Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録⑮中部近畿アレコレ

本シリーズ少々間が空いたのは思い付くまま書き進め、関東地方から西行優等列車へ、そして正月南紀旅行へ飛び火させ、次回をどうまとめたら良いか解らなくなったからです。

【復刻版1964年9月時刻表】
という訳で今回は中部地方・近畿地方の細かな話題アレコレ集めて帳尻合わせします。


◆中学修学旅行
東京の公立中学校修学旅行は京都・奈良の古都巡りと相場が決まってました。 修学旅行専用電車155系登場前には、全国から集めた予備車旧客編成団体専用列車が仕立てられ、オハ31系やオハ61系が使われ、旧客ゆえの転落事故や積み残し事件が起きたりしました。

【155系電車】・・・ウィキペディアより
155系は戦後ベビーブーム団塊世代が中学修学旅行年齢に達し始めた1959年に登場しました。 153系基本設計を流用し車内通路を狭くオフセットして、片側4人もう片側6人ボックスシートで100人/両の定員増や折り畳み式テーブル等の専用設備を加えた形式です。

筆者の中学修学旅行出発は1964年9月末、出発時は新幹線開業前、帰着時は開業後でした。 国鉄作成か修学旅行運営団体作成か解りませんが、沿線ガイド小冊子が全員に配布され、沿線風景や駅・鉄橋・トンネルの名称や長さと共に、歴史なども解説されてました。


ダイヤは153系急行とほぼ同等で、折り畳み式テーブルが何と言っても優れ物、京都までの時間のほとんどをトランプ遊びに興じてました。 訪問先の記憶は残ってませんね(笑)

上り『ひので』と下り『きぼう』は夜行ダイヤですが、往復共に昼行利用でした。 なお『ひので』は姫路まで延長運転されており、修学旅行シーズンから外れる冬季はスキー客用臨時列車『ひので銀嶺』として上越線で運用されてました。

【167系修学旅行専用電車】・・・鉄道P誌1965年9月号より転載
165系ベースの修学旅行専用電車167系が登場したのは翌1965年でした。 修学旅行専用電車の活躍期間は短く。1971年の国鉄新幹線割引運賃設定で一気に利用が減りました。


◆中部地方・近畿地方の廃止路線
国鉄廃止路線は北海道が突出しており、東北・関東同様エリアの廃止路線は少ないです。

貨物支線と経路変更旧線廃線を除くと4路線に過ぎず、1972年開通湖西線に及びません。

清水港線1964年9月ダイヤは上下各4本ですが、1972年から廃止1984年までは日に1本、清水市内から折戸駅近くの高校通学専用列車でした。 途中駅で貨物入換がなく、機関車次位に客車連結の珍しい混合列車で有名でした。 元々貨物主役路線で旅客はおまけでした。

【高砂線野口駅のキハ 1984年】・・・ウィキペディアより
他の3路線は全て兵庫県内の短距離盲腸路線です。 1984年撮影の写真が残ってます、キハ35系と並ぶのは05?06?、無煙化9年後にこんな旧式DCが生き残ってたとは驚きです。


◆短距離夜行列車
1960年代の国鉄は主要駅間距離300kmを越えると夜行列車を運転しており、東京からは仙台/山形/新潟/名古屋、大阪からは富山/松江/広島が相当します。 これまで見てきた中の例外は上野-長野、新宿-松本、名古屋-長野でいずれも250km前後の短距離夜行列車です。


目的地が長野のこれらの夜行列車は、時間有効活用したい登山客・スキーヤーのニーズに応えたダイヤと理解してましたが、他にも運転距離250km前後の夜行列車が意外な場所にありました。 大阪(難波/天王寺)新宮間と名古屋-紀伊勝浦間、熊野詣客用でしょうか。

大阪からは難波発普通列車と天王寺発準急『南紀3号』の2列車運転されており、それなりの利用客があった訳です。 面白いのは和歌山以南蒸機牽引普通列車に天王寺20分遅れで発車したDC準急が紀伊田辺で43分遅れと所要時間が長い事です、到着時間調整でしょうか。

新宮には5時過ぎ到着です、普通列車より所要時間7分長い準急です。 それにしても難波発普通列車は14時間半掛けて紀伊半島を一周し大阪と名古屋を結んでます、通しの乗客はないと思いますが、現在新幹線で1時間、何とものんびりした時代だったと思います。

名古屋からは準急『南紀3号』と同じ23:00発で準急『うしお2号』が紀伊勝浦を目指します。 更に深夜東京発の急行『伊勢・那智』もあります。

大阪-新宮間より少し距離が短いので『うしお2号』は『南紀3号』より13分新宮に先着し、両準急接続で那智大社行バスが5時台に運行されてます。 現在の天王寺-新宮間所要時間は4時間、『あずさ』で2時間半の新宿-松本に夜行あったのだから不思議じゃないですね。

もう1本運転区間は金沢-名古屋間で300km越えますが、似た性格の夜行列車が高山本線に走ってました、上り準急『ひだ4号』です。 なお高山本線下り夜行準急は『しろがね2号』で、名古屋23:50発-富山5:22着-米原9:54着-名古屋11:06着の循環運転列車でした。

富山-岐阜/名古屋間夜行列車の運転ダイヤで、高山9分、下呂13分停車は岐阜到着を5時過ぎにする時間調整の様です。 高速道路網未発達、自家用車は高根の花、航空路は高額で庶民の足でないこの時代の長距離移動は国鉄の独壇場で、夜行列車全盛時代でもありました。


◆関西と北陸・新潟方面を結んでた列車達
北陸は東京から行き難い土地で、高山本線/小浜線アプローチ以外の電化北陸本線敦賀-富山間は魅力に乏しく乗車経験ありません。 後年の電車特急『雷鳥』や『サンダーバード』の愛称を知る程度で、関西-北陸・新潟連絡列車は時刻表で見るだけの遠い存在でした。

この時代の北陸本線特急は『白鳥』だけ、大阪と北陸方面を結ぶ列車には準急が設定されてません、大阪-福井/金沢間準急があっても良かったと思います。 北陸本線内に限れば、名古屋から高山本線経由の循環準急や、小浜線乗入れ準急が運転されてました。

関西と福井/石川/富山/新潟4県県庁所在地を結ぶ路線にしては夜行列車数が少ないダイヤでした。 大阪-新潟間3本の長距離普通列車も特徴的です、ダイヤは旅客ニーズの反映、関西人はケチ? 東京と秋田間を奥羽本線/羽越本線で結ぶ夜行列車に見劣りがします。 

この時代の電化は金沢まで、大阪-金沢間昼夜行電車急行は共通運用で、サロ/サハシ2両は東海道線や上越線と同じ、11両編成で短いのは利用客数に合わせた措置の様です。

『日本海』は新潟まで夜行、その先昼行と性格が変わる編成で唯一食堂車連結急行です。 編成表からも北陸本線の高くない国鉄内ポジションが透けて見えます。 『加越』は金沢8:35発高山本線経由名古屋14:01着、『しらゆき』は金沢6:45発秋田17:05着の急行です。


◆カスタム乗車券2泊3日旅
1972年に免許取得し車を手に入れてからは何処へ行くにも車で、現在のJR運賃体系は全く知りませんが、当時の国鉄運賃は300km以遠は半額になってました。 東京-豊橋-辰野-新宿周遊乗車券を使った飯田線の旅を以前紹介しましたが、他にも往復夜行旅をしてます。

往復夜行でローカル線沿線1日旅は連休(週休2日は後年の話)さえあれば手軽に実施でき、宿泊費ゼロで安上がりでした、正確な年月は記憶にありませんが1970-1972年です。 この高山本線沿線旅は前出飯田線と同じ周遊乗車券。一方通行で何度でも途中下車可能です。

米坂線と磐越西線を組み合わせた旅ではP字型乗車券で旅費節約しました、東京-郡山が226kmと300km未満なので一番安くなるのです。 会津若松で夜行列車乗車前に郡山-上野間運賃払うと現券回収して会津若松-東京間乗車券を発行してくれました。

往復夜行2泊3日で一番遠征したのが山陰本線/宮津線/小浜線の旅でした。 片道600km以上でコストメリットは出せませんでしたが、天橋立を見たいの単純な動機です。 始めて足を踏み入れるローカル線の風物は『遠くに来た』実感を十分満足させてくれました。


後年山陰本線保津川峡車窓見物パスして余部鉄橋見に行くんだったと後悔しましたが後の祭、その後2回余部通過はいずれも夜間で音聞いただけ、実物を目にしたのは供用中止直前の2002年、車で山陰旅行した際でした。 まとまりのない話で失礼しました。


ではまた。

×

非ログインユーザーとして返信する