変革期の東急電鉄
東急は沿線で生まれ育った筆者に最も馴染み深い鉄道です。 物心付いた頃はまだ急行運転開始前で、旧型3000系MMT3連が渋谷-桜木町間を50分ほどで往復してました。 新型5000系が登場し、急行運転が始まったのは幼稚園児の時でした。
1950年代中頃は多摩川を渡ると一面田園地帯で、小学校低学年の頃に大倉山(日吉1駅先)にザリガニ採りに行った事を思い出しました。 何故大倉山かと言うと、乗車駅祐天寺から初乗り子供運賃5円で行ける最遠駅だったからです。 往復10円は現在の100円以上の価値があり、駄菓子屋で3-4点買えました。 ザリガニは田圃脇水路で沢山採れました。
長閑な郊外電車だった東急東横線も10年後、このレポートが書かれた1965年には前年東京五輪開催直前に営団日比谷線開業で中目黒から直通運転が始まり、前年5月に桜木町-磯子間根岸線が開業し、翌年に田園都市線溝ノ口以遠開業を控えてました。 玉電廃止と新玉川線建設計画が同時進行しており、東急は交通網整備の大きな潮流に巻き込まれてました。
筆者は高校生になり都立進学校へ電車通学してました。 団塊世代で人数が多く、学歴社会の受験戦争と言われた時代で、人生の勝ち組に残るには単に大卒ではダメ、今では信じ難い事ですが一部上場企業は指定校制度があり、指定大卒業者以外入社試験受験を門前払いしてました。 理工系では箱根駅伝常連校で言えば、駒澤、東海、法政は圏外で、青学が下限の偏差値(嫌な言葉です)58程度でした。 社会人スタートで1/3に絞り込まれてました。
【ウィキペディアより】
出身大学で人材将来性を計るバカな制度は、10歳年下弟の就職時には廃止されてました。 現在は東大卒のお笑い芸人が大勢居る時代で、学歴より個性の時代になったと思います。 筆者高校時代は受験勉強に明け暮れ、楽しい思い出は所属した地理部であちこち旅した事と、始まったばかりのラジオ深夜放送を聴く事くらいでした。 脱線を戻します。
東急在籍車両は499両の大所帯でした。 玉電軌道線用72両を含んだ数値です。
鉄道線車両では旧型3000系が半数弱、新型車への置き換え道半ばと言う処です。 東急車輛の特徴ステンレス車は、試作5200系を経て、カルダンドライブ・回生ブレーキ装備6000系からオールステンレスだと思ってましたが、6000系は外張りだったと知りました。
【ウィキペディアより】
1960年登場の6000系は20両の小所帯で、量産は1962年登場の7000系に引き継がれました。 6000系登場時普通列車運用本数が少なく、渋谷から初めて乗車した時には、軽快な走行音と減速時の回生ブレーキ作動音にウットリした物です。 東急初の両開き扉車でした。
ぺキぺキ面構成の7000系は兎に角格好良く見えました、6連に長編成化された急行用に運用されてました。 長野県内私鉄各社に東急払い下げ車両は多いですが、一番好きな7000系はありません。 それだけに一昨年6月、弘前で巡り逢った時は非常に嬉しかったです。
5000系5連急行は、クモハ・モハ・クハ3連とクモハ・クハ2連の編成で、非貫通式で車内を行き来できません。 急行は途中の自由ヶ丘と日吉で各停を追い越すだけで停車駅も多く、国鉄競合する私鉄他社にある特急が設定されたのは、新宿湘南ライン運転開始後です。
東急東横線列車は記憶に残る3両から4両・5両・6両と順次長編成化し、現在は20m車10連運転してます。 この時代は5連だった様ですが、3000系5連の姿は思い浮かびません。
営団3000系初見の印象は『何じゃコレ』でした、営団が日吉まで乗り入れ運転してました。 長野電鉄須坂車庫には、廃止された屋代線で活躍し、休車中廃車待ち営団3000系が残ってるハズで、見たい物だと思いながら腰が重く、実現しそうにありません。
大井町線改め田園都市線(新玉川線開業後、昔の線名に戻りました)は、3連から4連化して輸送力増強してました。
筆者には懐かしい風景です。 数ヶ月後併用軌道廃止になった二子橋も、十数年後に対岸のバイパス工事に併せ、上流側に拡幅した自動車専用新二子橋に取って代わられました。
当時の田園都市線は車両基地収容力不足でやりくり算段してた事が解ります。 田園調布の引上線で思い出しました。 筆者ザリガニ採り時代の田園調布は 郊外の閑静な高級住宅地(巨人軍長嶋さん居住地)で、始発折り返し電車があり、シングルスリップポイントの先に3-4両分の引上線があり、ポイント動作と入出庫電車を見に行った記憶があります。
東急渋谷駅は東横百貨店2階に頭を突っ込む形で、ホーム中央に地上へ降りる階段設置前は、ラッシュ時に電車到着すると10ヶ所以上並んだ改札口が大混雑でした。 改札口を出た川の様な人の流れの1/3は正面地下鉄銀座線乗場昇り階段へ、残り2/3は左手山手線・井の頭線乗り換え跨線橋階段へと流れる人の頭の景色は壮観でした。 日比谷線開業後、中目黒から都心へ向かう乗客が増え、渋谷駅の混雑緩和した事が数字から解ります。
6連急行走ってた時代に3000系4連の各停が走ってた様です。 日中閑散時だけだったかもしれません。 日比谷線開業で隣駅祐天寺は、ラッシュ時に電車に乗り込むのが最も難しい駅になりました。 中目黒で日比谷線乗り換え客が降り、ホッとした覚えがあります。
根岸線開業の影響も、横浜駅乗り換え客が増え、桜木町駅利用客が減る形で表れてます。 後年、東横線横浜市内高架から地下へ潜った際、高島町・桜木町ルートを捨て、横浜中華街としたのは、このデータも活用されたのでしょう。
ではまた。



















