Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

京王初代5000系の話

1963年、昭和38年は新型鉄道車両の当たり年でした。 国鉄では103系/115系/165系がこの年登場と言えば十分で、その後長年通勤区間、近郊路線、中長距離優等列車として活躍した車両達です。 私鉄では小田急NSE車登場もこの年でした。 

派手さは今一歩ですが京王5000系も1963年に登場してます。 この写真、京王沿線に33‰の急勾配あったかなと思ったら、調布-京王多摩川間の支線でした。 この支線は多摩川砂利採取路線として敷設され、後に競輪場ができ、更に相模原線として延伸されました。


★5000系誕生と背景
京王電鉄の古い資料を見ると、専用軌道路面電車の赴きで、木造ボギーポール集電単行電車の写真が掲載されてます。 戦後復興と経済発展により1950年代10年間で利用客は2.7倍に増加し、軌条・曲線改良や多連運転しましたが、追い付かなくなってました。

同社は1963年8月に架線電圧600Vを1,500Vに昇圧し、本格的都市近郊鉄道に生まれ変わりました。 同時に新宿駅地下化と跡地に京王百貨店建設を進めましたが、利用客アンケートでは、京王は『暗い』『地味』『のろい』のマイナス評価が多い結果でした。


これを払拭し『スマート』『明るい』『速い』イメージ定着を狙い登場したのが5000系です。 10月から運転開始した特急に充当されました。

裾の絞り込み、サイドに回り込んだ貫通式3枚窓の正面は、初期型153系(低窓型)に通じるデザインです。 前年登場井の頭線用3000とこの5000系が、同一会社ローレル賞連続受賞の快挙を成し遂げました。

片開き3扉ロングシート、車長18mの通勤型車両で、4両固定の5000系と2両固定の5100系が新造配備されました。

1968年増備車から冷房装備し、このタイプ車両で国内初になりました。

5000系は車両製造メーカー3社製造で、台車がそれぞれ異なります。

5000系特急は新宿-京王八王子間を10分短縮した40分で結び、当時の中央線国電の新宿-八王子所要時間51分に圧勝でした。 後年更に5分短縮しましたが、中央特快運転で差が圧縮してます。 高尾山方面行楽客を取り込む目的の北野-高尾山口間開業は1967年です。

筆者が知るのは1500V昇圧、5000系登場以降の京王帝都電鉄(1998年京王電鉄に改称)ですが、他の関東大手私鉄に比較し『暗い』イメージがありました。 沿線に競馬場/競輪場があり、ハンチング/専門紙/赤鉛筆小父さんの乗客が多かったからかもしれません。


★1964年の乗り鉄
当時本屋で立ち読みした鉄道関連雑誌にも、京王5000系が大きく取り上げられてました。 一度は乗ってみたいと出掛けたのは1964年秋だったと思います。 自宅から東横線で渋谷へ、渋谷-調布間の切符を買って明大前-調布間の5000系京王特急乗り鉄でした。

4連+2連の6両編成運転でした。 明大前-調布はノンストップ10分弱、運転台のある連接部通路で速度計を横目に景色を眺めてました。 桜上水で各停を追い越すと、辺りは武蔵野の面影を残す田園地帯に家がポツポツ建つ風景に変わりました。


千歳烏山通過後ノッチオンで加速、80km/hから見る見る増速し100km/h到達でノッチオフ、時速100km/hの走行感は実に爽快で、進行方向左手には仙川付近水田に実った稲穂の海が飛ぶ様に流れてました。


★名車の証明:地方私鉄で働き続ける5000系
1987年以降全体の4割を越える67両の5000系が地方私鉄に譲渡されてます。 MT2両編瀬の使い勝手が良く、耐久性が優れてたからです。

【琴電高松築港駅】・・・2022年11月撮影
一昨年末の四国旅行で高松築港-琴電琴平間で乗車しました。 30分毎の本線直通列車は全てこの形式でした。 隣の志度線電車は塗色変更もしない京急車両そのまんまです。

【一畑電鉄大寺駅付近】・・・2023年10月撮影
昨年10月初訪問した一畑電鉄では、急行電車として使われてました。 この付近には第4種踏切が数多くあり、自宅と水田を線路で分断され、軽トラや耕運機が渡ってました。

【伊予鉄地蔵町駅】・・・2023年10月撮影
京王から伊予鉄へ譲渡された5000系の一部は、更に銚子電鉄に譲渡されてます。 この写真の主役は右側にある『よろず屋』で、車両は横顔になってます。 現在の伊予鉄主力は同じ京王井の頭線で活躍してたステンレス車体の3000系になってます。

【琴電琴平線】・・・2023年10月撮影
昨年旅行で四国再訪、乗車しませんでしたが、如何にも讃岐平野らしいお椀を伏せた様な小山の前で琴平行を撮影してます。


この時代の鉄道車両は丈夫で長持ち思想設計なので、60年経っても元気で活躍してます。 国鉄はJR化後方針を大転換し、軽くて安く25年使えば廃車の使い捨て『ペラペラ電車』(造語です)しか作ってません。 私鉄車輛も右へ倣えだったのではないでしょうか。

【同上】
とすると、京王5000系/3000系、東急7000系/7150系など地方私鉄で活躍する3扉17-18m車が寿命を迎える10-20年後の地方私鉄にはどんな車両が走ってるのでしょうか。 筆者には関係ありませんが気になります。


ではまた。

県道駐車帯ほぼ完成!次は?

県道駐車帯は基台端で風景途切れてますが、石垣の下は谷で川が流れてます。 冬場は里から登って来た車が、洞門先トンネル出口の雪が深いと困るとチェーン装着場として使われますが、晩秋のこの時期は川対岸の山の紅葉が見事で駐車する休憩スポットになります。

駐車帯の転落防止柵はコンクリートタイプなのですが、在庫では不足し発注、洞門出口県道下風景製作準備に大きな石を接着固定しました。

小さな石に使う採石場ホッパーで使用した素材を探し回ってる間に荷物が届きました、GM鉄路柵グレーです。 送料無料なので1点でも良かったのですが、5月北海道遠征に備えて熊除け鈴も入手しました。


山行で使ってたカウベルの『コロンコロン』という低い音でなく、高い金属音で音量も大きい様です。 熊は高い周波数音をより警戒するのでしょうか。 『熊に金棒』の商品名を信じるしかなさそうです。

➊2本で丁度良い寸法にしたハズなのに何故か1スパン長さ不足です。
➋洞門側基準で長手方向に鉄路柵2本を立てて接着し、洞門側側面は紙粘土の穴に足を差し込んで接着しました。
➌長手方向1スパン不足分は長い状態で接着し、後で切断します。 隙間なく接着したつもりなのに写真では隙間、見えてないのは辛いです。
➍神社側側面にも鉄路柵を立てて接着し、長手方向の余分切断です。

風景全体バランス確認です。 転落防止柵はグレーのコンクリートで正解、茶色木製柵では浮いてしまいます。 強度も不足だしね。

駐車帯に混合砂を撒きました。 ドライブイン敷地より白っぽい砂利を撒いた想定で、砂の配合比を変え、少しムラをが出た感じを狙ったのですが、ムラが大き過ぎました。

駐車帯柵際に植物を接着作業する際に、混合砂を追加撒布してムラが許容内に収まる様に修正しました。 まあこんな感じでOKです。

大きな石だけだった洞門出口県道下は、洞門下と一体感のある風景にまとめました。 別々に製作して繋ぎ合わせたとは見えないと思います。

ただし雨が降った時だけ水が流れるルートを作ってあります。 手前を流れる川の水面は、基台端より約2m低い想定です。

県道洞門出口生垣脇と神社前ガードレール外の県道脇標識と、駐車帯神社側側面に両面看板設置予定ですが、破損防止で他の道路標識や電柱と一緒に最後に追加すれば完成です。

さて東基台は県道駐車帯までほぼ完成しました。 次は駐車帯先県道の手前をどうするかです。 中途半端なスペースで、設計図面を確認します。

ドライブイン擁壁寸法を間違えましたが、民家A位置はピタリ合ってます。 図面の県道下は洞門下と同じ河原上部のイメージで、傾斜地に木が生え岩がゴロゴロしてる風景です。 県道駐車帯は、同じ風景が続くのは面白くないと後から追加して製作しました。


幅を計測すると50-70mm、長さは250mmです。 一番手前の目立つ場所を荒地にするのは勿体ない、何か『らしい物』作れないかと考えました。

県道駐車帯もそうでしたが図面で設計しても思い付かない、現場を見て始めて出てくるアイディアが湧きました。 当社は鉄道模型レイアウトでありながら、鉄路と車両は脇役扱い、狭い場所に数倍の手間をかけ風景を作り込む楽しみ優先なので、全く問題ありません。


ここに小型水田を作る事にしました、民家Aの自家用米水田です。 こんな狭い場所に?と思われるかもしれませんが、当時はありふれた風景で時代を表わす効果もあります。

【農水省地域振興局資料より】
現在の水田は昭和末から平成初期に実施された圃場整備により、長辺100m以上に大型化され、機械化省力化して国際競争力向上を図ってますが、それ以前は小型で形も長方形とは限りませんでした。 レイアウトの水田についての解説を以下記事で公開してます。


★レイアウトの水田を実感的に!


この中で一番重要なポイントは、水田には必ず水の入口と出口があり水量管理できる事です。 おさらいになりますが、その方法には3種類あります。


1.用排兼用型灌漑

各水田の給水と排水を1本の用水路で行う方式です。 取水口用水路水位は水田に水を張る為、水田面より15-20cm以上高く、排水口用水路水位は水田の水を完全に抜く為、水田面より低い必要があります。 従って並列する水田間には30cm以上の標高差が必要です。

当社従来線17面水田は圃場整備前で、長手方向30m未満です。 用水路と取水口と排水口を設置した用排兼用型灌漑水田で、並列する水田間には3mm以上の標高差があります。


2.用排分離型灌漑

1-2%勾配以上の傾斜地なら用排兼用型灌漑可能ですが、それ未満の平地では水田間標高差が小さく水管理ができません。 八郎潟干拓で誕生した大潟村が代表例ですが、給水路と排水路2本の用水路を設けて水管理する方式です。 米どころ平野部で行われてます。


3.田越し灌漑

これらの灌漑方式に対し、江戸期に入り新田開発の為に用水路開削されるまで広く行われてたのが田越し灌漑です。 1ヶ所の水源から水田に水を引き、次々と少し低い水田へと水を使い回す方式で、水の出口と入口が一体化してます。 現在は棚田に使われてます。

【姨捨の棚田】・・・千曲市HPより
用水路不要で水利用効率が高いのが特徴ですが、一つの水源水田の農作業を同時に行わなくてはなりません。 村の共有田で村人総出農作業の時代には問題なくとも、明治以降水田が個人所有になり、田毎に栽培品種が異なったりする現在には向かない方式です。


県道下に作ろうとしてる水田は用水路のない田越し灌漑水田です。 地下水を貯めるマス(貯水槽)を水源にします、民家A自家用米水田なので同時農作業の問題はありません。 標高差の少ない棚田と言えます。 こうして構想練るのは天国、作るの地獄ですがね。


ではまた。

第8回鉄道写真コンクール入選作・他

前回紹介した鉄道写真コンクール入賞作品の続きです。

別号には佳作作品が掲載されており、特選/推選/入選/佳作までが入賞になる様です。 その他掲載された選外写真と個人的に気になる写真を合わせて紹介し1回分とします。


★入選『残雪』1963.03.17

前回最後が芸備線備後落合駅でしたが、またも備後落合付近の撮影作品が入選してます。 国鉄が手小荷物扱いをしてた当時、客車列車は短い編成でもハニまたはハユニを含むのが当り前でした。 単行DCの閑散線区では、手小荷物を客室内に積んでました。


★入選『機関車の夕食』1963.04.29

給炭台の作業風景、浜田機関区での撮影です。 推選の水戸機関区もそうでしたが、浜田駅構内も煙が立ち込め見通しが悪くなってます。 現在なら周辺住民から粉塵公害訴訟、元従業員遺族から労災認定の騒ぎになる処です。 給炭台前駐機蒸機は煙突形状と2つドームから8620またはC50かと思われます。 作業に加わってない左端の人は誰なのでしょう。


★入選『ある構内』1959.02.28

入換作業風景ですが、牽かれてるのは暖房車マヌ34に見え、罐を焚いてる様で煙を吐いてます。 撮影場所は米原機関区で???となりました。

【ウィキペディアより】
疑問を解消する為に調べると、米原-田村間が交直接続区間だった時代に、北陸本線優等列車停車時間節約の目的で暖房車が使われてたと解りました。 と言う事は大阪方牽引直流電機は多分EF58で蒸気暖房装置持ってたので、新鋭交流電機はなかった事になります。

【ウィキペディアより】
ついでに補足説明、路線通過貨車を除き、路線内で貨車入換作業する混合列車は、貨車に蒸気伝送菅がないので暖房車併結または客車にストーブを設置して暖房してました。 当時を知るのは高齢者のみ、若い世代は見た事もない話なので、あえて書き記しました。


★入選『北の径』1963.01.12

信越本線柿崎付近の撮影で、現在も雪景色撮影スポットとして人気がある様です。 左奥に日本海が見えてるハズですが、水平線が雪雲と一体化し、それと解りません。


★入選『眠る操車場』1963.06

操車場って田端?吹田?と思いきや何と新宿です。 構内灯が横に並んでる辺りが現在のバスタ、代々木方からの眺めです。 当時の新宿駅は埼京線も湘南新宿ラインも成田エクスプレスもなく、一番西側小田急寄り総武緩行下り線、現在の15番線が10番線でした。


中央本線1-4番線東側に山手貨物線と側線が7-8本あり、ホームから外れた代々木方はヤードになってました。 中央本線発着貨物と、鶴見/田端南北を結ぶ山手貨物線交点新宿で貨物入換作業が行われてた証です。 以下3作品は資料的価値込みの入選だと感じます。


★入選『碓氷新線開通』1963.07.15

横川方丸山信号所-熊ノ平駅間の撮影です。 手前が歯軌条の旧線、80系準急電車が走るのが新線です。 スナップにしか見えず、注目度が高い題材による入選でしょうか。


★入選『いこい』1963.05.17

明石電車区での撮影で被写体はクハ68です。 クハ68は鉄道省時代に51系電車の1員として製造された形式で、初の20m3扉セミクロスシートで、111/113/115系のご先祖に当ります。 新型車に追われ、大都市圏から姿を消す惜別が込められてるのかもしれません。


★入選『駅前電車』1963.04.27

大阪市内では地下鉄工事が進行中で、その影響により市電一部区間が廃止される事になりました。 大阪駅前から間もなく消える市電です。


★佳作『雪のスイッチバック』1963.03.10

箱根登山鉄道大平台駅の撮影です。 湿雪が降る箱根なので全員傘を差してるのが如何にもらしいです。 北海道や信州のパウダースノーが降る地域地元民は傘を使いません。


★佳作『スキー場の駅』1963.01.14

木次線三井野原駅の撮影です。 中国地方のスキー場と言うと大山が有名でしたが、木次線沿線にもあったとは知りませんでした。 当時のスキー板は現在より長く、高校スキー教室でレンタルしたのは210cmでした。 小さなレールバスにどう持ち込んたのでしょう。


★無審査『列車模様』1963.07.25

『無審査』と撮影日から類推すると、応募作だが〆切日に届かなかった作品と思われます。 紙焼きして郵便で送るしかなかった時代です。 速達で間に合い、筆者が選者なら入選にしたかもしれません。


山陰本線丹波口駅の撮影です、本線ポイントのS字を身をくねらせて通過する列車を屋根で表現してます。 駅構内水平でも、本線ポイントから上り勾配を示す標識や、前方踏切の遮断器を潜って列車撮影する撮り鉄さんの姿が写り込んでおり、好ましい作品です。


★選外『雪のホーム』1963.01.01

選外で掲載された数作品で気に入った1枚、上越線越後川口駅での撮影です。 一瞬165系急行『佐渡』と思いましたが、『佐渡』が電車化されたのは半年後です。 良く見ると80系電車で、年末年始運転の臨時準急かと思われます。 正月帰省先撮影かもしれません。


★応募作外『第2アルプス』1962.11.10

塩嶺トンネル開通前、中央本線が大八回りルートで運転されてた頃です。 塩尻から辰野への峠越えシーンで、この先にスイッチバックの東塩尻駅がありました。 2エンジン化されたキロ58 2両を含む8連です。 小淵沢で『八ヶ岳』、大月で『河口湖』を併結し、12連で新宿に到着します。 中央本線電化前、特急『あずさ』登場前の昔の話です。


★応募作外『名残の青山線』1963.09.15

都電10系統通称青山線は渋谷から青山通りを直進して突き当り半蔵門を左折、再び突き当たる写真九段上で右折して新宿方面からの路線に合流、神保町を直進し神田須田町へ至る路線でした。 写真の鳥居は靖国神社、1959-1961年の3年間、毎日曜日に小川町の進学教室に通い、10月1日都民の日に無料解放される万ぜ橋交通博物館へもこの都電利用でした。


ではまた。