房総の鉄道 Vol.2 民営鉄道と国有化
シリーズ2回目は房総の鉄道網形成の歴史です。
総
【タイトル画像】・・・房総西線 江見付近 1966.01.08
前号で触れませんでしたが、房総西線江見駅は終着安房鴨川近くの外房側に位置し、後方の海は東京湾でなく太平洋、冬でも霜が降りる事がない常春の地です。
★総武鉄道
総武鉄道については前回、両国駅・千葉駅の項で紹介しましたので、おさらいです。

1894年(明治27年)本所駅(現:錦糸町駅)-佐倉駅間開業と書きましたが、同年7月開業時は市川までで、12月に江戸川を越えて武蔵の国に達し、社名通りの総武鉄道になってます。 開業経過は、千葉を中心に東京と漁業・醸造業が盛んな銚子に向け敷設されてます。
★成田鉄道
総武鉄道が成田を経由せず銚子に向かったので、成田山新勝寺参拝客輸送目的に、総武鉄道に遅れる事2年1896年に成田-佐倉間を開業しました。

その後、利根川南岸を銚子と連絡する成田-佐原間を開業し、首都圏からのアクセスを総武鉄道に押さえられてる事を嫌い、成田-我孫子間を開業しT字型路線網を築きました。 1907年(明治40年)鉄道国有法により総武鉄道は買収・国有化されましたが、成田鉄道はこの時国有化されず、国有化され鉄道省成田線になったのは1920年でした。
下段の久留里軽便鉄道は、成田鉄道と無関係の県営鉄道で、関東大震災発生日付で国に無償譲渡され、鉄道省久留里線になりました。 7年後に1067mm軌間に改軌されてます。

総武鉄道・成田鉄道2社で千葉県北部の鉄道網が出来上がった歴史を見て来ましたが、房総半島内鉄道網はどの様に建設されたのか見て行きます。
★房総鉄道
このエリアに鉄道敷設したのは房総鉄道で、1896年(明治29年)蘇我-大網間を開業し直後に蘇我-千葉間開業で総武鉄道と接続してます。 この房総鉄道千葉駅乗入れ時の線形が、後の国有化・直通運転開始時に、進行方向逆転原因になりました。

1894年-1896年の3年間に3社が房総の鉄道網を開業してます。 徒歩・籠⇒鉄道による遠地移動手段入手と、蝋燭・行燈⇒電灯による明るい夜の獲得は、実感できる文明進歩で、全国的に鉄道建設ブームが起きてた時代でした。
房総鉄道は九十九里海岸沿いの鉄道敷設を優先し、大網から南へ大原まで北へ東金まで延伸開業し、1907年(明治40年)鉄道国有法により総武鉄道と共に国有化されてます。 房総鉄道は蘇我-東金と大原-東金を直線で敷設した為、この時代の房総東線列車は大網駅で進行方向逆転の必要があり(後の改修で解消)、旧千葉駅と同じ問題がありました。
★国有化以降(大正期)
国有化した鉄道省最初の仕事は、内房側鉄道敷設と、房総鉄道終着駅東金から総武本線成東間を延伸開業し、千葉-銚子間のバイパスルートを作る事でした。

無鉄道地帯だった内房側の鉄道建設速度は速く、1912年蘇我-姉ヶ崎間開業に始まり、5ヶ月後に木更津、1916年に浜金谷、1918年に半島先端に達し、1925年に太平洋側安房鴨川まで開業しました。 外房側は大原-勝浦間延伸開業に留まっており、内房優先でした。
大正末年に総武本線と常磐線を結ぶ貨物専用線新金線が開業してます。 何故成田鉄道だけ国有化が遅れたか不明です。 鉄道国有法成立で他社は有無を言わさず取り上げ、成田鉄道だけ13年遅れには政治的圧力でもあったのでしょうか。
★消えた軽便鉄道
国有化され東金-成東間延伸開業後、東金-上総片貝間8.6kmを結ぶ軌間762mm九十九里鉄道が1926年(大正15年)に開業しました。

【九十九里軽便鉄道の列車】
キハ104+ハニフ106+ハフ107の編成、小さなガソリンカーがこれまた小さな客車や貨車を牽いて運行していました。 1958年の撮影です。

【同上 家徳駅】
ラッシュ時には長大編成も運転されてましたが、家徳駅はその後交換施設を撤去され、全線1区間終端駅以外無人駅となり、バス路線に負けて1961年廃止されました。 九十九里鉄道は買収・国有化して片貝線にする魅力も必要性もなかった様です。
★残った軽便鉄道
1912年(大正元年)県営軽便鉄道として木更津-久留里間開業し、1923年無償譲渡で国有化された久留里線は、1930年1067mm改軌され現存してます。 JR東日本千葉支社管内唯一の非電化路線です。 消えた九十九里鉄道との違いは民営・公営の違いだけ、千葉県の無償譲渡を断れず、赤字廃線もできず、千葉県が国に赤字路線を押し付けた形です。

【ウィキペディアより】
その後、1939年(昭和11年)久留里-上総亀山間延伸開業し、戦争中に不要不急路線として運転停止、戦後営業再開してます。 現在久留里-上総亀山間がJR東日本の一番不採算路線で、2020年度の営業係数(100円の収入を得る為の経費)は17,250円であり、60年前日本一の赤字線美幸線の3倍に達しており、地元とバス置き替え協議が始まってます。
★国有化以降(昭和期)
房総の鉄道建設時代だった大正期に対し、昭和期は近代化と輸送力増強時代でした。

1929年(昭和4年)上総興津-安房鴨川間延伸開業で房総東西線が接続し、房総環状線が完成しました。 1932年の両国-御茶ノ水間延伸開業で都心乗入れは前回解説しました。 1958年開業の小名木-越中島間は貨物専用線です。
鉄道省は大原から大多喜を経て上総中野間に木原線を1930年-1934年に敷設開業してます。 小湊鉄道は1913年五井-安房小湊間鉄道敷設免許を取得し、五井から3期に分け1925年-1928年に上総中野まで延伸開業しており、半島横断路線が形成されましました。

【木原線運転ダイヤ 1964年9月】
木原線は国鉄民営化翌年1988年に第三セクター化されていすみ鉄道となり、小湊鉄道と共に現存し営業中ですが、これより先に『夷隅軌道』と言う鉄道が存在しました。
★夷隅軌道
夷隅(いすみ)は千葉県中南部の郡名であり、河川名でもあります。 江戸期10万石城下町だった大多喜が政治・文化の中心の地域で、郡役所・警察署が置かれてました。

【木原線キハ07が表紙です】
房総鉄道が1899年大原まで延伸開業しましたが、国有化後も海岸線沿い鉄道建設優先され、半島中央部大多喜に文明の証『鉄道』敷設計画はありませんでした。 大多喜町有志は文明からの置き去りを恐れ、県知事に県営軽便鉄道敷設を働き掛けました。

1911年大原-大多喜間軌道敷設免許を取得し、609mm軌間の軌道が敷設されました。 翌年末に費用を抑える為『県営人車軌道』として開業しました。 自重450㎏の客車に乗客8人を乗せ、車夫2人で押す路線で、大原-大多喜間16kmの所要時間は2時間半でした。 貨幣価値換算運賃は8千円と高額でしたが、大多喜から東京へ鉄道で行ける様になりました。

人車軌道路線は平行する県道併用区間が多く、後の木原線とは異なってます。 途中3ヶ所の勾配区間では補機の助っ人が加わったそうです。 開業以来の赤字続きに財政負担軽減を図った千葉県は、1919年に民間に3万円で払い下げ、民営軌道になりました。

民営化だけで経営状態が改善する訳はなく、短期間に経営者が替わりましたが、何代目かの先見の明がある経営者が1922年(大正11年)『動力変更申請』を行い、気動車導入で成功を収めました。 1922年試験導入ガソリンカーは国鉄より7年早い日本初でした。

【気動車化後夷隅軌道運転ダイヤ】
その後3両増備し1924年に人力から気動車運転へ移行し、所要時間1時間にスピードアップされ、黒字転換しました。 しかし好事魔多し、大原-大多喜間バス路線開設で競争激化し、1922年公布の鉄道敷設法で木更津-大多喜-大原間が予定線になりました。

夷隅軌道は木原線着工前日1927年8月31日で営業終了し、同年11月8日付けで鉄道省に買収され会社は解散しました。 夷隅軌道も房総から消えた鉄道の一つでした。
★新線建設と線増による輸送力増強
東京-千葉間の通勤通学需要は、市川・船橋・習志野各市郊外・埋立地に次々と住宅が建設され急増してました。 その状況に対処する国鉄の方策は総武本線複々線化・地下鉄5号線相互乗入・京葉線開業の3点でした。 総武本線複線化は錦糸町から地下化して東京地下駅に至るルート着工しており、1971年津田沼まで、1972年千葉まで完成予定でした。

地下鉄5号線東西線は中野-竹橋間開業直後で、西に荻窪・三鷹複々線化に伴い相互乗入開始し、東は西船橋まで延伸開業して相互乗入開始予定でした。

西船橋まで全線開業計画は、東陽町が終点折り返し駅の期間を経て1973年度でした。 またこの時代に工業・住宅用地造成を目的とした東京湾埋立進行で船橋・稲毛から見えた東京湾が数キロ先に移動しベイエリアが形成され始めました。

【京葉線路線図】・・・ウィキペディアより
京葉線は武蔵野線と合わせ東京外環状線の一部として計画されましたが、京葉ベイエリアの生活路線・総武本線バイパス路線の機能を発揮できる様に計画を修正して1973年部分開業し、1990年全線開業しました。
★房総の電化
房総の電化が遅れた理由は、首都近郊でありながら千葉まで時間が掛かり、千葉以遠は通勤通学圏と国鉄が認識してなかったからです。

1935年千葉まで電化後30年間電化進展なし、1965年末に千葉-館山間電化起工式が行われ、千葉以遠電化が始まりました。 その後前項施策等で千葉の時間距離が短縮し、千葉以遠の電化・複線化も進み、現在は木更津・大網白里・佐倉まで通勤通学圏になった様です。
なお新東京国際空港建設地の成田決定は1966年7月であり、その後の房総の鉄道、総武本線と成田線に大きな影響を与えました。 開港直後の1978年12月に人生初の海外出張で成田からシカゴへ飛びましたが、空港アクセスについては何も記憶に残ってません。
ではまた。