Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

露太本線倉元駅の「それから」

南基台設計が一段落した処でチョイと一服、露太本線倉元駅がその後半世紀近く、どんな経緯を経て今どうなっているか?、思考ゲームをしてみました。 現在は何の変哲もない小さなJR駅に、国鉄時代からこんな物語があったと楽しんでいただければ幸いです。


★1970年(想定時代)

【仮完成の倉元駅舎】
数年前の鉱山閉山で貨物扱廃止になりましたが、上下各11本の旅客列車、補機連結開放の貨物列車、通過優等列車を合わせ、日に40本以上が往来します。 閉塞業務・出改札と手小荷物扱・補機誘導など駅務は山ほどあります。 信号掛は8ヶ所のポイント、8基の信号を操作しタブレット鞄を持って200m以上先の駅舎まで日に何度も往復します。

【山形秋田県境想定の倉元駅時刻表】
朝6時の下り夜行急行通過から夜11時の上り夜行急行通過まで、日中6名、宿直2名体制で14人の国鉄職員が倉元駅に勤務していました。 週6日9H交替勤務+宿直1回、1日休みのシフトです。 ちなみに当時の国鉄従業員数は46万人でした。 


★1975年(無煙化)
倉元から蒸機の煙が消え、旅客・貨物列車は統括制御可能なDD51牽引になりました。 重貨物は重連運転でしたが倉元で連結開放する必要がなく機関車駐在所は廃止され、それに伴い倉元駅勤務国鉄職員は11人に減員されました。

【DD51牽引貨物列車】
この時代に一気に進んだ主要路線電化は露太本線南部県庁所在地までに留まり、全線電化計画は中止されました。 山陰本線や関西本線の様に輸送力増強必要性が低く、トンネル改修等を国鉄財政状況が許さなかったのです。 当時の国鉄従業員数は43万人でした。


★1980年(自動閉塞導入)
露太本線に自動閉塞が導入され、腕木式信号機は色灯式信号機に置き換えられました。 倉元駅ポイント操作は駅舎に変更され、老朽化した信号所建屋は取り壊されました。

国鉄貨物輸送量は長距離輸送花形だった1970年からほぼ半減、貨物列車は3割減りました。 倉元駅勤務国鉄職員は7人になりました、日中3名、宿直1名、週6日9H交替勤務+宿直1回、1日休みは10年前と変わりません。 当時の国鉄従業員数は41万人でした。


★1986年(国鉄分割民営化前夜)
翌年4月の国鉄分割民営化により露太本線はJR東日本管轄になる事が決まってました。 まだ日に数本のDD51牽引客車列車が残っており、DC化は進みましたが出力が低い旧型も多く、倉元はスイッチバック駅として機能を果していました。

廃止された機関車駐在所バラスト跡が残るだけで、建屋類は全て取り壊され構内はガランとしてます。 上り出発線ポイントも撤去され両渡り線と構内本線分岐のシンプルな線形に変わりました。 鉱山跡地は放置され、荒廃を深めながら自然に還ってゆきます。

【倉本駅手小荷物扱窓口】
倉元駅では相変わらず国鉄職員7人が駅務に就いています、この年宅急便に市場を奪われた手小荷物扱が廃止されました。 当時の国鉄従業員数は28万人まで減ってました。 そして1987年4月1日、身分は国鉄職員からJR東日本社員に変わっても、倉元駅の日常に大きな変化はありませんでした。


★1992年(スイッチバック廃止)
夜行急行を除く客車列車廃止と山岳線区用強力エンジン搭載の新型DC投入により、25‰(想定)勾配のこの線区でスイッチバック必要性が消滅しました。 本線上に島式ホームの新駅が建設され、切符販売業務民間委託により常駐JR職員が居なくなりました。

【廃止されたスイッチバック】・・・長崎本線本川内2002年
民営化されたJR合理化策がこんな山の中まで及んできたのです。 旧駅構内跡地は国鉄清算事業団管理になりましたが、利用価値が低い上にバブル崩壊が重なり、一部が駐車場と保線車両待機所として使われただけで、長期間更地で放置されました。


★2017年(現在)
それ以降現在まで25年間、倉元駅は民間委託廃止、生野管理下の完全無人駅になった事以外変化はありません。 夜行を含め急行が全廃され、2時間毎運転DC特急の一部が生野停車する様になりましたが、倉元駅は停車列車が1本減り通過列車が増えただけです。

【2017年の倉元駅イメージ】
これと言った観光資源もないありふれた山間の小駅です。 利用者は1970年から半減、通学高校生の姿が目立ちます。 かつてここがスイッチバックだった痕跡が残っており、時折廃線マニアが写真を撮りに訪れます。


今年はJR発足30年、国鉄消滅30年です、現在JR7社(貨物含む)従業員数は11.7万人、1970年の約1/4です。 時代の要請、分割民営化以外選択肢はなかったと理解しつつも、遠い日の待合室で聞いた通票閉塞機操作音と指差確認の声を懐かしく思い出します。


[註] 公開資料により時代考証しましたが、あやふやな部分はご容赦ください。


★満開の蕎麦の花と実りつつある稲

9月3日法事で茨城へ行った際、稲刈りが始まっているのにビックリしました、当地と1ヶ月以上違います。 この時期蕎麦の花が満開になります。 

畑や休耕田に撒かれた蕎麦が白い花を付け、黄金色の稲穂と斑模様を作っています。


ではまた。

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