Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

北の鉄路

筆者の趣味は鉄道模型レイアウトと70歳で始めた俳句の二刀流、月に一度程度は旅俳句ネタも良いだろうと、先月紹介した昨年5月の北海道旅の作句を紹介します。

【旧標津線沿線】

悪天候で撮影できなかった落石を予定変更して14日始発列車を撮影してから、厚床まで引き返し標津線廃線跡を辿りました。 風連湖のこの場所は1991年家族ドライブ旅行で初訪問、2011年の退職後夫婦ドライブ旅行で20年前と何一つ変わってない景色に感激しました。


それから13年、草原の中の小屋(バンガロー?)は朽ち果て、無残に崩れ落ちてました。 小屋を漁師が使う番屋に見立てて作句しました。 『南風』が夏の季語で『黒南風』は梅雨時に吹く湿った南風で、仲夏6月の季語になります。

【標津から知床半島を望む】

標津の浜からは沖合に国後島が霞んで望めました。 左に目を移すと1500m級の知床連山はまだ残雪が残ってました。 5月中旬の残雪、『残雪』は早春の季語なので使わず『白し』と表現し、初夏の季語である『薄暑』を使ってます。 実際の通過時間は午前10時前でしたが、夕方なら連山の残雪が夕陽に映えて美しかろうとタイムシフトで詠んでます。

【根北線渡らずの鉄橋遺構】

標津先から内陸に入り、斜里へ抜ける国道で根北峠を越え、根北線二期工事区間に先行建設され、線路敷設される事なく1970年に廃線になった『渡らずの鉄橋遺構』を訪問しました。 30年振りの摩周湖や美幌峠より、是非訪問したい場所だったからです。

【繊毛本線北浜駅】

北浜駅は2011年にも訪問してます。 その時は駅務室跡で喫茶店営業してたと記憶してますが、今回は完全無人駅でした。 駅ホール内は天井まで黄色のポストイット一杯の幸福駅の様な有様でした。 ローカル駅に良くある訪問落書帳が十数冊積んであったのには驚かされました。 オホーツク海展望台のある駅として聖地化したのでしょうか。


紙魚(しみ)とは和紙を食べる極小さな昆虫で、古い書籍を開いた時に、ツツーッと走る様に逃げるアレです。 重要な古文書を虫干しするのは、この昆虫から守る為で、『虫干し』語源の虫です。 『紙魚走る』が晩夏7月の季語になってます。

【風太郎さん写真集『旅のたまゆら』より】

学生時代の北海道初旅時に、訪問し損なった駅として記憶してます。 網走から夜行急行で札幌へ洗濯の為に一旦戻る行程の日に原生花園仮乗降場で下車、次列車で北浜へ寄って網走の予定が、原生花園オホーツク海の浜でつい昼寝して寝過ごし列車逃したからです。 今となっては大昔の旅の失敗経験も、ただただ懐かしく思い出されます。

【通網線廃線跡】

昨年5月14日は網走泊、15日は時間を十分取って、湧網線跡と名寄本線跡を辿り、中湧別に宿泊予定でした。 湧網線網走側の半分近く、能取湖の常呂までの廃線跡は路盤をそのまま活かして20km強のサイクルロードとして整備されてました。 冒頭の『黒南風』の対比で、乾いた爽やかな南風を白しと表現しました。

【佐呂間駅舎跡】

湧網線に乗ればサロマ湖が見えると思ってたらほとんど見えなかったのも苦い思い出です。 北海道全図ではサロマ湖沿いを走る様に見える湧網線が、実際は湖畔から丘一つ越えた内陸部を走行してたからです。 旧佐呂間駅には保存車両があり、駅舎は資料館抜なってましたが、観覧には事前予約が必要で見られませんでした。


『蕗』が初夏5月の季語で、『螺湾蕗』はアイヌ民話に出てくる小人、コロボックルが隠れてる様な特大サイズの蕗で北海島特有の物です、『地域季語』として通用します。

【渚滑駅跡地】

中湧別に宿泊し、16日は名寄本線遺構を訪ねる旅にしました。 湧網線と同じ廃止から35年ですが、失われた鉄道に対する地域の方の『愛情』と言うか『惜別の情』が明らかに異なり、名寄本線沿線は保存機は手入れされておらず荒廃状態が多く見られました。


渚滑駅はかつては名寄本線の渚滑線分岐駅で機関支区設置急行停車駅でしたが、廃駅4年前の1985年までに渚滑線廃止、機関支区廃止、交換施設撤去の無人駅に落ちぶれてました。 駅舎建屋と6両収容の長機関庫建屋が残ってるだけで、広い構内のグランドゴルフ場になっており、遊んでる高齢者が撮影して回る筆者を『物好きな』と眺めてました。 『風死す』が晩夏7月の季語で、風が止まるとムッとした熱気に包まれる感覚です。

【夕張幸せの黄色いハンカチ思い出広場パネル】

5月16日はレンタカー返却して旭川泊、17日は札幌在住の友人Sさんに美唄で拾ってもらい、旧炭鉱地帯鉄道跡を回り、南夕張まで送ってもらいました。 最後に訪問したのが夕張『幸せの黄色いハンカチ思い出広場』でした。


150年前の原野に50年前丘の上見渡す限りに炭住が経ち並び、1万人近い人の暮らしがここにありました。 現在は証拠写真を見ないと信じられない原野に還ってます。 『虎耳草』は『ゆきのした』と読み、一般には雪の下と表記される、梅雨時日当たりの悪い場所に可憐な小さな花を咲かせる植物で、『ゆ音』の韻です。 仲夏6月の季語になってます。

【幸せの黄色いハンカチ思い出広場館内】

1977年公開で国内映画賞を総ナメにした作品の記念館ができたのは不思議でありませんが、夕張市の財政破綻以降、忘れ去られた存在に近かった様です。 夕張市長候補が誰も居ず、現北海道知事鈴木氏が東京都職員から名乗りを上げ、再建に取り組む中でリニューアルされた様で、その際に『風太郎さん』の写真がイメージ画像として展示されてます。

【幸せの黄色いハンカチ思い出広場館内】

夕張鉄道ストーブ列車の通学風景、好きな作品です。 夕張が炭鉱の町として光り輝いていた最後の時代でした。 友人Sさんの話によると、沿線清水沢出身で風太郎さんブログでも紹介してた双子姉妹『べッツイ&クリス』の妹さんが最近亡くなったそうです。


ではまた。

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