Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

スカ線 海水浴臨電 続編

lofthonsen

スカ線海水浴臨電の話は続けて公開予定でしたが、月末が挟まり間が空きました。 前回1950-1963年の臨電を紹介しましたが、今回は1965・1966年の運転実績と、海水浴臨電関係の、知られてない裏話を含めた紹介です。

自家用車で海水浴に出掛けるのが珍しくなくなったのは1970年代半ばからで、その10年前は海水浴臨電最盛期だったと言えます。

1965年には多い日(Aダイヤ)で61本の臨電が、茶色やオレンジ色の車体でスカ線を走りました。 この本数には朝方下り、午後から夕方上りが多い臨電の回送運転を含めた数字で、客扱い臨電は46本、それでも通常ダイヤの25%に達する臨電増発です。

その混雑ぶりは同年夏の鎌倉駅乗降客数に表れてます。 雨天平日に7万人強の乗降客が、晴天日曜日には1.7倍から2倍に跳れ上ってます。 会社施設利用の1泊海水浴も多く、日曜に次いで土曜が、日曜泊し月曜朝職場直行もあり、月曜も他の平日より多くなってます。 スカ線臨電は、この様な利用者数傾向に合わせ運転日が決められてました。 

夏はスカ線の掻き入れ時です。 不足する車両は101・103系登場で余剰になった72系旧型国電が多く使用されました。 また東京始発では東京駅発着能力を超えるので、一部臨電を品川始発にして、混雑緩和と乗換駅分散を図ってました。

1965年夏には回送列車を除く下り臨電が品川6:53発横須賀行から、東京11:42発逗子行まで14本運転されてます。 スカ線内だけでなく、他線直通乗入臨電もありました。

他線直通乗入臨電には愛称があり、大宮発逗子行は1950年と同じ『かっぱ号』でした。  普段は京浜東北線通勤輸送を担ってる、4扉ロングシートの72系が使われてました。

池袋発久里浜行は5年前と同じ『ちどり号』でした。 新宿で客扱いした後、新宿から山手貨物線・品鶴線経由でスカ線に乗り入れてたと思います。 山手線完全101系化後なので、池袋電車区所属の赤羽線用72系が使用されたと思います。

中野発逗子行は相変わらず『かもめ号』で、『ちどり号』と同じ品鶴線経由運転だったでしょう。 車両は中央線用101系で、著者は72系が首都圏を去る数年後には、色とりどりの101・103系電車が夏のスカ線を走るだろうと書いてます。


海水浴臨電は日曜日以外にも運転されてました。 1961年夏に逗子駅側線に停車してた前橋発『くじら号』は、80系から15系に替わり、平日運転されてます。 なを臨電は新橋・保土ヶ谷・戸塚・北鎌倉通過でした。

1965年夏の上りスカ線臨電は、下り14本に対し19本運転されてます。 下りにあった他線乗入はなく、1本を除き全て品川止まりです。 東京駅発着能力がその背景で、下り臨電に東京始発が多かったのは、国鉄が『奥の手』を使ってたからです。

通勤客が減る日曜日朝のスカ線上り列車を新橋で客扱いを打ち切り、新橋-東京間回送して東京始発臨電発着枠を確保しました、降車扱いなし乗車扱いだけになるからです。 夕方にこの手は使えないので、上り臨電は品川で運転打ち切りにしたのです。


臨電増発でサービスしても、同伴家族を除く乗客はほとんど首都圏定期券通勤者です、帰路の不正乗車(キセル)防止で増収を図る為、大船・横浜・品川・新橋・東京のホーム階段下に臨時検札所設置したり、夏季限定往復割引乗車券を発売したりしてました。

また、遊び疲れた帰路の立席は辛いので、下り電車で東逗子へ行き、上りに乗り換えて座席確保する乗客も多く、この種のタダ乗り客からも料金徴収する為に、東京鉄道管理局通達により特殊乗車券が作られ販売されました、正にあの手この手です。

6月末から8月一杯、鎌倉駅側線に1等寝台車がが留置されてました。 押し寄せる海水浴客を常駐駅員で捌くのは不可能で、鎌倉・逗子両駅に夏季応援駅員が配置され、その宿泊施設として利用ててました。 日曜午後には駅長が東京行乗車券を多数持ち、出札口長蛇の列でハンドスピーカ片手に『臨時移動人間出札口』を務めたという逸話が残ってます。


1960年代に大増発された海水浴臨電は1980年代から急激に数を減らして消え、再現する事のない『昭和の夏の風物詩』だったと言えます。 長い夏休みの楽しみ『スカ線で海水浴』の陰に、こんな物語が隠れてたとは知りませんでした。


ではまた。

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