Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

『にゅうせん』しました!

『にゅうせん』と言っても入線でなく、2023年NHK全国俳句大会で入選しました。 俳句を趣味とする人が目指す最高の舞台で、応募総数3万件以上/10万句弱での入選です。

2021年からの応募なので3回目の挑戦でした。 俳句を始めた以上何時かは全国大会で入選を目標にしてましたが、3年目に叶いました。

大会は毎年3月末で、前年入選作発表と当年の『題』が発表されます。 2023年は『平』でした、この文字を含む作品が題詠です。 題詠1句、自由題2句のセットで3万件以上の応募があり、10万句弱なる訳です。


応募は11月初旬締め切りで、翌年大会で結果発表されます。 予選があり、若手俳人が約5,000句に絞り込み選句し、これが入選作になります。 

俳句界の重鎮高野ムツオ先生、プレバト夏井先生含む10人の著名な俳人選者が入選作の中から、特選(1等賞)3句、秀作(2等賞)25句と佳作(3等賞)75句を選句します。 つまり応募作品の約95%は選者の目に触れる事なくゴミ箱行きになる厳しい大会です。


初年は自己評価でもゴミ箱行き、2年目はある程度自信あったのですが選外で、全国レベルの高さを痛感しました。 『今年もダメかな』と思い始めてた1月末に入選内定通知が届いた時は嬉しかったです。 自身未発表作品の確認と、当日まで非公開の誓約でした。

3月31日にNHKホールで大会が開催され、夕方には結果が公表されましたが特選だけで、0.03%、1/3,000に入るなんてハナから思ってません。

入選作品集が届いたのが4月3日、上位5%が入選、もしかしたら上位1%の佳作にでもの期待は空しくただの入選でした。 3句セットの応募なので、2句/3句入選される方も居ますが、4-5句入選はザラ、8-10句もポチポチ、中には20句入選された方も居て、認められてる複数応募で上位入賞を目指してる方が多いと解ります。 応募者数は3万人未満の様です。

入選した拙句です、高ボッチ高原から諏訪盆地の彼方に見える富士、その上に広がる夜空を詠んだ句です。 『銀漢』が季語で天の川の事です、広大無辺の宇宙と、ちっぽけな地球のほんの片隅に過ぎない第二の故郷の大小対比を意図した作句です。


自由題の2句はゴミ箱行きですから大きな事は言えず、スタートラインに立てただけ、結社内では昨年同人になり一定レベルに達したと認められましたが、今回の入選で公的にも認められたと感じてます。 複数句入選、更にその上を目指して研鑽を積むしかありません。


★昨年秋中国四国吟行句から
入選報告だけでは間が持たないので昨年の作句を少々。

山陰本線御来屋駅の景です。 北海道無人駅の廃車掌車待合室は珍しくありませんが、亜幹線3線駅には珍しいと句に詠もうと思いました。 『待合室』と『廃車掌車』は外せず、これで12音、『駅』も必要情報で14音、季語とまとめ方に悩んだ句です。


秋の季語『霧』を使ったのがミステリアスな雰囲気を与える効果があり、提出した句会でも良い評価が得られました。

画像は太田市付近ですが、初訪問石見銀山麓の大森集落も石州瓦の家並みでした。 『ちちろ』はコオロギの事で秋の季語になります

小雨の中おろちループから見下ろせる日に2本しか運転してない木次線撮影した経験を詠んだ句です。 『爽涼』は爽やかな涼しさの意で秋の季語になります。 道路は立派でしたが人家がほとんどない人里離れた山の中で、中国山地の奥深さを感じました。

土讃線吾桑(あそう)駅の景です。 駅前の自転車は多分須崎の高校に通う生徒の物です。 訪問時間は15時半頃でしたが、後2時間もすれば部活で帰宅が遅くなる生徒の自転車だけがポツンと取り残されてるだろうと推定した作句です。 映像効果を上げるタイムシフトは、俳句の世界で認められた常套手段で、見たままを詠むとは限りません。


何でもブログネタにと恐る恐る俳句ネタを公開しましたが、鉄道・旅関連に絞ったのが良かったのか、あるいはプレバト夏井先生効果で関心が高いのか、結構なアクセスをいただいてます。 それに気を良くし、今後も折に触れ紹介しますのでよろしくお願いします。


ではまた。

敷地造成と県道下石垣の製作

自分で仕事増やして忙しがってるのだから世話はありません。 県道に石垣作り、紙粘土で傾斜地にして草を生やし、適当に樹木や岩を配置すれば1週間で完成するエリアに、田越し灌漑小型水田を作る事にしました。 現在では耕作放棄されてまず見られない風景です。

施工エリアは北基台が露出してます。 北基台高は手間を流れる川の下流川底で決まっており、この場所の川水面高はおよそ10mmです。 基台に下駄を履かせないと、石垣や水田の製作法検討ができません。

下駄用に選んだのは基台製作に使った1x4端材です、厚さ20mmあります。 現場の採寸して廻し鋸で切り出しました。

こんな具合に基台に乗ります。 左端は県道駐車帯に潜り込み、手前は基台端ダークグリーン板紙に接する位置です。 接着固定して問題ないハズですが、先工程検討後にします。

県道固定設置、駐車帯製作開始時の構想では、神社側石垣は左側赤線まで、その先は石垣不要傾斜地で基台端に至る予定でした。 しかし水田を作るとなると、右側赤線部も石垣にしないと広さが取れません。 両赤線石垣は角度が違っており、その間には紙粘土で埋められない黄四角の穴が空いてます。 予測不能の計画変更で問題が次々と出てきました。

長い石垣を直線的設置可能な様に、ドライブイン&神社ユニットベースの不要部を除去しました。 工作用鋸使えるスペース余裕がなく、ニッパー喰い切りとヤスリ仕上げです。

削りカスを掃除し1x4端材ベースを置きます。 穴塞ぎと石垣角度出し兼用スタイロフォーム片を削り出してセットし様子見してる処です。

素材全長を使い石垣材を作りました。 ベースに接する下辺は直線ですが、県道傾斜に合わせて上辺は民家A右側が2mm低くなってます。

ベースに仮置きすると直線の石垣になりました。 県道と完全に平行ではなく、駐車帯側が2mm広い直線です。 この変更で駐車帯神社側石垣削り込み部とピタリ合わず隙間ができます。 下部は手前に配置する貯水槽で隠れますが、上部は出たとこ勝負で考えます。

ここでベースとスタイロフォーム片を接着固定しました。

素材長で決まった石垣をブツンと終わらす訳にはいきません、不自然な風景になってしまいます。 地形をイメージして袖石垣で帳尻合わせする事とし、接合部を削り込みました。

袖石垣を削り出しました。 設置は先になりますが、塗装とウェザリングは同時に行った方が統一感が出るからです。

晴天日に駐車帯と同じ百均調達グレースプレーを吹きました。 この状態でウェザリングですが、古びた石垣にします。 この石垣は数十年前の県道整備時に築かれ、一方駐車帯は十年ほど前の県道拡幅舗装工事で築かれた。 その時間差を石垣で表現するお遊びです。

石垣は築かれてから補修は行われますが清掃はまず行われません。 苔が生え時間と共に黒ずんできます。 グレーの地色が解る範囲で、全体をダークグリーン系に振り、土の汚れを付け古びた感じにしました。

駐車帯石垣接合部と角度出しスタイロフォームに瞬着を塗って位置決め接着、その後石垣下辺とベース接触部に瞬着を十分流しガッチリ接着固定しました。 この部分は地中に隠れるのではみ出しても大丈夫です。

新旧石垣接合部はこんな感じになりました。 色味の差を意図的に大きくしましたが、実際はどうなのか良く解りません。 県道側石垣が奥に移動したので、接合部に2-3mmの隙間ができてます、貯水槽置いて隠すにしても上部の隙間は何とかしなくてはなりません。

固定した石垣と県道の隙間に紙粘土を詰めました。 右端の袖石垣は仮置き様子見です。

接合部の隙間を目立たなくする為、微量の紙粘土を詰めました。 グレー系塗装でOKならヨシ、気になる様なら植物配置してマスクします。

紙粘土が乾燥して固まったらフラットアース塗装です。 いつもながらこの色塗ると風景に溶け込み目立たなくなるのには感心します。

石垣隙間に詰めた紙粘土にはニュートラルグレーを塗りましたが、遠近感の狂ったポンコツ目玉で筆先が滑ってますし、明る過ぎです。

同じ場所の写真が続き恐縮です。 県道と石垣間の短い斜面に3種混合砂を撒き、植物茂みを作りました。 茂みはガードレール足穴が合わず切断して不自然になった部分を隠す様に配置してます、ボロ隠し兼用です。

紙粘土色塗り失敗した接合部は補正塗りして誤魔化しました。 何とか県道沿いの石垣が完成しました。 次は一番苦手な細かい工作です。


ではまた。

60年前の鉄道P誌 1963年12月号

今回は鉄道P誌1963年12号単独掲載記事の紹介でテーマ性ありません。

【鉄道P誌1963年12月号表紙】
表紙は青大将『つばめ』色に塗られたコンテナ特急貨物列車『たから』号です。 貨物輸送市場をトラックに奪われ続けてた国鉄の挽回策でしたが、期待効果はありませんでした。


1.ある期間助手
1ページだけの記事です、国鉄広報部が企画し岩波映画が製作した安全輸送PR短編映画が、複数の賞を受賞してます。

安全輸送PRが目的なので、乗客から見えない場所で、国鉄職員が安全輸送を支えてると紹介する事が目的になります。 蒸機の機関助士とは『汽車の罐焚き』で、安全輸送と言うよりは定時運行を支えてた存在でした。

戦前戦後の小説家・詩人中野重治に『汽車の罐焚き』という小説があります。 戦前北陸本線での実体験を基に書かれた小説で、仕事の厳しさが解ります。 右手シャベルで石炭を掬い、左手で火室扉を開けて右手スコップを火室に差し入れて手首を捻るのです。


手首を捻るのは火床全体に石炭を撒いて均す目的で、連続上り勾配区間では、制帽顎ひもに濡らした手拭を挟んで鼻と口を覆い、数十分間連続で給炭作業を続けるのです。

航空便の副操縦士は機長を目指す見習いパイロットですが、蒸機の機関助士が将来機関士になる事例はあっても、見習い機関士ではなく完全な分業制でした。 蒸機はキャブに2人乗務しないと走れなかったのです。 当然、仲間意識や相棒の意識はあったにせよです。

映画にはこんなシーンもあった様です、安全輸送を支える縁の下の力持ちには保線区員の方が適切だったでしょうが、華がないですからね。

動画で見れば明らかですが、この写真でも右手のスコップを火室に差し込んでから手首を捻り、火床全体に石炭を撒いてる様子が解ります。


2.高森線
2番目は九州の飛びっきりのローカル線高森線訪問記です。

著者は九州国鉄路線のディーゼル化が進み、全列車蒸機運転路線が少なくなったと書かれてます。 高千穂峡観光の帰りに熊本へ向かう途中で高森線を訪問されてます。 高速道も道路整備もされておらず、阿蘇外輪山の高森峠を七曲りと呼ばれる道で越えてた時代です。

高森線は広大な阿蘇カルデラ西端の立野で5岳北を通って大分へ向かう豊肥本線から分岐し、5岳南側を通って高森町に至る盲腸ローカル線です。 鉄道敷設計画段階では、高森から高千穂まで延伸して延岡まで結ぶ予定でしたが実現しませんでした。

1面1線ホームに機廻し線の典型的終端駅で、C12が走ってた線区です。 高千穂から高森へのバス乗客で高森線に乗り換えたのは著者1人、他の乗客は熊本行バスに乗り換えたそうで、この時代に九州の片田舎にまで自動車交通発達の波が及んでたと解ります。


オハ35系2両を従えた116レ、この編成が日に5往復します。 117レ/118レが混合列車になり貨物輸送を担当してました。

高森線は廃線せず第三セクター南阿蘇鉄道として生き残り、2016年熊本地震で大きな被害を受けました。 トンネル亀裂や橋脚破損で不通が続き、2018年から5年の復旧工事が行われ、昨年7月に全線復旧しました。


震災等激甚災害の指定を受ると国費(税金)で被災地の復旧復興が行われますが、集中豪雨被害は激甚災害指定がなく、復旧は所有者と自治体任せになります。 個人的には南阿蘇鉄道復旧より米坂線復旧の意義が高いと思うのですが、米坂線は廃線宣告待ちの状態です。


3.中国山脈越え
タイトルは高森線訪問記と連番ですが著者は異なり、鉄道P誌編集部がシリーズの様に番号を振った様です。


それにしても『蒸気車』とは変な言葉、『蒸気機関車』または『蒸気機関車牽引列車』の略語として使ってるのでしょう。

『中国山脈越え』のタイトルが示す通り陰陽連絡各線で活躍する蒸機牽引列車のお話です。 三江線全通前で予定線になってますが、倉吉線終点山守から姫新線勝山への延伸計画があったと解ります。 上郡-智頭間は智頭急行線として、京阪神と鳥取を結ぶ動脈として実現しましたが、元は国鉄路線としての敷設計画だったのでしょうか、良く解りません。

著者は大阪以西への新幹線延伸を見据え、今後伯備線の重要度が増すだろうと予測してますが、陰陽連絡線で唯一電化され予測が的中しました。

C56がオハユニ61 1両だけを引く木次線列車は、旅客・手小荷物・郵便全ての機能を持ってます。 C56次位にトムとワフ連結した混合列車ならオールマイティ列車になります。

著者はまた、この時点では東北奥中山や板谷峠、北海道に集中してる鉄道写真家達が近い将来中国山脈越えに集中するのではと予測してますが、これも的中しました。


3月下旬のニュースで庄原-備後落合-新見間の芸備線が廃止前提で地元協議が開始されたとありました。 中国地方中央部を東西に結ぶ芸備線は沿線に中国自動車道が開通して以降、交通機関としての存在意義が大きく低下しており、止むを得ないのでしょう。 となると木次線南部も同時に廃止されるのは間違いなく3段スイッチバックも姿を消すでしょう。


4.東急田園都市線延伸計画宇
この年1963年10月に東急田園都市線溝ノ口-中央林間間の第一期工事溝ノ口-長津田間の起工式が行われてます。 1966年6月開業予定で、2年8ヶ月の工期です。 東急は1960年2月~1961年12月の1年10ヶ月で、はるかに長距離の伊豆急を建設開業した直後でした。

起工式会場の道標に登戸5km、長津田3kmとある事から、青葉台付近、参列者の便が良い国道246号線近くで開催された様です。

田園都市線開通前の沿線は、西北西と東南東を並行して結ぶ国鉄南武線と横浜線、両線とほぼ直角に交わり北東と南西を結ぶ東急東横線と小田急線に囲まれた開発から取り残されたエリアでした。 国道246号線沿いの目ぼしい街は元石川(多摩プラーザ付近)しかなく、国道から一歩入れば田畑や養鶏場など『隣のトトロ』の世界が広がってました。

工事完成予想図が掲載されてます。 田園都市線と改称される前の大井町線二子玉川駅は地上2面2線駅で、246号線多摩川橋を単線併用軌道で渡ってました。 渋谷-二子玉川間の路面電車玉川線、通称玉電廃止地下鉄化計画に合わせ高架2面4線乗換駅に改修されました。


新玉川線開通後、長津田から新玉川線直通運転が行われてこのルートが田園都市線になり、大井町-二子玉川間は、大井町線⇒田園都市線⇒大井町線と改称が繰り返されました。 なお当時は東急経営二子玉和園遊園地が閉園前で、二子玉川園が駅名でした。

二子玉川駅改修と複線多摩川鉄橋架橋に合わせ、二子新地-溝ノ口間も高架化され、徒歩数分離れてた国鉄溝ノ口駅と立体交差になり、乗換えの利便性が向上しました。

  

長津田駅は国鉄横浜線に並行した島式ホームの形になりました。 中央林間までの延伸が決まっており、立体交差高架駅の選択もあったハズですが、長津田から田奈弾薬庫跡地にできたこどもの国への支線と、その途中に建設予定車両基地により地上疫になりました。


この記事掲載1年半後、開業前田園都市線沿線の実地踏査を高校の部活で実施し、筆者撮影スナップと共にブログで2016年に紹介してますので、再掲しておきます。

溝ノ口-梶ヶ谷間の多摩川河岸段丘を潜り抜けるトンネルです。 開業20年後の1980年代末にはトンネル上の丘にビッシリ住宅が建ってました。

梶ヶ谷-宮崎台間の谷を渡る高架です、見渡す限りの田園風景でした。 車が走ってる高架下の片側1車線道路が当時の国道246号線です。

宮前平駅です、10年ほど前に写真撮影場所を確認しようと再訪しましたが、道も付け替えられており全く解りませんでした。 坂を下った右奥のわらぶき農家で、東急が1953-1954年頃一帯の土地を買い漁り、その時¥500/坪が開業直前のこの時すでに100倍の5万円/坪の話を聞き、『鉄道錬金術はすごい物だ』と感心した事を懐かしく思い出します。


1978年結婚して新生活をスタートしたのが1駅先の鷺沼、抽選に当たって百合丘公団住宅転居後は、宮前平鉄橋下を毎朝通って通勤してたなじみ深い土地です。 ブログで知己を得たoomoriさんは、この近くで子供時代を過ごされたと伺ってます。


ではまた。