満州国の鉄道風景
『満鉄』シリーズ最終回は満州国の鉄道風景です。 満州の風景は『大陸的』です、土地に対する概念の違いが原因です。 現在の米国内風景も『大陸的』です、車で走れば何故kmでなくマイルなのか、何故リッターでなくガロンなのか感覚的にすぐ解ります。
【シリーズ初回より】・・・地平線が見える大地
日本の宅地は都市近郊で1区画30坪、田舎で80坪、別荘地でも300坪ですが、米国の宅地は都市近郊でも1区画1エーカー、1,224坪で15-40倍も違います。 狭く平地が少なくバカ高い地価の国と、土地は只みたみたいな物の国では、その街の風景も違って来るのです。
『満鉄』始発大連駅跨線橋からの眺めでしょう。 幅広ホーム両側線路は間隔を狭めず真っ直ぐ伸び、その間の両渡線が広いスペースを占めてます。 右側ホーム先線路も真っ直ぐで何もなし、その間に詰所群を配置して土地有効利用する必要がないのです。
大連駅構内もゆとりたっぷり、跨線橋の様子からホームは3面ある様です。 右に単機停車してるのは、パンタも架線も見当たらずディーゼル機関車に見えます。
前回の満鉄機関車命名表にありました『ジキ』です。 1933年日本の国際連盟脱退後の経済制裁で原油輸入制限されてからは、重油が軍事用途優先になり稼働停止したと思います。
本社が置かれた『満鉄』お膝元の大連では、市電も直接運営してました。 ダブルルーフで中央乗降口付の木造市街電車です。 満州国表玄関として、大連は賑わってました。
『満鉄』路線網の中心に位置する奉天駅に急行『はと』が到着する処です。 牽引機は多分パシコ型でしょう。 荷物車、1/2/3等車、食堂車の6-8両編成だったと思います。 奉天は日本の満州開発中心都市で、ホーム上屋が大連より手が込んだ造りなのが目を引きます。
赤レンガ造りの奉天駅舎は、東京駅を参考にした立派な建物ですが、駅舎前ホームに上屋が見当たりません。 ロシア統治時代は原野の中だった奉天の街造りをしたのは日本で、人口を急増させました。 奉天駅から旧市街に市電が走ってた記録はありますが、画像は残ってません。 ここでこれから紹介する駅の地理的位置関係を整理して置きます。
大連-新京間の連京線中央に奉天があり、撫順は大石橋から分岐する支線の終点で炭坑の街です。 本渓湖は奉天から南東に向かう安奉線の駅で、遠く朝鮮半島を縦断し、釜山に至る日本本土と満州を結ぶ路線でした。
撫順駅は産業都市なので質素な駅舎、と言っても2階建ての堂々たるサイズです。 駅舎前ホーム幅の広い事、奉天より広く20mはありそうです。 左手の貨車留置線には石炭満載の運炭車が並んでたハズで、撫順から大連へ3,000t運炭列車が運行されてました。
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撫順には郊外電車が走ってた様です、ダブルルーフ2連電車は到底市電には見えません。 『炭坑事務所前停留所』で、バカデカい建物で働く人の通勤の足になってたのでしょう。 撫順炭坑は『満鉄』と共に経営権をロシアから譲り受け、その炭質が良い事からブランド炭になっており、『満鉄』蒸機の燃料になると共に、大連から輸出されました。
安奉線本渓湖駅の駅舎は平屋建てです、跨線橋を渡ったホームからの撮影と思われますが、駅舎前ホーム間に4線もあるのは満州ならではです。 後方に見えてる山が日露戦争激戦地だった様です。 安奉線は連京線支線でなかった事は、急行列車運転区間で解ります。
連京線は大連-新京間特急『あじあ』と急行『はと』、安奉線は釜山-新京間急行『ひかり』『のぞみ』(新幹線愛称はここから?)、釜山-奉天-北京間急行『大陸』『興亜』の急行4本が運行されており、海路が長い大連経由は船が遅延すると9時発『あじあ』に間に合わず、12時発『はと』振り替えがあったそうで、海路が短い釜山ルートが重宝された様です。
特急『あじあ』号終着新京駅の姿です。 1936年北満線接収後はハルピンまで延長運転されましたが、新京から先はパシナ型が入線できず、他の蒸機が牽引しました。 満州国建国時に新京(長春)を首都に定めたのは、ソ連(旧ロシア)との再戦に備えた防衛策でした。
満州国首都新京の中央通りは市電併用軌道ですが、電停部横に広い2車線と路側帯と歩道があり、道幅は50mほどあります。 塔のある建物は政府機関庁舎の様です。
大連市電と同じ3扉車、車長はこちらの方が長い様です、車掌2人乗務だったのでしょうか。 道路脇にはコンクリート建物が並んでます。
前写真と同じ場所の撮影です、2扉張り上げ屋根で車長が短く、妻面中央運転席部分が凸型に張り出してる様に見えます。 満州で一旗揚げようと渡満した日本人は多く、筆者母方の曽祖父もその1人でした。 建設業で成功して財を成し、事業を祖父へ継承しました。
満州国jr建国時祖父は41歳の働き盛りで、あるいは商用で『あじあ』号に乗車してたかもしれません。 祖父が活躍した満州はどんな場所の興味もありました。 母は人力車で日本人学校に通い、冬は内地指宿で避寒したそうです。 終戦で全て失いましたがね。
ではまた。

























