60年前年末年始の鉄道話題 西日本編
昭和40年代 前半(1965-1969年)は古き良き日本が残る最後の時代でした。 新幹線開業・オリンピック開催を終えて経済発展一段落、日本人の価値観や生活を大きく変える出来事が多発した『激動の40年代』前の、『曲がり角手前の小休止』時代だった様に思えます。
昭和40年代に起きた主な出来事を拾ってみると以上の通りです、子供時代に三島由紀夫事件浅間山荘事件TVニュース画像を見られた読者も多いと思います。 全てが急激に変化する直前の正月風景を集めましたので、写真集を眺めるつもりでご覧ください、西からです。
日本の南端鹿児島までは電化の波が及んでませんでした。 年末年始多客時には多くの臨時急行列車が運転され、建設中鹿児島車両基地でも一部運用が始まってた様です。
博多付近に機関車回送用『小運転線』が存在してたと解ります。 鹿児島-博多間の特急『はやぶさ』牽引を電機に引き継いだC61が『小運転線』で回送されて行きます。
これも同じ『小運転線』撮影画像の様です。 ED73担当の区間は博多-門司、『みずほ』『はやぶさ』『さくら』ヘッドマーク付けた特急牽引機三重連回送は面白いですが、前のC61と併せ、何故回送が必要だったのか、今一つピンと来ません。
臨時急行『はかた』も年末年始運転で、関西地区間に運転されてたのでしょう。 平時旅客列車牽引から手を引いてたC57もEL/DLの手が足りず、駆り出されてます。
こちらは『小運転線』でなく本線で仕事中のED73、電機牽引特急『あさかぜ』が電車特急になってるのは誤植でしょう。 ED73がC59を廃車に追い込んだ歴史があります。
九州には何故EF級電機が投入されなかったのでしょう。 ED73の鼻の出っ張りは機能実現の必然性があるとも思えず、デザインとしては陳腐で好きになれない顔付です。
当時は300km以上離れた場所への移動手段はほぼ国鉄に限られ、年末・盆休前には上野駅・大阪駅前にテント村ができました、 『29日23:25発臨時急行◇◇行』看板の前に帰省列車座席を確保の為に並ぶのです。 早い人は前日から並んでました。
大阪駅では夜行列車がない開業直後新幹線コンコースを列車待ち場所に流用した様です。 寒さ凌ぎのサービスでしょう。 帰省先は九州か東北の遠地、立ち席夜行列車は辛いので、長時間並ぶ意味はあったと思います。 待つ事に慣れてた時代でした。
東京近郊中央線の様に国電線路と列車線路を分離する複々線化工事は山陽路でも始まっており、西明石までが次の工事区間でした。複々線化工事は交通渋滞解消と踏切事故根絶の為に高架化を一緒に行う事が多く、先に完成した高架線へ線路切替工事が行われました。
真新しいバラストの新線を蒸機が単機回送してると思ったら、路盤地固めに走行してるとの事、なるほど、60t以上の自重を活かし、こんな任務も果たしてたかと納得できました。
163系には???でした、調べると153系高出力型として、165系の抑制ブレーキと寒地装備を外した形式で、サロ163が7両新製され電動車は製造されず、165系に統合されました。 サロ163とサロ153の相違点は冷房装置有無だけだった様です。
年末年始の多客時輸送に老兵C51も駆り出されてました。 山陰本線ではDC普通列車正月対応に増結DC不足だった様で、代打にC51牽引客車列車を送り出してます。
高加速・高減速の高性能電車が関西私鉄に次々登場しました。 停車駅の少ない優等列車の表定速度向上の為の各駅停車用車両で、阪神は『ジェットカー』、近鉄『ラビットカー』、京阪は『スーパーカー』でした。 スーパーカーブームとは無関係です。
大阪から徳島へ向かうルートは、今ではさびれてしまった和歌山から小松島の海路がメインルートでした。 新フェリー就航に合わせ、南海電鉄が接続特急を運転開始してます。
どうも東京育ちだと大阪以遠の私鉄は縁がなく、神戸電鉄にしろ山陽電鉄も何処を走ってたか良く解りません。 両運転台の小型電車が如何にも小私鉄らしいですね。
湖西線南半分を走ってた江若(こうじゃく)鉄道の気動車改造の話題です。 廃線後路盤だけ湖西線に流用されました。
東レ工場引込線で働いてた小型蒸機が引退後宝塚テーマパークで静態保存される事になり、その式典が開催されてます。 『永久保存』とありますが、今もあるのでしょうか。
ではまた。






























