Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

旧南満州鉄道『満鉄』の話

旧南満州鉄道通称『満鉄』は、1906年から終戦までの39年間存在した日本の鉄道です。 従って乗った記憶、見た記憶のある人は85歳以上です。 生まれる前の時代なので特に興味はなく、戦前日本が経営してた現在の中国東北部を走る標準軌の鉄道で、流線形蒸機牽引の看板列車特急『あじあ』号が走ってた程度の通り一遍の知識しかありませんでした。

【鉄道P誌1964年8月号表紙】
鉄道P誌が旧南満州鉄道を特集しました。 発刊時は終戦19年目で『満鉄』が懐かしい読者が多く存在しましたが、現在から80年~120年前の昔話はブログに使えないと思いました。 しかし記事を読んで『満鉄』の成り立ちを知ると、中々面白いので要約して紹介します。


歴史に興味が薄い方は読み飛ばしてください。 19世紀は帝国主義の時代で先進国は軍事力で後進国を侵略・植民地化し国を富ませました。 東南アジア・インド・アフリカで起こり中国も餌食になりました。 最後発の帝国日本もそれに加わり大陸に進出しました。

中国東北部では超大国ロシアと日本が権益を争い、極東進出して不凍港を入手したいロシアは、首都と海港ウラジオストック及び大連・旅順を結ぶ国家戦略実現動脈のシベリア鉄道を建設中でした。 シベリア鉄道から分岐する南行部を東清鉄道(和名)と呼んでました。

1901年ウラジオストック-ハルピン間開通、1902年大連まで開通させ、欧州とアジアを結ぶ5フィート軌間のユーラシア大陸横断鉄道を完成させました。 東清鉄道南部線の一部が『満鉄』の前身で、元々はロシアが建設した鉄道でした。

補給路確保したロシアは対日強硬姿勢に転じ、旅順を要塞化しウラジオストック艦隊を旅順に移動しました。 満州全域と朝鮮半島北部のロシア領有を通告したのです。 日本は日清戦争で得た大陸権益を守る為には戦うしかなくなり、1904年日露戦争に突入しました。

開戦後国鉄(鉄道院)職員で構成された野戦鉄道提理部が設置され、戦争遂行に必要な鉄道建設や軍需輸送に携わりました。 ロシアは新興国日本を甘く見て、どうせすぐ奪還できると考え、撤退時に鉄道を破壊せずそのまま残しました。

野戦鉄道提理部はレール1本移設で1067mmに改軌し、国内から機関車・車両を持ち込んで物資・兵員輸送し戦争を有利に進めました。 最終的に日本海海戦でバルチック艦隊を打ち破り戦争に勝利し、1905年戦後処理ポーツマス条約に基づき、満州租借権、支線を含む東清鉄道南部線の一部1,100余kmと炭坑等の経営権をロシアから譲り受けました。


1906年南満州鉄道株式会社を政府と民間半々の出資で設立しました。 『満鉄』の定款には鉄道事業に加え炭坑・製鉄・海運・市街建設・病院・ホテル・学校等広範な事業経営が含まれており、満州開発の中核的役割を期待されてました。 本社は大連に置かれました。

『満鉄』最初の大事業は傘下路線の軌間、ロシア敷設5フィート、その改軌1067mm、軍需軽便鉄道762mmの標準軌統一でした。 政府の3年以内の目標に対し、後藤総裁陣頭指揮で、1907年5月に着工し、翌年5月までわずか1年間で1日の運休もなくやり遂げました。 改軌後は車両を米国・英国から輸入して営業開始、開業前は赤字覚悟でしたが、石炭・大豆の貨物輸送収益で初年度から黒字、開業10年で貨物4.3倍、旅客3.5倍に伸びました。


満州は清政府からの租借でしたが、1912年辛亥革命で清が滅亡し中華民国が誕生、軍閥跋扈や抗日運動で政情不安が20年近く続きました。 この間に『満鉄』は輸入に頼ってた機関車を自社製造する様になりました。 国内で9600や8620が製造された時期からです。

1931年柳条湖事件(関東軍謀略が定説)を契機に満州事変勃発、日本は満州を占領し借物を我物にしました。 1932年、清再興の傀儡政権満州国を樹立(後年ソ連が東欧でした事)し、入植者を送り(現在イスラエルがしてる事)、満州開発を自らの手で始めました。

満州事変占領地域の鉄道約2,800kmを接収し、満州国建国時に満州国鉄とし、その運営は『満鉄』に任されました、路線長が一気に3倍以上なったのです。 『満鉄』は大連本社はそのままに中枢機能を満州国首都新京へ移転し、鉄路総局を奉天に設置しました。


『満鉄』は満州事変前から輸送力増強の為、国内の東海道本線に当たる大連-新京間701.4kmの連京線複線化に着手し、1934年に完成させてます。 同時に自動閉塞式の導入を進め、1933年に大連-奉天間、1939年に大連-新京間全線の自動閉塞式を完了させてます。

【『満鉄』路線網】
満州国駐留の関東軍は、1936年満州国とソ連(旧ロシア)共同経営の北満線1,732kmを接収して国鉄に編入し、鉄路総局が日本統治下朝鮮半島北部の鉄道も所管する様になりました。
1932年~1945年の満州国時代は、敗色濃厚になった末期を除けば『満鉄』が一番華やかな時代で、5,000km近い新線を建設して総路線長は11,000kmを越えました。

 

【ウィキペディアより】
満蒙開拓団として満州国時代に27万人が夢を抱いて渡満しました、長野県は2位山形県2.4倍の3.4万人を送り出し、8月には県内に関連ニュースが流れます。 『満鉄』は彼等を入植先へ運びましたが、入植者努力も『満鉄』40年の満州開発成果も敗戦で水泡に帰しました。


以上『満鉄』に係わる歴史を要約しました。 なおこの記事は筆者歴史認識に基づいて書いた物で、歴史認識について議論するつもりは全くありません、念の為に申し添えます。  


ではまた。

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