Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

3月ダイヤ改正に想う③JRのパラダイムシフト

国鉄分割民営化から32年、国鉄放浪旅経験者は50代になる訳です。 後30年もすれば、国鉄は遠い昔の語り草、蒸機は前世紀の遺物になるのでしょうね。 それはともかく、前々回郷愁編で「あずさ」の変遷を見てきました、普通列車にも触れます。

【鈍色の空の下 春を待つ】・・・2/28撮影
GWの降雪も2-3度あったのに2月に雨なんて記憶にありません、やはり異常気象です。 例年は3月中旬に雪消し黒焼きモミガラが撒きが恒例ですが、今年は春に備えて野小屋やビニールハウスで何やら準備する農家の方の姿が目立ちます。

【中央線スハ32系編成セット】・・・目玉はマヌ34
1960年代にはこのセットの様な新宿始発客車列車がありましたが、次第に高尾始発電車列車に置き換えられました。 最後まで残った山男御用達の夜行客車列車も、1975年に115系に置き換えられました。 諏訪転居した1983年から2000年過ぎまで、中央東線の甲府以西各駅停車は飯田線直通を除き全て115系だったと思います。

【湘南色115系】
国鉄末期~分割民営化直後は、塗色に構ってる余裕がなかったのか色とりどりでした。 湘南色115系は90年代後半まで見たと思います、順次長野色に変更された様です。

【スカ色115系】
次第に長野色MMT(ラッシュ時2ユニット)に統一される中で、スカ色115系が2000年を過ぎても高尾行(一時期立川行)で残ってました、所属電車区の違いでしょうね。

【長野色115系】・・・中央東線のザ・普通列車
30年見馴れた115系の引退は2013年、でも第三セクター化された「しなの鉄道」は現在も全て115系、まだ最低5年以上は使われるでしょう。 それにしても1963-1983年製造の115系寿命は40年以上、183系も2015年まで臨時列車で使われ長寿命でした。


一方、E351系は24年で完全廃車、17年で第一線から引退するE257系は「踊り子」に転用改造される様ですが、この違いは一体何なのか? 今回はその話を書こうと思いますが、国鉄分割民営化と深い係りがあり、その時代へ遡ります。


★国鉄分割民営化の道
雪だるま式の累積赤字、異常な労使関係、顧客不在の親方日の丸体質、談合による高コスト、情報技術導入立ち遅れ、天下り・・・、関係者ほぼ全てが「国鉄」に群がり甘い汁を吸おうとしてた当時の状況、民営化以外方策はなかったと思います。

【2002年刊行】・・・松田氏は分割民営化の立役者、元JR東日本社長
JR車両に興味はなくとも国鉄分割民営化には興味津々、関連書籍はほぼ全て読み漁りました。 民営化がスンナリ行った訳でなく負ければ明日がない、旧守主流派と若手改革派の政治を巻き込んだ血みどろの権力闘争の末の分割民営化でした。


国鉄解体革命分子として左遷された改革派が時勢と政治の力で勝利し、その中心3人組が後に東/東海/西の社長になり、松田氏は若手改革派の旗頭でした。 経緯理解に役立ちましたが勝てば官軍、『50歳以上の職員はほとんど新会社に残らなかった!』なんて、自分で首切って良く言うよ、辣腕経営者である事は認めても尊敬できません。
[註]JR西元社長、尼崎事故責任を問われた井出氏も改革派3人組の1人です。

【2008年刊行】
山之内氏はJR東日本発足時の技術統括副社長で、常務取締役に就任した松田氏が元運輸事務次官住田初代社長の後任として、規定路線通り社長昇任した際にJRを去り、2度H1ロケット打ち上げに失敗したJAXA理事長として立て直しに尽力されました。


技術出身経営者として尊敬し、著書は全て読んでますが人物評は本題ではありません。 社名だけで何も変わらない赤字体質、売上高4年分の債務を背負ってスタートしたJR東日本の組織再生に向けた生々しい奮戦の様子がこの書で解ります。


★『お客様』という言葉、まずはトイレから
国鉄職員はプライドが高く、『乗客/利用者』はあっても『お客様』という言葉も意識もなく、接客態度の評判は良くありませんでした。 民間企業として顧客サービス向上意識を社員に植え付け、利用者にも変わったと感じてもらえる最初の施策がトイレでした。

【中山平駅便所】
露太本線想定時代の国鉄駅トイレは、臭い・汚い・暗いの三拍子で、地方駅では男女別でなく男子小は便器なしの台と溝、コンクリート壁に向けても珍しくありませんでした。 JR発足時都市圏ではかなり改善されてましたが利用者評価は低いままでした。


JR社員がトイレを掃除する、利益は生まずとも民間企業社員の意識改革に効果があったと思います。 現在では大きく水を空けられてた高速道PA/SAトイレより、鉄道駅の方が綺麗で使い易い、ホテルのトイレ?と思わせる駅もあります。


★寿命半分、価格半分、重さ半分の電車
戦後何度かの鉄道事故を経て、「頑丈で燃えない車両を作り、修理・改造して長く使う」が国鉄もの作り文化として定着してました。 例えば山手線で役目を終えた車両を、一部運転台付き改造して南武線や横浜線へ転用するやり方です。(101系/103系など)

【1947.02.25八高線列車転覆事故報道写真より】・・・死者184人
コンピュータシミュレーション技術もなく、鉄道車両は非常に高価、一方人件費が比較的安く職員数を減らせない労使関係の時代には理に適ったやり方でした。 115系/183系はこの設計思想で作られた車両なので丈夫で長持ちしたのです。

【1951.04.24桜木町車両火災事故報道写真より】・・・死者106人
国鉄末期の車両調達価格は談合で3割高い在来線1億円/両、新幹線3億円/両でした。 自動車業界では新技術で新車開発期間が大幅短縮されてました、そこでJR車両開発部門に出された指令が「寿命半分、価格半分、重さ半分の電車」を造れ!だったのです。

【JR新設計思想による最初の新型車209系】・・・新系列車両のルーツ
時代の流れを受けた家電の様な使い捨て電車とも言えます。 設計思想大転換なら運用も異例、それまで他路線お古ばかりの南武線にも投入し、「50年振りの新型車」と喜ばれました。 209系はその後のデファクトスタンダード「新系列車両」となりE231系等に発展、設計思想通り1993年から2010年の17年で、103系より早く姿を消しました。


以降の頭にEが付く筆者が覚え切れない車両群は、安全性/快適性/省力化/低コスト化等の新技術を導入してますが、基本設計思想は大きく変わってません。 E351系/E257系もこのグループでE351系24年は設計寿命を超えて良く頑張ったとも言えるのです。


★北斗星は苦し紛れ無茶振りホームラン
北斗星誕生裏話はご存知の方も多いかもしれません。 分割民営化時九州方面ブルトレは航空便に負けガラガラ、高級食堂車やサロンカー連結も効果なしでした。 1998年開通青函トンネルは17年の建設期間に客貨輸送環境が激変し世紀の無駄な事業とマスコミに叩かれました。 でもできた物を利用しない手はありません、しかし金がない。

【在りし日の北斗星】
そこで海外の復活オリエント急行に倣い、大量余剰の寝台車を改装し、金を掛けたのは「ロイヤル」と「デラックスツイン」新設だけ、食堂車は余剰電車特急再利用でした。 すると予約受付開始即完売の予想外の大人気でプラチナチケット化しました。

【同トワイライトエクスプレス】
北斗星の成功は新生JRの収益改善に貢献しただけでなく、鉄道事業は輸送業でなくサービス産業であると認識を改める契機にもなり、カシオペヤやトワイライトエキスプレス、そして現在の七つ星や四季島の系譜に繋がっています。

【四季島】
でもね、最近の動きはやり過ぎ感が強いです。 北斗星の動くホテルコンセプトには共感しましたが、豪華旅目的は非日常的時間の楽しみではないかと思います。 クルーズ船の大海原にはそれがありますが、車窓風景に列車を待つ通勤客や高校生が入ってはチョットね。 それで優越感持つ趣味なんてないし、お好きならどうぞです。


車両寿命の話から思わぬ脱線をしてしまいました。 とりとめのない話で失礼しました、これで本項完とさせていただきます。


ではまた。

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