Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録⑯中国・四国➍

前回の続編、時刻表一冊でのしゃぶり尽くし随想も今回が最終回です。

【復刻版1964年9月時刻表】
九州がまだですが、回想したくない思い出しかないので・・・と言う事で割愛します。


◆一泊家族旅行先
自家用車は高根の花、遊園地や動物園はあってもテーマパーク(TVで見た米国ディズニーランドは夢の世界でした)などない当時は、年に1度あるかないかの家族1泊旅行先は鉄道で行く景勝地+温泉が定番でした。 首都圏なら箱根・伊豆(熱海・伊東・修善寺)と日光・鬼怒川が両横綱、少し間を置いて榛名山・伊香保、白根山・草津のランキングでした。

【天橋立】・・・ウィキペディアより
関西の事情に詳しくありませんが、それに相当するのが南紀白浜と天橋立・城崎ではなかったかと思います。 天橋立には本項で紹介した初訪問以降1980年頃にも行ってます、ボーイスカウト高校生隊員移動野営の付き添いで、ここを起点に1週間かけて久美浜まで丹後半島を1周踏破しました。 関西圏からの旅行客が多かった事が時刻表からもうかがえます。

天橋立は山陰本線綾部から舞鶴線・宮津線がルートです。 京都から3往復の準急『丹後』が運転されてます。 大阪始発福知山線経由の準急『丹波1号』は城崎行2編成で、福知山で分割し1編成は城崎直行、もう1編成は綾部に逆行し天橋立経由で城崎終着です。

【城崎温泉】・・・ウィキペディアより
城崎は通過が数回あるだけで宿泊経験はありません、行ってみたい場所の一つです。

驚くのは豊岡を通過する特急『まつかぜ』停車駅である事です、それだけ利用客が多く国鉄が重視してた証拠です。 関西圏3大都市に配慮したダイヤで京都・大阪・神戸からの直通列車が運転されてました。


◆スジ屋の傑作
中国地方は東西に長く路線配置は東北地方を横にした形に似てます。 東北に都市間連絡準急が多数運転されてた様に中国地方にも多くありました。 拙ブログで仙台・米沢始発の『あさひ』『たざわ』『もがみ』『くりこま』準急群の複雑な分割併結を紹介しました。

東北事例は仙台/山形/秋田/盛岡/釜石/酒田/盛/新潟連絡でしたが、200km前後の準急に相応しい運転距離でした。 中国地方で運転距離560km、複雑な分割併結運転してた準急『しんじ』について紹介します。 時刻表での理解が難しいので運転系統図を作成しました。


➊『しんじ』主編成は博多6:40発、山口線経由で山陰へ向かいます。
➋下関で山陰本線経由別編成『しんじ』に接続、別経路走行後石見益田で併結します。
➌米子で伯備線/芸備線経由広島行の準急『しらぎり』を併結します。
➍米子隣駅伯耆大山で鳥取13:38発下り準急『石見』に5分で接続します、鳥取/倉吉と新見/三次/広島連絡の役割を果たしてました。

➊伯備線を混合編成で走行し、新見で芸備線経由広島行の『しらぎり』を分割します。
➋と同時に広島から芸備線で来た準急『たいしゃく』を併結します。
➌岡山で終着の『たいしゃく』を分割解放します。
➍と同時に鳥取から因美線で来た準急『砂丘』を併結し宇野終着です。


博多始発宇野行、山陰遠回りで東京-大阪並みの運転距離を13時間、通しの乗客は居なかったと思いますが、様々な機能を盛り込んだ多性格列車で、スジ屋(ダイヤ編成者)の芸術作品です。 それを可能にしたのが統括制御可能なキハ55/58系の存在と、現場の苦労や手間にはお構いなしの国鉄体質だったと言えます。 合理化優先JRでは考えられない事です。


◆四国を結ぶ列車達
さんざん揉めた末に3案全て建設された本四架橋、それ以前は連絡船で渡る海の向こうの島でした。 四国の入口宇野へは東京から特急・急行各1本、より近い関西からは多数の列車が運転されてました。 ここで時刻表マニアとして重大なミスに気付きました。

関西圏からは東京始発に加え電車準急『鷲羽』4往復と連絡船含めた夜行普通列車2本が運転されてました。 重大なミスとは特急『うずしお』の存在を見落としてた事です。

確かに151系フル編成列車、東京-名古屋区間特急『おおとり』の下に『うずしお』と書いてあります。 でもね、特急が本当に特別な列車だったこの時代に、短距離、かつ四国アプローチ線とは言え、特急2本なんて全く想定外でした。 数年後運転開始『あずさ』『あさま』『しなの』は250km強、所要4時間弱に対し『うずしお』は230km、3時間弱です。

『うずしお』誕生の背景は送り込み回送列車営業運転だったと思います。

その他の四国と結ぶ列車達です。 『鷲羽3号』の連絡船接続時間が長いのは、山陰方面から19:30着の準急『しんじ/砂丘』接続の為です。 大阪-宇野230km、高松-松山/高知は200km未満で夜行列車運転距離に短く、真夜中の連絡船運航で夜行可能にしてました。


◆四国内の接続列車
筆者に宇高連絡船乗船経験はなく初の四国訪問は2003年、以降10回近く訪問してますが航空便と車がほぼ半々、鉄道利用は北九州出張の帰路に高松に立ち寄った1度だけです。

【1980年の高松駅・高松港】・・・ウィキペディアより
連絡船廃止後の高松駅は1/3ほどに縮小され、積込線跡地にANAホテル(現在は経営母体変更)がオープンしマイレージで利用した経験があり、連絡船時代の面影が残ってました。 また四国友人によるとここでも乗り継ぎ列車座席確保の桟橋マラソンがあったそうです。

【宇高連絡貨客船伊予丸】・・・ウィキペディアより
宇高連絡は距離の短い内海航路で青函連絡に比べ船が小型だったので、貨客船だけでは貨物輸送量に追い付かず、ほぼ同数の貨物専用船、つまり貨車運送船が運航されてました。

北海道と同じく四国も連絡船ダイヤに合わせ各地を結ぶ列車が運転されてました。 夜中3時台の始発列車があったのは四国だけで、夜行移動の必要性から生まれた物です。

連絡船接続を全て紹介しても無意味なので特急接続だけにします。 予讃本線・土讃線には東京・大阪からの特急に接続する形で日に2本の急行が運転されてました。 四国はヨン・サン・トウダイヤ大改正で特急大増発(大安売り?)後も特急不在エリアでした。


◆四国の特急
四国の特急登場はヨン・サン・トウダイヤ大改正後、エル特急登場同年の1972年でした。

【キハ181 101】・・・ウィキペディアより
使用車両はキハ181系、運転距離が短く食堂車なし、編成表確認できませんが4両だったと推定します。 短編成で先頭車が不足しキハ181 100番台の先頭車改造が実施されました。

【キロハ180 5】・・・ウィキペディアより
後年利用率の低いグリーン車対策として、キロ180からキロハ180への改造も行われてます。 2008年に仕事で鳴門へ行った帰りに徳島から阿波池田、土讃線で大歩危まで行って高松へ引き返す乗り鉄をしました。


吉野川沿いの徳島-阿波池田間はローカル線の面影が色濃く残り、車窓からの渓谷美も楽しめましたが、行程全区間特急で大歩危は無人駅、只々驚きでした。 ダラダラと思い付くまま書き進めた本シリーズはこれで終了、お付き合いいただきありがとうございました。


ではまた

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