Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

国鉄型キハのご先祖様ガソリン動車の終焉

キハ二5000に始まったレール上を走る自動車ガソリン動車は、わずか23年で国鉄から姿を消しました。 現在隆盛を誇るディーゼル動車の直系のご先祖登場は、ガソリン動車に5年遅れの1934年、キハ41000の機関換装改造した試作車キハ41500でした。

当時のディーゼル機関は船舶用が中心で、鉄道車両搭載用専用機関が必要と認識され、開発が進められてた頃に、鉄道事故史に残る不幸な事故が発生しました。


◆1940年1月29日:西成線列車脱線転覆火災事故

大阪近郊で発生したこの事故は、朝のラッシュ時にキハ42000 3両編成列車が駅端ポイント通過中にダイヤ遅れ回復に気を取られた駅員がポイント転換する、信じられない様な人為的ミスで発生しました。 最後尾1両が脱線転覆炎上し、犠牲者189名の大惨事でした。

【ウィキペディアより】

統括制御機能がない旧式気動車は、各車に運転士が乗務し、ブザー合図で協調運転してたと聞いてましたが、3連定員120人に300人の乗客を乗せた通勤列車にも使われてたのです。 この事故を契機に事故時引火・爆発するガソリン動車の機関換装の方針が決まりましたが、太平洋戦争の戦局悪化の中で、機関開発は中断され、換装も進みませんでした。

戦争中は軍需優先、終戦後はGHQの石油燃料統制で、1両でも多く稼働させたい国鉄は燃料不足打開策として天然ガス動車を導入し、キハ41000改造のキハ41200、キハ42000改造のキハ42200を製造し、戦後復興輸送需要増大に対処しました。

現在はどうか知りませんが、50年前東京のタクシーは、一部の個人タクシーを除きLPG仕様でした。 ガソリン機関の天然ガス対応は比較的容易だったのです。 当時日本の原油自給率は5%弱で、秋田・新潟に油田があり、千葉の茂原は天然ガス産地でした。

燃料輸送が課題で、当初は燃料補給運用をしてましたが、天然ガスを高圧充填したボンベを改造無蓋車で輸送する方式に改められました。

天然ガス動車の活動範囲は、産地に近い千葉局管内の房総・銚子方面と、新潟・秋田周辺に限られましたが、何故か産地に遠い山形周辺にも活動記録が残ってます。

天然ガス動車の評判は良く、『ガスカー』の愛称で親しまれてました。 山形付近の運用は産地からのボンベ輸送に頼ってたと思われます。

天然ガス動車はGHQ石油統制解除後にディーゼル機関に換装され、キハ41200はキハ41500に、キハ42200はキハ42500に生まれ変わりました。 石油統制の時代背景が生んだわずか数年のショートリリーフでしたが、キハのご先祖様である事には変わりありません。

戦後ガソリン動車のディーゼル機関換装が再開され、GMF13型100馬力ガソリン機関を日野製トレーラーバス用DA55型75馬力ディーゼル機関に置き換え可能と解り、1950年に換装したキハ41500 10両が誕生、運用成績が良かったのでその後73両が換装されました。 途中からDA55型は改良されてDA58型となり、出力100馬力に増強されました。

ところがDA55型は全高が高く横倒し搭載できず、オイルパンを建築限界レール上165mmに収めると上部が客室内に飛び出してしまう難点がありました。 客室床機関部段差付き換装試作機の評判が悪く、建築限界を下回る145mm換装が実施され、踏切障害物注意の通達を出して運用し、幸い事故はありませんでした、自動車用流用には無理があったのです。

1936年に開発着手し、完成間際まで行きながら戦争で中断してた鉄道車両専用初ディーゼル機関DMH17型150馬力が完成したのは1951年2月でした。

この機関によりキハ42000の換装が可能になり43両換装されてキハ42500が生まれました。 翌1952年度には20両新製され、換装車と区別する為にキハ42600になりましたした。 同じ1952年度には8気筒⇒6気筒化したDMF13型110馬力機関(後に120馬力化)が開発され、DMH17型と併せ、天然ガス動車全てを年度末までに換装し、消滅させました。

DMH17型はその後の国鉄型キハの基本形になった機関で、改良で160馬力、180馬力に出力向上され、10系・20系・55系・58系・80系に長く使い続けられました。 国鉄型キハは180馬力ディーゼル機関1基または2基搭載と、マニア常識として覚えたのを思い出します。


ではまた。

×

非ログインユーザーとして返信する