Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録⑯中国・四国➌

コロナ騒動が始まって以来、筆者夫婦の伯父伯母(叔父叔母)お三方が亡くなりましたが、県境を越えた移動自粛で葬儀に参列できませんでした。 昭和戦前世代兄弟数は最低5人、7-8人が普通で夫婦合わせた父母双方の伯父伯母はザッと30人、不思議ではありません。

【復刻版1964年9月時刻表】
1世代下の筆者夫婦は共に3人兄弟、世代の標準で地方農家では4-5人が普通だった様です。 機械化されてない当時の稲作は人海戦術で、人手は多いほど良かったからです。 跡取りは通常長男、それ以外は家を出て自分で将来を切り拓くしかない運命を背負ってました。


◆金の卵達の集団就職
当時の大学進学率は10%台、高校進学率も7割強でしたので、毎年50万人以上の中卒就職者があり『金の卵』と呼ばれてました、経済大発展時代で求人倍率3倍以上でした。 北海道・東北からは主に首都圏一部関西圏、九州・離島からは関西圏を中心に中京圏・首都圏への就職でした。 盆や暮の年1-2回帰省し、その足は離島を除きほぼ100%国鉄でした。

【ウィキペディアより】
春先のTVニュースでは、上野に到着した集団就職列車から降り立つイガグリ頭・学生服、オカッパ頭・セーラー服のすぐ年上の『金の卵』達と、幟旗で出迎える企業担当者の様子が流れるのが年中行事でした。

【間もなく出稼ぎの季節】
雪の深い北国では稲作だけで食べて行けず、あるいは子供に高等教育を受けさせたいと世帯主が出稼ぎに出るのも当たり前でした。 今回は金の卵や出稼ぎ労働者が盆・正月の帰省に利用した列車を追ってみます。


◆中京圏からの西行列車
最初は中京圏名古屋からの西行列車です。 東北からは直通列車所要時間12-24時間の首都圏か関西圏で、交通の便が悪い中京圏は非常に少なかった様で、ダイヤからも解ります。

名古屋始発の九州行急行が2本運行されてます、勿論関西圏からも利用可能なダイヤです。 急行『さつま』は朝名古屋発で博多までの昼行と九州域内夜行の2重人格列車です。 一方急行『阿蘇』は名古屋19:20発で、中京・関西圏と広島以西間夜行列車の性格です。

編成表によると『阿蘇』はB寝台・食堂車併結の1級急行編成ですが、『さつま』は2等寝台1両だけの素っ気ない編成、運転距離考えると名古屋-博多間食堂車あってもと思います。


翌月の新幹線開業で名古屋始発西行長距離列車の存在意義は大きく低下し、前回紹介した1974年の初山陰旅行の際に京都始発に変更された急行『阿蘇』を利用しました。 運転時間は京都19時台に変更され、下関で山陰本線始発列車に接続する都合の良いダイヤでした。


◆関西圏からの西行列車
東京始発の神戸以西山陽山陰及び九州行優等列車は、『さくら』を除くブルトレ3本が大阪発午前1時台で使い難いだけで、他は全て関西圏から昼行/夜行になるダイヤでした。 そして東京始発関西圏止り列車の穴を埋める関西圏始発西行列車が多くありました。

山陽本線経由九州行だけでこれだけあります。(『音戸』は下関行ですが九州入口という事で・・・汗) ここでも長距離普通列車が3本運転されており、関西圏-広島間と広島-北九州間が夜行利用可能になってます。 北の上野-仙台間、仙台-青森間と同じ関係です。 運転区間も鹿児島本線、日豊本線、長崎本線/佐世保線と九州全県をカバーしてます。

編成表によると寝台急行は『ひのくに』と『音戸』(時刻表記載は寝台急行ですが座席者2両の準寝台急行)の2本だけで首都圏から北行する優等列車群に見劣りします。 路線や地域の格にこだわる国鉄の体質の現れで、関西人はケチだからが理由ではありません。


◆山陽圏からの西行列車
東京始発、関西圏始発急行列車の隙間を埋める様に岡山・広島朝始発の九州へ向かう昼行急行列車ダイヤが組まれてました。

始発駅は岡山・呉・広島で行先も様々です。

いずれもキハ58系のキロ28を含む編成です。


◆関西圏から山陰方面の列車
東京始発の急行『出雲』は京都5:15発で、山陰本線昼行列車の性格も持ってました。 関西圏始発の山陰方面急行列車は3本、京都・大阪・神戸の3大都市に配慮したダイヤです。

3本の急行は山陰本線・福知山線・播但線経由で松江・大社・浜田を結びます。 『三瓶』と『だいせん』大社着はわずか13分差、到着客と出迎え旅館従業員でこの時間帯はあの由緒ある駅舎が混雑したと思います。

そして他路線に比べて多いのが長距離普通列車、それだけ利用客があった訳です。 4本中825レを除き1等車併結、717レは寝台車まで併結してます。 寝台車併結普通列車は北海道にも例がありました。  

編成はキロ28を含んだキハ58系、準急にはキハ55系や稀にキハ20系が使用されてましたが、DC急行は100%キハ58系でした。


◆急行『だいせん』物語
そう言えばKATO新製品に急行『だいせん』見た記憶があり調べました。

【KATO製品紹介より】
急行『だいせん』は新世代客車夜行列車名として引き継がれ、かなり以前に姿を消してます。 何でも簡単に調べられる世の中ですから・・・。

【出典:ウィキペディア】
この時刻表の時代まで『だいせん』は伯備線経由で関西圏と大社/浜田を結ぶ列車名として使用されてきました。 大きな変化を受けたのはヨン・サン・トウダイヤ大改正後です。

【出典:ウィキペディア】
ヨン・サン・トウで優等列車が大増発され、それまでバラバラだった列車愛称が同一路線同一区間は〇〇▲号の様に統一され、伯備線経由は『おき』に、福知山線経由の複数急行が『だいせん▲号』に統一されました。


その後山陰本線内急行の併結・解消や夜行の20系置き換え、鳥取終着列車の『いなば』改称と再度『だいせん』改称等々様々な変化が急行『だいせん』に起きました。

【出典:ウィキペディア】
1980年代後半以降は『だいせん』凋落時代です、KATO製品は1990年前後の姿を再現した様です。 『だいせん』廃止は旅のスタイル変更から当然の帰結だったと言えます。
➊山陰アクセスが関西から西行より、山陽から北行の便が良くなった。
➋夜行列車移動の効率性より休日増加により疲労減優先に変った。


ではまた。

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