鉄道P誌 1964年9月号 C59特集
鉄道P誌1964年9月号からC59特集を紹介します。
【鉄道P誌 1964年9月号表紙】
本来ならC59/C60特集として特急ヘッドマークを付けたC59が表紙を飾る処でしたが、C56にその座を譲ってます。
【1963年版 蒸気機関車スタイルブックより】
国産初の特急牽引蒸機C51の後継として1928年から三機筒機C53が製造され就役してましたが、複雑な構造で整備に手間が掛かり、現場の評判は芳しくありませんでした。 軍事物資と兵員輸送が急増した昭和10年代前半、輸送力増強を迫られた鉄道省は、G53増備の替わりに二気筒で十分高出力を得られる見通しが立ったので、C59の開発新製を選択しました。
【同上】
G59は1941年-1943年に100両製造されました。 ボイラーはD51より一回り大型、足回りはC57と同じ構造ですが、シリンダーが大型化されてます。 その結果機関車重量80.3t、軸重16.2tと新製時最大になりました。
【同上】
戦後1946年、1947年の増備73両は、C57三次/四次型と同じく新技術が適用されてます。 筆者世代でC59に馴染みがあるのは西日本在住者で、C60は見てますがC59は見てません。 幹線用蒸機の宿命で、電化の進展により西へ西へと追いやられたからです。
【1944年3月末C59配置表】
100両の最初の配置機関区は全て東海山陽道です、1940年代に生まれ1950年代は花形、1960年代に入ると人気急落の短寿命スターの様な性格がC59にはあります。
それではC59が東海道本線で主役を張ってた頃から見ていきましょう。
昭和25年、1950年は筆者生年74年前です、特急『はと』牽引のC59絶頂期です。
当時の名古屋駅は平面駅で、地方県庁所在地駅程度にしか見えません。 駅舎ホーム1番線上り本線から九州発急行『あそ』がC59重連に牽かれ発車します。
列車番号からすると普通区間列車の様です、蒸機次位に2等車(3等級時代の)が見えます、大垣西方と言う事は関ケ原から下ってきたのでしょう。
急行『あそ』を牽くC59、田園風景の中ですが撮影地が京都近郊山科とは驚かされます。 C59主役舞台の東海道本線は、1957年米原-京都間電化で全線電化され幕を閉じました。 この写真撮影の1953年からC60改造が始まり、1960年までに47両が改造されました。
C59活躍舞台は山陽本線に狭まりましたが、主役である事に変わりはありませんでした。
西の箱根と言われた『瀬野八越え』でもD52補機を従え、特急『かもめ』を牽く姿が、1962年5月まで見られました。
山陽本線電化は姫路、岡山、倉敷、三原と進み、この写真が撮影された1962年5月に広島に達しました。 『瀬野八越え』は電化され、D52補機の役割も終わりました。
瀬戸内海沿い山陽本線の荷物専用列車を牽くC59、広島電化によりC59は西へ移動し、C60改造は1960年に終了してるので、余剰車は容赦なく廃車されました。
山陽本線最後の舞台は広島-小郡間で、広島機関区扇形庫に勢揃いしたC59は最後の晴れ舞台を迎える役者の様なものです。
【1964年3月末C59配置表】
1964年3月末時点でC59は車齢25年未満で72両が廃車されてます。 この年10月に山陽本線全線電化が完成し、広島、下関に大量配備されてるC59が余剰になります。 なおC59走行不能な四国高松の111号機は、機関区暖房用ボイラーとして使用されてたそうです。
九州に始めてC59が登場したのは、東海道本線全線電化完成前年の1956年で、以降山陽本線電化進展に伴い数次に渡り増備が繰り返されてます。 九州に於けるC59配備はC57の置き換えの形で進みました。 C59は主役しか演じられない不器用な役者の様です。
一世を風靡した特急『あさかぜ』は登場時から九州内C59牽引でした。
遅れて登場したブルトレ特急『みずほ』もC59牽引でした。 西鹿児島行特急『はやぶさ』牽引機がC61だったのは、熊本以南は線路規格が低くC59進入禁止だったからでしょう。
東京発九州行急行列車は『霧島』『高千穂』『桜島』『雲仙』など数多く運転されてたのに、熊本行だからなのか『阿蘇』3度目の登場です、名古屋駅に続きC59重連です。
鹿児島本線のC59は1961年までが最盛期で、ED72登場に職場を奪われ余剰となり順次廃車されました。 1962年に37両廃車され大幅に数を減らしてます。
◆C59最後の居場所
1965年秋までに鹿児島本線からC59は消え、呉線に3両残るだけになり、『C59見たいなら呉線へ』と言われてました。 全廃は1970年、30年生き抜けなかった短命形式でした。
呉線は旧海軍軍港があり、艦船擬装重量物輸送に備え、高い線路規格で敷設されてました。 その為電化西進の中でエアポケットの様に取り残された大型機関車入線可能線区でした。 糸崎機関区には最後のC59と共にC62も配属されてました。〔完〕
ではまた。
































