Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

5月の鉄道風景

寒さの心配から解放されたと思ったら、熱中症対策が必要な暑さ、元々信州は東京に比較し春と秋が短く感じる土地柄ですが、『冷涼な信州』は過去の物になりつつあります。 まっ連続猛暑日が続く地方より余程過ごし易く、苦情言ったら罰当たるかもしれません。 今回は『風薫る爽やかな初夏』だった時代の5月の鉄道風景を集めてみました。

始めて余部鉄橋を通過したのは蒸機時代末期1974年でした。 山陰旅行の最後、東京へ戻る夜行急行『出雲』に乗車、鉄橋通過時刻は19:30過ぎで通過音を聞いただけです。 初訪問は2003年、岡山で独り暮らしを始めた息子の様子見ついでのドライブ旅行でした。


20系キハ2連が軽快な通過音を響かせながら渡って行きます。 1985年に日本海からの強風に煽られた列車の転落事故があった鉄橋で、初訪問時はまだ運用中で、山側・真下・海側から眺め、他鉄橋には見られない優美で華奢な姿が美しい鉄橋だと感じました。

秩父武甲山産石灰石満載のセキ列車が早朝の関東平野をD51に牽かれて走っていきます。 手前の水田は田起こしして水を張る前、田植えはまだ先の様です。

山陰本線と播但線分岐駅和田山の風景、火を落とさず待機中のC55と一息入れてる乗務員と機関区員の様に見えます。 和田山に機関区があったと思いましたが違いました。

和田山は上下30km圏内に福知山と豊岡の大機関区があり、豊岡区管轄機関支区が置かれてました。 1965年配置表では5両のC55が在籍し、山陰本線旅客列車牽引機中継基地の役割を果たしてた様です。 豊岡機関区在籍機を見ると、山陰本線でC55のC57置き換えが始まってた様子が窺え、C58は宮津線運用、D51が貨物列車を担当してたと解ります。

1983年に諏訪へ移住した筆者は、東京湾アクアラインの通過経験がありません。 都心から木更津への感覚的距離感は八王子よりむしろ近く、内房は東京の庭先感覚になってると思います。 当時は千葉が八王子に近い距離感、内房はその先の近くて遠い田舎でした。


当時の千葉以遠は気動車の天下、内房にも外房にも58系準急が走ってました。 諏訪転居の直前には電化された内房・外房に大幹線で余剰になった初期特急型電車が、東京地下駅から『さざなみ』『わかしお』として運転されてましたが、現在はどうなのでしょうか。

千葉鉄道管理局管内は10系気動車が大量配備されてました。 幹線常磐線と亜幹線総武本線を結ぶ成田線は、当時の通勤圏のすぐ外側に位置し、東京に近いド田舎でした。 朝の列車が4連運転されてたのは、高校進学率が急上昇し、通学高校生が多かったからの様です。


試みに成田線新木-布佐間の踏切をストリートビューで見てみましたが、水田が広がる風景は何処にもなく、緑が残る新興住宅地が続いてました。

立石峠は標高わずか147mですが大分県北部と南部の境界に位置し、かつては日豊本線難所の一つでした。 峠の両側宇佐駅と立石駅には転車台が備えられ、峠越え区間で補機運転が行われてました。 本務機は門鉄デフのC57、5両編成旅客列車にも補機が必要でした。


その後国道整備に伴い峠を掘り下げて切通し化され、更に急勾配の下り線を新立石トンネルで複線化し、難所だった名残は宇佐駅・立石駅の構内スペースの広さに残ってるだけです。 目的地へ早く安全に輸送するのが鉄道の使命なので正常進化したと言えますが、かつて存在した『旅の情緒』が次々失われてゆくのには一抹の淋しさを覚えます。


ではまた。

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