Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

半世紀前の鉄道P誌1964年2月号⑤D50特集

鉄道P誌D50特集の続きです。

【前々号より転載】


◆D50・D60関東信越編
今回は関東信越編からです。 このエリアでD50が活躍したのは八高線と信越本線、そして松本にも配属されてたので、篠ノ井線または中央西線での運用だったと思われます。

【八高線 越生-明覚間 1963年11月】
八高線鉱石列車を牽くD50 323、積み荷は秩父武甲山で採掘した石灰岩の様です。 全山石灰岩の武甲山は採掘により山の形が昔と変わりました。

【信越本線 松井田駅 1955年7月】
高崎から碓氷峠上り口横川へ向かう松井田駅は電化前スイッチバックでした、貨物列車を牽くD50 321です。 軽井沢から佐久平へ下る御代田駅も電化前はスイッチバックでした。

【信越本線 長野駅 撮影年月不明】
信越本線客レを牽くD50 264です、D50は貨物機の印象が強いですが、見てきた様に全国各地の勾配線区で旅客用としても活躍してました。

【長野機関区 機留線 1963年7月】
機関区で憩うD50 266、重油併燃装置が取り付けられてる様です。 D50は糸魚川機関区に11両配属され、富山-直江津間北陸本線で働いてたバズですが写真は掲載されてません。


◆D50・D60関西中国編
D50特集初回で紀勢本線の姿を紹介しましたが、関西本線でも活躍してました。 北陸本線電化前は主役級、電化進展後は交直接続を担当しました。 中国地方でD50(D60)が活躍したのは山口線だけだった様です。

【関西本線 弥富駅付近 1957年11月】
関西本線下り貨物列車を牽く稲沢第一機関区所属のD50 176です。 関西本線と言えば加太越え中在家スイッチバック信号所が有名ですが、D51/C58の前にD50が走ってたと知りました。 弥富は名古屋郊外と言える場所ですが、当時は田園風景だったと解ります。

【北陸本線 米原-坂田間 1963年1月】
北陸本線貨物列車牽引のD50です。 滋賀県北部は積雪地帯、開業後の新幹線が度々関ヶ原の積雪で遅延し『雪に弱い新幹線』と言われてました。

【北陸本線 米原駅 1963年1月】
北陸本線貨物列車を牽いて米原駅に到着するD50 249です。 福井/敦賀方面からの仕業に見えますがさにあらず、次写真解説の交直接続でした。

【北陸本線 米原-坂田間 1960年12月】
北陸本線で客レを牽く米原機関区所属、前写真2年前のD50 249です。 この写真『変』です、蒸機牽引なのに次位に暖房車連結してます、また架線が張られ電化区間に見えます。 この疑問解明の為に調査を行いました、1957年10月の北陸本線年表に答がありました。

このD50は米原-田村2駅間交直接続機でした、直流電化区間本務機がEF13/EF15など暖房設備のない旧式電機だったのが暖房車連結理由です。 そして年月記載ありませんが米原からの非電化区間は直流電化され坂田-田村間に交直接続デッドゾーンが設置されてます。 架線は工事完了運用開始前と推定されますが、この後3年以上蒸機接続には??です。

米原機関区機関車配置の変遷でE10からD50へのバトンタッチが解ります。 また東海道本線電機のEF15/EF58からEF58/EF60への変化が1965年に起きた事も解ります。 8620/C58は入換機運用で、1969年3月配置では蒸機が一掃され、DD13/DE10が配属されてます。


なお北陸本線の交直接続区間はその後長浜まで、現在は敦賀まで延長され、湖北地域と関西圏を新快速が直通運転してます。 直流電化区間を高効率な交流電化に改めた事例は仙山線などいくつかありますが、逆パターンが北陸本線で行われてたとは知りませんでした。

【米原駅 撮影年月不明】
D50 340の米原機関区配属は1961年4月以降、1664年4月以前です。 E10置き換え完了時期から、撮影は1961年末~1962年初と思われます。 写真左端は跨線橋柱、右上に通行者を煙から守る防煙板(?)が見えます、腰板に『黒煙防止』看板があったかもしれません。

【山口線 湯田温泉駅 1960年4月】
山口線で旅客列車を牽引するD60 1、トップナンバーです。

【山口線 山口駅 1960年4月】

山口駅を発車する貨物列車牽引のD60 14です。 始めて山口線に乗車したのは、この街に住む東京で知り合った友人を訪ねた1974年ですが、その時の記憶に比べ写真からは、線数は多いものの県庁所在地駅の風格が感じられず山間の小駅に見えてしまいます。


◆D50・D60九州編
九州はD50・D60が最後まで活躍した終焉の地です。

【筑豊本線 直方駅 1960年8月】
北九州のD50と言えばその代表は運炭列車、直方機関区所属のD50 140です。 操車場の様に広い駅構内に当時の石炭産業の隆盛が偲ばれます。 右奥に9600入換機が見えてます。

【日豊本線 三毛門-中津間 1959年】
明るい日差しの低い堤の上を混載貨物列車を牽いて走るD50 62、長閑で良いですね。

【門司機関区 1963年10月】
門鉄デフ付きの柳ヶ浦機関区所属のD50 374、前写真D50 62も同区所属です。 柳ヶ浦は門司鉄道管理局でなく大分鉄道管理局ですが、『北九州型』として採用されてた様です。

【久大本線 恵良ー引治間 1963年3月】
上り客レを牽く大分運転所所属のD60 62、5両編成後方から2両目は一等車(後のグリーン車)です。 当時の時刻表によるとローカル線普通列車一等連結例が多くありました、と言ってもシートピッチが広いクッションの良いクロスシートでリクライニングなしでした。

【久大本線 引治-恵良間 1963年3月】
こちらは下り客レを牽く同じく大分運転所所属のD60 65、前から3両目が一・二等合造車で一等車連結列車になってます。 背後に聳えてるのは日本百名山の一つ久住山です。


見た事にないD50/D60ですが、こうして足跡を辿って見ると時代の主役にはならぬとも名脇役として1930年代から1960年代まで国内交通を支えた存在と解り見直しました。


◆裏表紙
前回9600特集号は東急広告でしたが、この号は京急広告でした。

週末に座席指定ハイキング特急運転とあります、どんな車両使用したかは『卓さん』に訊かないと解りません(笑) 久里浜-金谷フェリー往復乗船券込の鋸山コース周遊券が¥590、貨幣価値換算して4千円ほどですから、結構お得な価格設定だったと思います。


ではまた。

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