Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録⑯中国・四国➊

順番から次は中国・四国ですが、実は四国は回想する物がありません。 環状路線がなく足摺岬や室戸岬はバス便のみ、夜行列車もないに等しく交通費と宿泊費が嵩む四国を敬遠し、初訪問は2002年だったからです。

【復刻版1964年9月時刻表】


◆中国地方の廃止路線
東北・関東・中部・近畿と新設路線が廃止路線を上回ってましたが、関西以西の新設路線は予土線だけで廃止路線が上回ります、と言って北海道ほど酷い状態ではありません。

廃止路線は先年廃止された三江線を除けば、短距離盲腸ローカル線です。

倉吉線の前身は山陰本線上井駅と倉吉市街を結ぶ軽便鉄道で、上井と倉吉の関係は東北本線尻内と八戸の関係と同じでした。 鳥取-米子間随一の街倉吉入口が上井だったのです。

上井-倉吉間4.2km、東西に長い市街地西方西倉吉まで6.8kmです。 時刻表7往復は蒸機列車、C11型41/75/261号機の在籍記録が残ってます。

【山守駅1981年】・・・ウィキペディアより
ここでも古い時刻表マニアには残念な駅名改称が行われ、1972年上井駅が倉吉駅へ、倉吉駅が打吹駅に改称され、1985年全線廃止されました。

大社線は出雲大社玄関口、複数の始発急行列車がある山陰本線支線の位置付けでした、1974年春に乗車経験があります。

【重要文化財旧大社駅舎】・・・ウィキペディアより
その時も立派な駅舎と感銘を受けた記憶がありますが、1990年廃止後2002年車で山陰旅行した際に再訪しましたが良好な保存状態でした。

この時刻表の時代に三江線はまだ全通してません。 他にも接続計画のある未全通2線がありましtが、その後の運命は大きく3種類に別れました。
➊計画放棄路線
興浜北線・興浜南線が好例で北海道に多く存在しました。 地元民要望より北海道開拓国策路線だったので簡単に放棄できたのです、片側開業だった美幸線もこのカテゴリーです。
➋建設成功路線
国鉄は親方日の丸のお役所でしたから、地元と約束した計画があれば採算度外視で建設を進めました、1980年国鉄再建法が成立する少し前、1970年代半ばまでそれが続きました。

【田沢湖駅の『こまち』】・・・ウィキペディアより
その中で飛びっ切り大成功が生保内線と橋場線を接続全通した田沢湖線、説明不要ですね。 他に当時は片側開業だった予土線や三陸リアス線が成功事例と言えると思います。
➌建設失敗路線
三江線がその典型例なので歴史を追います。 他の山陰-山陽間路線は起点または実質起点が鳥取・米子・松江の大都市、益田は沿線に山口・津和野の大都市や観光地を持つのに対し、三江線起点石見江津は特急『まつかぜ』通過の小都市だったのが不幸の始まりです。

生活の足として沿線住民には待望された開業でしたが、直線距離70kmを江の川沿いに点在する集落を通りウネウネと108kmに敷設され、1975年の全通時点ですでに山陰-山陽連絡の建設目的を喪失してました。 20年早く全通すれば建設目的を果たす時期があったと思いますが、道路網の発達と自動車普及で、廃止時期が早まっただけだったと思います。


◆鍛冶屋原線アレコレ
四国の廃止路線の一つ鍛冶屋原線を独立項として取り上げます。

鍛冶屋原線は三江線全通前1972年廃止、国鉄再建法成立を待たずに早期に廃止されたのは、代替交通手段(国鉄/民営バス)が存在した不要不急赤字路線だったからです。 徳島-鍛冶屋原間が先に開業し、高徳本線開業で板野-鍛冶屋原間が盲腸路線になった歴史です。

【TMS1962年7月号より】
鍛冶屋原駅がTMSで紹介されてます。 ローカル線終端駅は一般的に駅舎ホーム1面に機廻線や貨物側線ですが、鍛冶屋原駅は島式ホーム、図国鉄バス車庫側から本線/機廻線/貨物側線です。 踏切位置機関車停止で乗降可能ですし駐泊所ポイントが本線表示してます。

【TMS1962年7月号より】
駐泊所機関庫側からの構内全景です、島式ホーム本線にキハ05が停車中です、ホームは低く狭く全長は50m前後だと思います。 徳島平野穀倉地帯なので農産物出荷が盛んだった様です、貨物上屋も大型です。 鍛冶屋原駅が島式ホーム線形の理由が時刻表にありました。

全長7km所要20分弱路線なのでキハ1編成(単行?)が朝の通勤通学時間帯に徳島まで乗り入れ帰って来るだけで、後は終日鍛冶屋原線内を往復します。 鍛冶屋原7:05発18:35着の徳島間蒸機列車が1本運行されてます。 小松島機関支区のC11が任に当たった様です。


蒸機列車到着後、機関車は駐泊所機関庫で翌朝の仕業までお休み、列車は駅構内本線留置になります、すると本線留置中の夜間早朝発着DC列車は機廻線を副本線として発着するしかありません、このダイヤが鍛冶屋原駅島式ホーム1/2番線の背景の様です。

【TMS1962年7月号より】
ホーム上屋は1両分、ここで夜を明かした列車はオハニ+オハフ、徳島間通勤通学列車としても最大3両だったと思います。 貨物側線間がホーム設置可能なほど広く、各所にゆとりがある如何にも国鉄駅の雰囲気です。

【TMS1962年7月号より】
島式ホームなので駅舎は踏切渡った平地に建てられてます、構内側に差し掛け屋根のある国鉄タイプで、KATOが『ローカル線の小型駅舎』設計する際にプロトタイプにして欲しかった外観です。 配置図記載ありませんが駅舎右手に見えるのが物置、反対側が便所です。

【TMS1962年7月号より】
駐泊所にしては立派なコンクリート製大型給水塔があり、徳島まで15kmなのでなくても大丈夫な給炭台も設置されてます、機関庫奥にレールを山形に曲げた車止めが見えてます。

【『機関庫の製作⑦』より転載】
当社オリジナル設計の倉元駐泊所機関庫は鍛冶屋原駅機関庫をプロトタイプにしてます。


◆四国の廃止/新設路線
四国の廃止路線は鍛冶屋原線の他に小松島線、そして予土線が全通してます。 記事作成前まで予土線が国鉄最後の新設路線と思ってましたが、三江線が1年遅いと判明しました。

小松島は大型船が接岸できない徳島港に替わり、長らく大阪・和歌山-徳島・四国航路玄関口の役割を果してましたが、徳島港改良工事で発着船が減り役割を終えました。 小松島線は牟岐線中田-小松島1.9kmの短距離路線で、その先の小松島港駅が実質終点ですが、小松島港は仮乗降場お使いで、終着・始発駅が仮乗降場なのは他に例がなかったと思います。

【小松島港到着快速列車 1985年】ウィキペディアより
阪和地方との連絡港ですから、徳島本線急行『よしの川』が快速運転で小松島港へ乗入れてました、急行ヘッドマーク付けたままです・

【2020年2月時刻表路線図】
小松島線廃止により小松島駅消滅、乗客利便性を図る為に中田駅が改称されたのではないかと調べてみました、1.9kmなのでその方が自然ですが何故か中田のまま、???です。

この時刻表時点では前年末に中村線が開通しただけで予土線は未開通、宇和島-江川崎間は宇和島線でした、全通後予土線に改称されました。

【『半世紀前の鉄道P誌1964年2月号①』より転載】
1963年12月18日若井駅を発車する中村線開業祝賀列車です、10年後ここと江川崎間が開通し予土線が全通しました。 今回はアチコチ寄り道し、廃止路線と新設路線の話題で紙数が尽きてしまいました。


ではまた。

×

非ログインユーザーとして返信する