしばらく続きます。


ではまた。

鉄道P誌1963年10月号 C61特集

鉄道P誌は蒸機全廃が既定路線にになった1962-1964年に、形式別の特集を組んでます。 早く消えそうな形式からで、最後がD51特集でした。 9600、C58は単独特集、D50/D60、8620/C50、C55/C57の様に兄弟形式一括特集もあり、C10/C11/C12も一括でした。

【鉄道P誌1963年10月号表紙】
国鉄旅客用大型蒸気トリオとしてC60/C61/C62一括特集になってます。 本来ならC59/C60特集と、貨物機改造のC61/C62特集に分けるべきで、C59特集がどうなったかと言うと、何と性格が全く違うC56と一緒に特集してます。 これもC10/C11本線用タンク機とC56/C12兄弟機に分けるべきでしたが、編集の辻褄合わせでC56/C59となったのでしょう。

【蒸気機関車スタイルブックより】
さて本題に戻り、C60は紹介済みなので今回はC61です。 国鉄蒸機60番台6形式は全て改造機で新製機はありません。 D形の3形式とC60は従輪2軸化で機関車重量を増やしながら動輪軸重を軽減して運用可能線区を拡げたのに対し、C61/C62は全く経緯が違います。

【同上】
国鉄前身の鉄道院・鉄道省時代から旅客輸送と貨物輸送比率は長らく6対4でしたが、第二次世界大戦中の軍需輸送優先でその比率が逆転以上の貨物輸送偏重状態で終戦を迎えました。 戦後復興で屋根やデッキにぶら下がった乗客を乗せた列車が走るほど旅客輸送需要が急拡大し、旅客輸送用機関車不足が深刻な問題になりました。

【同上】
新製する金がなくGHQ許可も得られない、逆にGHQから提案されたのが貨物用蒸機の旅客用改造でした。 ボイラー上回りとテンダーは流用、下回りだけで旅客用蒸機増備可能な案で、終戦注文キャンセルで在庫抱えて経営難に陥ってたメーカー救済策にもなりました。 同じ改造機でもC61とC62は大改造であり、現場からは新製機の評価を受けました。

【C60/C61最初の配属機関区】
C60とC61の配属機関区は重複し東北本線、常磐線、鹿児島本線の8機関区だけです。 ただし時間軸が異なり、C61が1947-1949年の短期間に33両改造配備したのに対し、C60は1953-1955年に17両改造して東北へ集中配備、残り30両の改造配備は1960-1961年と遅く、九州に限って見れば、C61はC60より12年も早く登場してます。


つまり、C61は旅客用機関車不足が深刻だった終戦直後に、旅客用新型機として現場に歓迎して迎えられたのに対し、C60は輸送力増強代替機として6-12年遅れて登場したC61より少し強力で少し大飯喰らいの形式だったと言えます。 C60登場後の2形式の棲み分けは明確でなく、共通運用例が多くあった様です。 それでは北から見て行きます。

東北地方初の特急『はつかり』運転開始時にC60が既に配備されてましたが、特急牽引機を務めたのはC61でした。 共通運用されてても特急牽引機はヘッドマークを付ける必要があるからかもしれません。

この『はつかり』画像もC61牽引です。 一瞬スイッチバック通過かと思いましたが、下の駅には架線柱が立ってるので、東北本線と仙山線の並行区間で手前は海の様です。

急行『いわて』は青森午後発、翌早朝上野着の夜行急行でした、青森をC61重連で発車とあり、一戸停車時にD51補機連結して奥中山越えをしてたのではないかと思います。

同じく急行『いわて』のC61重連、並行する国道4号線トンネル出口付近の車中からの撮影でしょうか。 雨天の様で、列車背後は防波堤、その先は陸奥湾です。

C61牽引の東北本線上野行急行と奥羽本線上野行急行のツーショットです。 撮影場所記載ありませんが多分青森駅です。 『おいらせ』は仙台まで営業の食堂車連結です。

当時の非電化路線急行はほぼ蒸気牽引の客車列車、ヘッドマークはなくデッキ脇の急行サボだけが目印でした。 列車名『あずま』は後に上野-福島間急行に使われましたが、この時代は仙台行にも使われてた様です。 それでは九州のC61に目を転じましょう。

『はやぶさ』牽引のC61、九州の花形蒸機で『あさかぜ』『さくら』もC59/C60進出まではC61の独壇場でした。

『はやぶさ』処女列車の西鹿児島駅出発式の様子です。 上空飛んでるのは新聞社取材セスナ機ではなく、翼形状からグライダーです。 市中心部にと???となります。

九州のC61写真は圧倒的に『はやぶさ』で、これはブルトレ化以降です。

写真が多いと色々な事が解ります、『はやぶさ』ブルトレ化は1960年7月20日でした。

C61ラストナンバー牽引の『はやぶさ』、でも撮影日間違ってます。 昭和33年10月運転開始で、昭和35年7月20日ブルトレ化ですから、一体何年の7月29日なのでしょうか。

C61『はやぶさ』牽引は博多まで、移転高架化直前の旧博多駅です。

C60『はやぶさ』牽引画像が残されてない事から、C61がその座を守り抜いた様です。

C61はC60配属後の1963年にも特急『さくら』を牽引してます。 九州のC61は全機ヘッドマーク用フックを装備してたそうで、C60配属後も共通運用で『さくら』や『かもめ』を牽引する事もあったのでしょう。

C61変わり種は門鉄デフ付き13号機、九州職場の1両は少ない気がします。 C61とは1966年最初の東北旅行秋田ー青森間及び青森駅構内、1971年だった思いますが、九州旅先で40日入院し帰京の際乗車した『はやぶさ』で接点があったハズですが記憶に残ってません。


ではまた。