Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄黄金時代回想録⑬東海道本線

鉄道敷設以来100年間、新幹線開業まで常に日本一路線だった東海道本線についてです。

【1964年9月時刻表復刻版】


6.東海道本線
この時刻表は東海道新幹線開業前月、在来線東海道本線が最も輝いていた時です。 東海道本線黄金時代の優等列車から見て行きます。
6-1.圧倒的な優等列車数
サン・ロク・トウダイヤ改正で全国特急網整備が始まりました.。 とは言えこれまで見てきた様に主要路線特急運転は日に1本、東北本線仙台-盛岡間だけ日に2本でした。

東海道本線は桁違い、不定期『第2ひびき』加えると日に14本の特急が運転されてます。

昼行特急のほとんどは151系12連に統一されてます、注記にある様に運用都合で使われる予備編成にはパーラーカーが連結されてなかった様です。 下の『ひびき』は7連の短編成、恐らく食堂車連結しない国鉄初の特急ではなかったかと思います、理由があります。

【特急『ひびき』】・・・ウェキペディアより
特急『ひびき』は157系の運用で、車内設備は151系に劣りませんが食堂車がないのです。 東京-関西間旅客輸送が逼迫し猫の手も借りたい状況だったのが良く解る事例です。

ブルトレ4本では『あさかぜ』の1等寝台車6両の豪華編成が目につきます、全てに座席車が連結され寝台列車でなかった点に注目です。 『さくら』博多止り編成は後に佐世保行になりました。 特急も多いが急行/準急の優等列車も数多く運転されてます。

特急/急行/準急合わせて何と70本、朝7時から夜行深夜0時まで17時間を発車時間と考えると毎時4本強の優等列車が運転されてた事になります。 現在の新幹線では驚かない運転密度ですが、これらの優等列車が普通列車や一部区間を除き貨物列車と同じ線路を走ってた訳ですから、東海道本線輸送力が飽和し新幹線が必要だったのは当然でした。


6-2.憧れの列車を見に行く
新幹線開業は東海道本線ダイヤを著しく詰まらなくしました、日本一の大幹線が一夜にして短距離旅行/乗り継ぎ路線に格下げになったからです。 残った優等列車は遠距離ブルトレ特急/急行と伊豆方面準急程度でした。


サン・ロク・トウダイヤ改正後に大増発された優等列車を横浜駅に見に行った話をします。 1961年の年末に中学受験勉強の気分転換名目で親の許可を得て、門限22時の約束で横浜駅に行きました。 当時西は沼津の先までしか行った経験がなく、関西や九州へ向かう時刻表でしか知らない憧れの列車を見るのは旅の夢を膨らませる楽しいイベントだったのです。

【2020年2月号横浜駅案内図】
現在の横浜駅はホーム4面8線駅、当時は3面6線駅+貨物線2線でした、貨物線にホーム設置と考えれば大差ありません。 大きく変化したのは東急東横線で、現在は地下駅ですが当時は高架2線駅、保土ヶ谷方で国鉄線を跨ぎ京浜東北線と並行し桜木町へ向かってました。


早目に夕食済ませ家を出たのが17時過ぎ、東横線で横浜着18時頃、子供料金¥25でした。 国鉄入場券¥5買って東海道本線下りホームへ、逗子の海水浴で勝手は解ってました。

【1964年9月東海道本線下りダイヤ部分】
この時間151系特急『第2つばめ』とブルトレ『さくら』は通過後ですが、一番効率良く列車と車両を見られるタイミングとして選びました。 最初の優等列車は『おおとり』、20分後に『みずほ』更に10分で『あさかぜ』30分後に『はやぶさ』とブルトレ特急三連発です。


『おおとり』は『こだま』『つばめ』の区間列車として設定された東京-名古屋間の特急で、上下『おおとり』使えば東京滞在6時間で名古屋から日帰り可能になりました。 見物客としては151系特急フル編成を『おおとり』で見る事ができた訳です。

【1964年9月東海道本線下りダイヤ部分】
『はやぶさ』後30分で広島行電車夜行急行『第2宮島』が来ます、153系急行編成です。 その20分後浜田行夜行急行『出雲』、ここから10分毎に夜行急行ラッシュに入ります。

151系特急と同じ様に153系急行も編成共通化です。 優等列車の合間に普通列車が毎時4本運転されてます、それだけではありません。

【1964年9月横須賀線下りダイヤ部分】
同じ線路上を横須賀線も毎時4本運転されてました、保土ヶ谷・戸塚は横須賀線だけの停車駅で待避施設がないので、多くの横須賀線列車が横浜駅で待避してました。 この時の横須賀線は70系時代の末期、111系/113系が投入されるのは翌年の事です。

東海道本線は寝台列車の数も半端ではありません、前後時刻合わせ東京-大阪/神戸間に8本の寝台急行列車が運転されてます。

【1964年9月東海道本線下りダイヤ部分】
10分間隔夜行急行ラッシュが続きます、 『こだま』はビジネス特急と呼ばれましたが滞在時間3時間では仕事になりません。 片道あるいは往復寝台列車のビジネスマンが日本の経済発展を支えてました。

【1964年9月東海道本線下りダイヤ部分】
門限22時を守る為に、多分寝台急行『銀河』を見送って家路についたと思います。 横浜駅3時間の体験は遠くへ行きたい旅心に長く忘れられない記憶として残りました。 お約束事の様に東海道本線にも夜行普通列車が運転されてました。


6-3.東海道本線の旅
東海道本線初乗車は多分江の島海水浴だと思いますが記憶曖昧です。
◆1950年代後半
間違いない記憶の最初は1958年夏、入団したボーイスカウトキャンプで原の千本松原へ行きました、品川から80系電車だったと思います。 その期間中原駅踏切で上り特急『つばめ』青大将通過を見ました、151系特急『こだま』運転開始3ヶ月前です。 振り返って見ると鉄道を趣味とする者として、偶然数々の良い場面に遭遇してラッキーだったと思います。

【青大将EF58】・・・ウェキペディアより
以降、翌1959年家族熱海旅行、1964年正月家族南紀旅行、1964年9月中学修学旅行、1967年高校修学旅行と続きますが、目的地が関西旅行は別項に譲り、域内旅行を紹介します。


◆1965年8月
高校地理部研究旅行が集中豪雨の山陰本線不通で中止になり、その代替として小旅行が計画されました。 部活費用として親から金を引き出し、遠くへ行きたいのが本音ですから当然とも言えます。 東京電環-豊橋-辰野-東京電環回遊学割切符での飯田線の旅でした。

均一周遊券でないので普通列車しか使えません、東海道本線夜行で出発、夜明けに豊橋到着です。 小学校社会科教科書に戦後日本土木技術金字塔と紹介されてた佐久間ダムに行きました。 現在もイベント時シャトルバス除けば定期交通手段がなく歩くしかない様です。

【天竜峡】・・・ウィキペディアより
次に天竜峡を見に行きました。 費用節約もありますが、知らない土地へ行き見るだけで満足、観光船に乗ってもっとよく見る楽しむの発想自体がなかったと思います。 天竜峡から3時間近く伊那谷の風景眺めながら飯田線に揺られ辰野到着までは確実です。


その先中央線上り夜行普通列車で帰京したのも確かなのですが、夕方~夜の3時間余をどう使ったのか覚えてません。 翌月に上諏訪電化によるダイヤ改正があり、時刻表から推定する事ができません。 諏訪湖眺めて時間潰し辺りが一番可能性高そうです。


《番外》スピードアップなし日本一の鈍足路線
飯田線は1964年でも表定速度が低い鈍足路線でした。 民間電気鉄道4社国営化成立路線で最初から電化されてましたが兎に角駅数が多い、豊橋-辰野間に94駅もあり平均駅間距離は2.1Kmに過ぎません。 山間区間はカーブが急で速度を上げられない事情もあります。

以来57年、電化/複線化/塩嶺トンネルショートカットの中央本線は3時間もスピードアップし、条件が大きく変わらない東海道本線でも高性能新型車で49分スピードアップしてますが、飯田線は変化なし、表定速度30km/h弱のままで、日本一の鈍足路線かもしれません。


飯田にリニア駅設置予定ですが飯田線乗換駅は建設見送りです。 現在飯田-東京間は高速バスで4時間、JRは問題外です。 多分伊那谷各地とリニア駅にシャトルバス運行し東京への所要時間短縮をするでしょう。

幹線比較では不公平かと同格の高山本線でも比較しました。 DC列車同士で49分スピードアップしてます、丸でJR東海は飯田線乗客利便性向上を放棄し見放した様に見えます。


ではまた。

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